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第1話
「それじゃいってくるね。」
「今日はどっちに帰るの?」
「さすがに自分のところに帰るつもり。郵便物が溜まってそうだし。」
「了解。」
僕は哲平の家をあとにした。マンションの目の前の乗り場から路面電車に乗って街に向かう。
哲平とはつきあって2年。熱に浮かされたような時期はお互い通り越して、今は静かで安心する関係だ。
僕は調理学校を卒業した後、今の店に入った。
昼間のランチとカフェタイムを経て、夜はアルコールと気の利いた食事が楽しめる人気の店。提供するものも時間帯も幅広いから正直きついけど勉強になる。ホールの接客に加えて、中に入れば調理の手伝いもさせてもらえるから毎日何かと吸収していかれるし、いずれは自分の店を持ちたいと考えている僕には理想的な場所だ。
今日は16:00すぎにはあがれるだろう。職場に近いこともあってついつい哲平の家に帰ってしまうことが多い。
ただ定期的に自分の家に戻らないと郵便受けが一杯になってしまう。郵便物は少しだけど、ポスティングのちらしが溜まってしまうから。
以前大家さんから電話がきて、不在がちな人間が住んでいると知れたら防犯上問題があると嫌味を言われてしまった。
今だって一緒に住んでいるようなものなのだから引っ越しておいでと哲平が言ってくれるけれど、断り続けている。自分の逃げ場所がなくなってしまうような気がするから。
僕は自分だけの時間と空間がなければ生きていかれない。
哲平と一緒にいたくないとかそういうことではなく、常に誰かが傍にいるのは耐えられないと思う。息がつまりそうだ。
もし誰かと住むとしたら鍵のかかる部屋をひとつくださいというだろう。同じ屋根の下で不可侵の部屋をくれと言われていい気持ちのする同居人はいない。そこまでして一緒に住む必要もないし、何もかも誰かと共有するなんてことは考えられないから。
電車を降りて5分。大通りをはずれた中通に僕の働く店「Satie」がある。
エリック・サティが好きだからという理由でマスターがつけた名前だ。
カウンター8席とテーブルが8つのこじんまりした店内は居心地がいい。
少し沈んだ木目、ダークブルーのクロス、柔らかいスポットの灯り、壁にはブュッフェのドライポイントがかかっている。暖かい雰囲気の中にブュッフェのとがった黒いラインはピリっとしたアクセントになっていて僕は好きだ。
着替えをしてギャルソンエプロンをすると、いつもながら身が引き締まる。
僕はいつも1時間ほど早めに来て、店内のチェックをする。僕のいなかった時間を想像しなからドリンクの減り具合を確認して発注するものをリストアップする。ホールを掃除し厨房のセットをしてお湯を沸かす。冷蔵庫の中をみて昨晩作られたものを確認する。
マスターは皆と一緒の時間でいいのにというけれど、これは僕に必要な時間だ。
普段の僕は人見知りだし、笑顔を見せることが少ない。どちらかというとぶっきらぼうだ。不機嫌そうだとよく言われる。笑ってろ、せっかくの顔が台無しだぞと耳にタコができるほど言われ続けてきた。でもこうやって20年も生きてきたんだから、今更変われない。
でも仕事の時は別だ。僕は自分じゃない人間になる。ソフトで人当たりのいい笑顔でサービスできる人間を演じる。
お客様はそれが本当の僕だと勘違いしてしまうけれど、それでいい。それが理由の一つになってリピーターになってくれるのだから感謝しなくては。
一人で準備しているのは別の人間に切り替わる大事な時間だ。
「おはようさん、トモ。」
重さんがやってきた。
「おはようございます。」
「今日はトモが朝からいる日だったな。お前がいるとすぐ始められるから楽だわ。」
重さんはこの店の命である料理を生み出す人だ。
もう一人のスタッフであるマサさんはデザートやパンを担当している。僕はこの二人の補助をさせてもらって色々覚えている最中。
「何しますか?」
「トマトソースつくるから、裏ごししてくれか?」
僕はダンボールから大きなトマト缶を調理台に乗せ始めた。
「トモ、お前さ。ランチと夜のシフトに変えたほうがいいと思う。そうなったら俺も色々教えてやれるし、何より俺が楽だからな。」
僕も最近そう考えていたところだった。
「僕もマスターに相談しようと思っていたところでした。カフェタイムはおいおいでいいかなと思っていて。まずはランチと夜を覚えこみたいなと。」
「おう、久に言っとけよ。」
重さんの目が優しい。僕はホールと厨房を行ったり来たりしているから、どっちも中途半端な気がしていた。だから認めてもらえることは、今の僕にはとても大事なことだった。
「マスターおはようございます。」
トマトの裏ごしが終わるころ、マスターがやってきた。朝まとめたドリンクの発注リストを渡す。
「おはようさん。智、ありがと。今手あいてる?悪いけどコーヒーおとしてくれる?」
「打ち合わせですか?」
「あ~違うんだ、知り合いが顔だすっていうんだよ。忙しい時間帯にきたらハッ倒すぞって言ったらオープン前にくるってさ。どっちにしたって迷惑な話だ。重?これから来るから!」
「あいにく仕込みがあるから、久にまかせる。」
笑みを浮かべながら言うマスターはどうみても迷惑そうな顔をしていない。仲のいい人なんだろう。どうやら重さんと共通の知り合いのようだ。
コーヒーメイカーをセットしてカップを温める。デロンギのコーヒーメイカーからゴポゴポと音がし始めた。僕もこいつが欲しいけれど、家のキッチンは狭いから置いてやれる場所がない。部屋が狭くてもいいから広い台所が欲しい。
コーヒーが落ちる頃、ドアチャイムが軽い音を響かせた。
こちらに背を向けてマスターと向かい合う男は背が高くて細い。180cmくらいか?
