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第34話 ジロウ

隣にいつも寝ていた好きな人に、足を絡めて寝ることが出来なくなった。 ひとりで大きなベッドに寝るのは「なんてなんて虚しいんだ!」と、毎日唸っているから、目覚ましが鳴る前に目が覚めてしまうんだ。 その俺の好きな人、リロンは今、駅の反対側にある老舗ホテルのスイートルームで、ジロウの姉であるクミコと、毎日寝起きを共にしている。 だから毎朝ジロウはコーヒーをテイクアウトし、リロンが滞在するホテルのスイートまで会いに行く。 恋人と離れ離れになったので、毎日会うにはこうやって努力するしかない。 「おっはよーう、リロン!今日は、カプチーノ買ってきたぞ」 リロンと朝から元気な姉にもカプチーノを渡す。 「ジロウさん、明日でしょ?大丈夫そう?手伝うことない?」 明日は引っ越しだ。もう業者にお願いしてるから特に何かすることはない。元々、持ち物は少ないから、引っ越し先は新しく購入したものばかりだ。 「うん、明日だけで終わらせるよ。業者が来てやってくれるから、すぐ終わるだろ」 「じゃあ、俺もそっちの手伝いする。明日の朝行くよ。クミコさん、明日は一日ジロウさんの方に行ってもいいですか?」 「ジロウ、明日引っ越しなの?OK!」 と、話が早いクミコなのでスムーズに決まる。だけど、ここに帰ってくるのは明日の夜と最短なスケジュールをサラッと組まれてしまった。 「明日の夜じゃなくて、明後日の朝リロンを連れてくるから…それでいいだろ?俺にリロンとの時間もくれよ!」 姉は相変わらず強引だ。それは知っている。大人しくしていると言いなりになるのでこちらも強引に伝える。 「…でね、クミコさんに教えてもらってる。毎日遅くまでやってるんだけどさ、本当に時間がもっと欲しいくらいだよ」 「なぁ、心配なんだけど…このままクミコがニューヨークにリロンも連れて行くって言い出しそうで」 「あははは、そりゃないよ。それはない」 スイートの一室でコーヒー片手に、アレもこれもと話をする。この毎朝の時間だけは誰にも邪魔されず二人きりになれている。時間にして15分ほどだ。 今日の午後は、リロンをビジネスの席にも連れて行くらしい。なんでもクミコの生活や振る舞いを見せて、リロンに吸収させようとしているらしい。 朝の日課としている15分のリロンとのスキンシップを終えたジロウは、チュッとキスをして、クラウドキッチンに向かった。 下野に貸りているクラウドキッチンは、リロンがクミコと滞在しているこのホテルから近くにある。 そこでは武蔵が毎日出勤し、デリカテッセンで販売する惣菜を作っている。 キッチンに入ると多くの人がいた。 フィエロで一緒に働いてくれるキッチンスタッフが、毎日日替わりでこのスタジオに来て、武蔵のサポートをしてくれている。 「ジロウさん!おはようございます」 既にキッチンで忙しく動き回っている武蔵から元気な挨拶を受け取る。 下野が経営するデリカテッセンに、フィエロとしてニ品商品を提供しているが、反響がよかったらしく、デリに並べる商品を増やして欲しいと、今週になって下野から話があった。 そのため、キッチンに人を増やしてデリに提供する料理をフル回転で作っている。 「今日のやつ、出来てる?」 「今日はですね〜、ホワイトアスパラのバッサーノ。トリュフソースをかけてます。後はいつもの定番のやつ。確認お願いします」 当初は慌てていた武蔵だが、大分落ち着いてきていた。それに武蔵は本当にタフな男だと感じる。状況に合わせてフットワーク軽く動けている。 料理もムラはなく安定していた。デリに出すものも、定番化しているものと、旬の素材を使ったものを意識して出している。 「…うん。美味い。ホワイトアスパラは旬のうちに多めに出しておこう。それと、フィエロのコースメニューをそろそろ決めよう。今日の午後は、スタッフ総出でここに集合するように伝えてある。開店まで何度か打ち合わせをするが、今日はその第一日だ。顔合わせも含めた打ち合わせとなるから、キッチンスタッフに伝えておいてくれ」 ジロウの声に武蔵は顔を引き締め、頷き、相変わらず親指を立てていた。 その日の午後、キッチンにはシェフ達だけではなく、ソムリエからフロアをお願いする支配人まで、勢揃いした。 久しぶりに見る顔もあり、何とも懐かしい。電話やメールだけで連絡を取っていた者とは、実際に会うのは今日が初だったりする。 下野と契約して貸りているこのクラウドキッチンは広く、フィエロのオープン準備をするのにもうってつけであった。 その広いキッチンでは、皆がジロウを期待している目で見ていた。 「皆さん、集まってくれてありがとう。久しぶりの顔もあり元気そうでよかった!これからフィエロを新しくオープンするにあたり、一緒に働いてくれる皆さんには、本当に感謝しています。以前は志半ばというか…準備不足で閉店させてしまい、本当に申し訳なかった。次は失敗させない。あの頃のフィエロ以上の店にするつもりです。これからオープンに向けて忙しくなりますが、一緒にフィエロを作っていって欲しい。そう思っています」 ジロウが皆の顔を見渡しながら、そこまで話をするとキッチンスタッフ達からヤジが飛んできた。 「ジロウさん!挨拶が固いよ!」 「イタリアの伊達男だろ?陽気にやりましょうよ!」 この声に一気に場が緩み、みんなの笑い声がクラウドキッチンに響き渡った。 「とはいえ!世界一の店、世界一美味い料理!