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第35話 ジロウ

髪に触れられ、撫でられた感触があり目が覚めた。目を開けてボケっと眺めると、目の前に笑った顔があるのがわかる。 「…リロン?」 「起きた?起きるかな〜って、願って撫でたんだけど」 以前、同じように寝ているリロンの髪を撫でた自分を思い出した。あの時、ジロウもリロンに起きて欲しいと願っていた。同じことを考えているんだなと、寝起きの頭で理解し感動する。 「えっ?今、何時?」 「あはは、朝の6時」 「はあ?早っ!」 「待ちきれなくてさ…来ちゃった」 ああ、嬉しい。疲れなんて吹っ飛ぶとはこんなことなんだとジロウは思った。 リロンの腕を引っ張ってベッドの中に引き摺り込む。朝から、あははと二人で笑い声を上げた。それも久しぶりだった。 「リロン?やっぱり、俺はお前が好きだ。愛してる」 「やっぱりって何それ?毎日聞いてるよ?それなのに、何でやっぱりなんだよ」 リロンの言う通り、毎日会う度に『愛してる』と伝えていた。 「毎日思うんだよ、ああ、やっぱり好きでたまらないって。だから仕方ないだろ?」 「変なの!」と、リロンはゲラゲラと笑っている。「うるせぇよ」と、ジロウは言いリロンの首にキスをした。 首筋から唇、頬やおでこにキスをしまくる。毎日、隙を見てキスをしていたが、こうゆっくり気持ちのままキスをすることは久しぶりだ。 「…ダメだよ。セックスはしない」 「なんでだよ…時間あるだろ?引っ越しの業者が来るのは9時だぜ」 「それでも、ダメ。ヤッてましたって顔を業者の人に見られるのが嫌だ」 「まぁ、そっか。じゃあ…引っ越した先の部屋でならいい?」 「そっちなら、いいよ」 なんだよ、おあずけかよと、ジロウはまたリロンを抱えてベッドの上で戯れ始める。 「なぁ…リロンの方はどうなんだよ」 気になるところだった。 毎日、話は聞いている。クミコのニューヨークでの新しい店に来るシェフの面接にもリロンは立ち会っているかと思えば、クミコのヘアサロンやネイルサロンにも付き合っているようだった。姉が何をしたいのかよくわからない。 「昨日はね、立ち食いそば食べたよ。美味しかった。コロッケをお蕎麦に入れるんだ。最初は、ウゲェって思ったけど案外美味しいんだなってわかった」 「立ち食いそば?マジかよ…この前は高級フレンチ行ってたじゃん」 「食べ物はね、毎日違うよ。クミコさんがその時に食べたいものだけど、高級レストランもあれば、スーパーのフードコートだったりもするし…夜中に突然、コンビニ行こう!とか誘われたりする。服装もね、スーツだったり、ジーパンだったり…その時のクミコさんの思いつきで着替えて行くこともあるんだ」 「…何がしたいんだよ。クミコは話し相手が欲しいのかよ。やっぱり戻ってくるか?そんな所にいてもしょうがねえだろ?」 「あははは、ジロウさん。あの人は俺を鍛えてくれてるんだって。毎日、寝る前にめっちゃ考えちゃうんだから。今日一日何したかって、ひとつでも忘れないように全て思い出して、考えてから寝るからちょっと寝不足だよ」 着せ替えをさせられて、クミコの思いつきで連れ回されているのに、リロンは楽しそうに日々のことを思い出して話をする。クミコがリロンの何を鍛えてるってんだ。 不貞腐れて、ベッドの上で仰向けになり、頭の後ろで手を組んで考えていると、リロンに上から覗き込まれた。 「そっちはどうなんだよ。ジロウさんは?武蔵さんと上手くやってる?キッチンスタッフとかフロアスタッフとか、みんなをまとめるの大変じゃない?」 「うん、大変だけど不安はないよ。前はさ、俺がひとりで何でも決めてきたけど、今回はそれぞれのセクションに基本的に任せるようにする。もちろん、任せっきりにはしないから最終判断は俺がするけどさ。だけど…まぁ、問題や課題は多々あるな」 「大丈夫?後、どれくらいだっけ?」 「オープンまでは2ヶ月を切ったとこかなぁ。今度のフィエロはさ、俺と武蔵のWシェフじゃん。だから、全体的に従業員も倍の人数が必要なんだよ。だけど、キッチンスタッフは万全の体制になった。これは本当に有り難い。以前働いてくれてた人がほぼ戻ってきてくれたからさ。それと、ソムリエもそう、二人働いてくれることになった。あと、支配人も。支配人なんて夫婦でやってくれんだぜ。伝説の夫婦なんだよ、すげぇぞ、フロアとキッチンをバシバシ捌くから。だから…後はフロアスタッフかなぁ、問題はそこかな」 「ああ、そっか…クミコさんと食事に行くとそれは感じる。どこもフロアで接客する人は、入れ替わりが早いなって印象だよ。まぁ、食事だけじゃなくて他も接客は同じ印象だけどね」 「そうか…今はそうなのかな。だから、バーシャミではお前がオーダー取って、俺が作るのが盛り上がったんだろうな。接客って大事だから、お客さんにもそりゃ伝わるよな」 「バーシャミでは俺もジロウさんと一緒に暮らしてたからさ、マニュアル通りで働くって感覚じゃなかったじゃん。だから、やっぱりその辺なんだろうね。どんな人でも、そこで働くっていうのが大事なのかな。淡々と時間や給料で動くじゃなくてさ。お客さんは見てるよね」 サービスは大事だ。マニュアル通りにやれるのがベストだと思うが、そればかりではない。何事もそつなくこなせるのはいい事だと思うが、機械やAIのようであるのはつまらない。人生で大切な食事には、人それぞれちょっとずつ違ったマナーがあると思うからだ。 例えば銀食器が苦手な人や、玖月のように少し潔癖症な人、それに食材の好き嫌いなど、色んな人がいる。その全ての人に同じマナーを強要するのは難しい。 機械やAIではその微妙なニュアンスは汲み取れない。かと言って、時間で働くと割り切る人には、ニュアンスを汲み取れとお願いすれば出来るが、お願いしたこと以上を求めるのは難しいように思える。人に対して期待しすぎなんだろうか。 「…難しいよな。でもな、不安はないんだよ。それは、お前がそばにいてくれるのが大きいんだと思うんだよな。だから早く戻ってきてくれ」 ジロウはもう一度リロンを抱きしめた。味覚障害は、リロンが近くにいてくれれば不思議と心配はない。その他の問題や課題も残るが、何とかなるだろうと思っている。 それにリロンにキスをして、リロンの匂いを身体いっぱいに吸い込めば、ジロウの味覚と、ジロウ自身も迷子にならないと思っている。 「ははは、何だよそれ。大丈夫だよ、ずっと隣にいるからさ」 リロンは知っているのだろうか。ジロウが味覚障害だったこと。まぁ、そんなのどっちでもいいか、たいした事じゃないし。 いつか時間があったら伝えようと思う。

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