身体にあった細身のスーツがさらに高くみせている。
僕はテーブルにコーヒーを運ぶ。マスターは知り合いをほっておいてレジのあたりでガサガサしている。探し物?マスターは探し物が下手だ。いくら知り合いとはいえ待たせてしまうだろう。
「マスター何を探してます?たぶんわかると思うので言ってください。」
急いでカップをテーブルにおいてマスターのほうへ向かおうとしたとき、背中から声が聞こえた。
「名前、なんていうの?」
僕は思わず振り返った。
黒い切れ長の目が僕に向けられていた。少し長めの髪を無造作に流している。
斜めからみた彼の顎から耳にかけてのラインが心をくすぐる。とっさにそこに鼻を埋めて、彼の匂いを知りたいという衝動が湧き上がり、動きが止まった。
テーブルの上にある指は細くて長い。彼は何もかも長いシルエットだ。
彼自身も長いのだろうか・・・
そんなことを考えている自分に狼狽する。たぶん僕の顔は赤いはずで・・・。
彼は静かにもう一度尋ねる。
「名前、なんていうの?」
強い視線に射すくめられて、怖くなって視線をはずす。彼の口元のあたりを見ながら答えた。
「智希で・・す。五十嵐・・智希。」
「トモキか・・・」
僕の名前を呟く口元。唇の奥に赤い舌が見え隠れするのを見た瞬間、身体の中心に熱が集まり始めたのがわかる。
神の啓示のような確信。
きっと、この人に抱かれる・・・
僕はもうそれ以上、この人の前にいられなくて逃げるように厨房に戻った。コーヒーをカップに注ぎ、熱いまま飲む。こんなことは初めてだ。
オープン前の慌ただしさに委ねて身体を動かし、少しずつ落ち着きを取り戻す。
ホールのみさとさんとアユちゃんが来たので、仕事に集中した。
店をあがるまでのあいだ、僕は意志の力で彼を締め出しておいた。そうしていないと、名前を呼んだ声、長い指と赤い舌先、そして射すくめるような黒い瞳がフラッシュバックのように目の前にすべりおちてくるから。
熱に浮かされているようだ、身体の中に熱がこもっている・・・
マスターとシフトの相談をして、希望どおりランチと中休みをとって夜にでることになった。今よりきつくなるだろうがしょうがない。飲食業はタフじゃないとこなせないから。
僕はそのままあがればいいのに、聞かないほうがいのに・・・聞いてしまった。
「今朝の方はマスターのお友達ですか?」
「ああ、あいつね、大学の頃の友達でさ。今大阪に住んでいるんだよ。札幌支店のプロジェクトの仕上げかなんかで来たらしい。」
「そうだったんですか。」
「久しぶりだっていうのにさ、子供が生まれたってお祝いをたかられたんだぜ、まったく。」
僕はまだグズグズしていた、いい加減にしないと不審に思われる。
でもまた聞いてしまった。
「今日大阪に帰られたんですか?」
「ん?」
さすがにマスターが不思議そうな顔をする。
「あ、いや、オープン前に顔だすくらいだから、早い時間の飛行機だったのかなと・・・」
「あ~忙しい時に悪かったね。」
マスターが納得したようで、僕は胸をなでおろした。
「1ケ月くらいいるんだから、何もあんな時間に顔ださなくてもいいのにな。昔から気まぐれな奴でね。絶対いる間に飲みにつれだしてやる。」
「二日酔いでこないでくださいよ。」
ようやく僕は笑顔をつくることができた。
店をでて自分の家に向かう。今日哲平の家にいかないことにしておいて本当によかった。
仕事のプロジェクトでここに来た
そんなことはどうでもよかった・・・
奥さんがいて子供もいる
それもどうでもいいことだった・・・
僕にとって重大なことは時間がないってことだ
たった4週間しかない・・・
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