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第36話 ジロウ
引っ越しをした新しい家は、バーシャミから徒歩圏内である。
賃貸マンションだから今までのところよりは狭い。だけど、キッチンは付いてるし、バスルームもあるし、二人で暮らすには充分だ。
引っ越しの荷物は少なかった。ベッドもランドリーも全て前の家に残し、新しいものを買い直しした。
だから新しい住居に届くベッドやランドリー、冷蔵庫、それと細々としたキッチン用品や日用品などが、次々と届く。それを、リロンと手分けをして受け入れ、設置の指示をし、何とか無事引っ越しは完了した。
「前のところより狭くなっちゃったけど。ここはひとまずって感じで引っ越してきたから、この後、ちゃんと家を探すから待っててくれ。前のところみたいに一軒家にしようか。とりあえずキッチンとバスルームを広く作りたいよな」
新しい家のキッチンで料理をしながらジロウはリロンに伝える。
「ちょっと!ジロウさん、不思議だったんだけど、お金あるの?大丈夫?フィエロでも莫大なお金がかかってるだろうし、従業員だってかなりの人数がいるでしょう?お店をオープンさせるのって相当お金は必要だから…それにこの引っ越しもあって…あっ!クミコさんに損害賠償としてあの家を渡してるのもあるじゃん。絶対、お金ないはず!俺が何かやって稼がないと…」
「なっ、なっ、何をやるっていうんだ!ダメ!ダメダメ!今だって離れて生活してるだろ?それなのに何かやって稼ぐとか言わないでくれ。金?そんなの大丈夫だよ、あるから」
話が食い違っている。リロンはジロウが多くの借金をしてフィエロをスタートさせたと思っていた。そんなことないのに。
リロンの好きなカチョエペペを作った。リロンに初めてジロウが作ったパスタだ。
「勘違いしてるようだけどよ、俺は不動産持ちなんだよ。クミコもそうだろ?うちはそれぞれ持ってる不動産がポロポロあって、今回はそれをちょっと売ってフィエロの資金に充てた。借金なんてしてねぇよ。フィエロをスタートさせても資金繰りで困るようなことにはならないから安心しろ」
「うっそ…ジロウさんがお金持ちになんて見えない…」
「お前…失礼だな」
新しい家にもテレビは置いていない。タブレットやパソコンはあるし、必要だったらそっちで見れる。それに、二人でいるとそんなもの見てる時間もないほど、話が尽きない。今のように。
リロンはまだブツブツと言っている。「マジか…経済力あるの?」「いや、やっぱり俺もやらなくちゃ」「ジロウさんにだけ任せておけないし…」と。
このリロンの発言にジロウは驚いていた。リロンに成長を感じる。
会った時は、自分の身の振り方さえもわからなくなり、消えそうなくらい心身共にボロボロになっていた。
物の価値や、一般的といわれるようなこと、働くことなど、リロンは何も知らなく、考えられなかったと思う。
それが今では、収入、支払、経営、と考えている。お金の流れなんて興味もなかったはずなのに。
それに、何とかジロウを支えようとしてくれているのがよくわかる。これは、クミコの近くにいて学んだことだろうか。クミコは、リロンに一般常識や経営の何かを身につけようとしているのだろうか。
パスタの後は、ホットケーキを焼いた。
赤い箱に入っているホットケーキの粉から、甘い匂いがしている。
リロンもキッチンに近づいてきて眺めている。
「わぁおっ!ホットケーキだ、やったぁ!食べたかったんだ。ジロウさんに作ってもらいたかったんだ」
「ホットケーキ?どれもパンケーキだろ?英語じゃそう言うし、同じじゃん。膨らみ方が違うだけだろ」
ジロウは甘いものが苦手なので、ホットケーキミックスというものの存在を、リロンから教えてもらい知った。
スーパーに置いてあるものは『ホットケーキ』とか『パンケーキ』とか種類があるようだ。
英語ではそれら全てパンケーキと呼ぶので、ややこしいなと思っている。
「こんがりきつね色で膨らみ方が薄いのがホットケーキだよ。日本のホットケーキ大好き!」
「あっそう?まぁ、このきつね色は確かに美味そうだよな。下野さんの相手にあげちゃったから、あの後、俺はこれを買いに行ってたんだぞ」
リロンが嬉しそうな顔でホットケーキの焼き上がりを待っている。
「下野さんって言えばさ、俺とクミコさんはしょっちゅうあのデリカテッセンに行ってるんだ。でさ、あのデリで下野さんにこの前会ったんだよ」
ホットケーキが焼き上がった。こんがりきつね色だ。バターを真ん中に落とすと、たら〜っと熱で溶け始めている。シロップを垂らすとホットケーキにヒタヒタと甘いシロップが浸透していくのがわかる。それに部屋中甘い匂いになっていた。
そのホットケーキをテーブルに並べる。リロンはフォークとナイフを持ってワクワクしているようだった。
「あっ、でね。下野さんに会ったからさ、つい、ホットケーキ作れました?って聞いちゃったんだけど『まだ家にあるよ』って言ってた。あの人とは一進一退のようだね」
「あのおっさんは恋愛拗らせてるからなぁ。もう何年だろう…あの人のこと一途なんだけど、なかなか上手くいかないみたいなんだよな。雰囲気はいいのによ」
下野との付き合いは、バーシャミがオープンした時からだ。その頃から下野とあの人のことは見てきている。
「おっさんなんて言わないでよ!下野さんは、おっさんじゃないでしょ。ジロウさんと同じ年くらいじゃん」
「いーや、俺より年上です。よく見ろよ、あんな強面だせ?」
「強面なんて関係ないじゃん。あの人は裏表がない人だよ。気持ちいいくらい、感じのいい人なんだから」
「お前の口から他の奴の話が出ると、何だかムカつく…」
ホットケーキを頬張って食べているリロンが、ジロウの方を向き笑い始めた。
「バカだなぁ、ジロウさん。俺が愛してるのは、あなただけなのに。あははは」
「えっ…えっ!えーっもう一回言って?」
ゲラゲラと笑うリロンを、新しいベッドでは押し倒してやろうと思う。
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