そのフィエロで、もう一度働けるのは誇りですよ。ジロウさん、ありがとう!」 という武蔵の大きな声に、みんな賛同してくれていた。 「ありがとう!嬉しいな…みんなと一緒にもう一度フィエロをやれるのは本当に嬉しい。今度のフィエロは、俺と武蔵のWシェフをスタイルとする。だから、キッチンもフロアも2部構成みたいな感じとなる。みんなが余裕を持って仕事が出来て、余裕を持って料理を提供する。それが狙いだ。それと、今もう既に始まっているが、店の一階にあるデリカテッセンに、毎日フィエロの惣菜を提供する。それは、日替わりでキッチンスタッフにお願いすることになる。武蔵の指示に従って毎日のシフトとして動いて欲しい。新しいメニューの提案もあれば、俺と武蔵で判断してこのデリへの採用もある。キッチンスタッフが開発したメニューが並ぶチャンスだ。デリに出して、よければコースにも入れることも、もちろん検討する。これが俺の考える新しいフィエロのスタートだ。今までにない、他にはない店にするつもりなので、皆さんどうぞよろしくお願いします」 ジロウの挨拶に拍手が沸き起こった。 「よし!じゃあ、各自の持ち場に集まってミーティングしよう。キッチンは武蔵が中心になってくれ」 キッチンスタッフは活気がある。シェフは、前菜、パスタ、ピザやピアットやデザートのパティッチェーラの人まで揃っているので各自が持ち寄るメニューもあるようだ。 以前のフィエロでは、全てのメニューをジロウひとりで考えていたが、これからはそれぞれの持ち場のスタッフと打ち合わせをして決めていきたい。ワンマンはもうたくさんだとジロウは考えている。 キッチンとフロアの架け橋となる支配人をお願いする持田《もちだ》と、ソムリエの今井《いまい》の姿があった。 二人共、以前のフィエロ以来である。本当に久しぶりの再会だった。 「持田さん、今井さん。よろしくお願いします。また一緒に働いてくれると返事をもらって嬉しく思っています」 ジロウが二人に向かい挨拶をした。 「ジロウさん!またよろしくお願いします。武蔵さんも言ってましたけど、フィエロで働くのは光栄です。呼んでくれてありがとうございます」 そう言ってくれたのは、ソムリエの今井だった。ジロウと同年代の今井は、フィエロを辞めてから別の店で働いていたという。だけど、ソムリエを必要とする店と、その店の方針となかなか合うことはなく、今までは淡々と働いていたと言っていた。 「そうですよ、ジロウさん。あの時、ジロウさんのこと心配してたんですけど、復活出来て良かった。本当にそう思ってます。私も年をとりましたけど、任せてください。精一杯働きますのでよろしくお願いします」 続いて支配人をお願いする持田も挨拶をしてくれた。こちらはジロウより遥かに年上であり、頼もしい存在の人だ。キッチンもフロアもしっかりと取りまとめてくれるので、任せてくださいと言われると本当に心強い。 近況報告も早々に、持田から問題提起をされる。 「ジロウさん、問題はフロアのスタッフ採用が厳しいのが問題です。最近は、どこの店もアルバイトばかりになっています。なかなか人材が定着しないので、派遣会社に頼むところも多くあります。フィエロのような高級店では、レセプション、クローク、サービススタッフと必要かと思うので、その辺早急に決めた方がいいかと」 「うーん、やっぱりそうなんだな。そうなると派遣かな…持田さんと今井さんのポジションも、もう一人ずつ欲しいところなんですけど。ソムリエってどうですか?」 ソムリエの今井に話を振る。 「ソムリエはもう一人います。俺の弟子ですけど、もう充分やっていける奴なので、すぐに紹介出来ます」 「よかった。今井さん、それではソムリエは二人でお願いしたいので、紹介してください。よろしくお願いします。あっ、あとでキッチンスタッフと打ち合わせもお願いします。オープンメニューに合わせたワインも必要ですし。持田さんはどうですか?支配人クラスの人っている?」 「私の方も、もう一人います。かなり優秀な女性です。私の妻なんですけど」 持田が笑いながらジロウに伝えた。 「おおっ!それは心強い!是非、お願いしたいです」 持田の妻という女性は以前から業界では有名であった。フロアを回すのが上手く、数あるレストランから、引く手数多だと聞いている。 「じゃあ、ジロウさん。派遣会社の方ですけど、私が連絡とってみますよ。ちょっとどうなるかわからないですけど、いくつか当たってみて、ジロウさんと私と妻で面接してみましょう」 「ありがとう、持田さん。本当に助かります。店はもうちょっとで、出来上がるから、そうなれば常に店で全員が働けるようになります。だから、店の方が出来上がったら、そこで面接しましょうか。その時はよろしくお願いします」 店のオープンには沢山の人が関わる。いや、オープンの時だけではない、その後もだ。 キッチンで最高に美味い料理を作るのだけではなく、やはり、一流のサーブが出来てこそのフィエロだと思っている。それに今度のフィエロは2部構成になるため、シェフからフロアまでスタッフは、通常より倍の人に働いてもらう必要がある。 そう考えると問題、課題はたくさんある。オープンまでの時間もそこそこ減ってきて、めちゃくちゃ忙しくなっている。 だけど不思議と不安はない。 問題、課題はあるが、不安にはならず進んでいるように思う。ひとつずつ前に向かっていると感じる。

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