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第9話
神妙に黙り込む遊輔に何を思ったか、薫が軽い調子で提案する。
「次は遊輔さんも一緒に撮りませんか、黒猫の被り物用意したんですよ」
「やだよ痛い」
「そんなズバッと……」
「顔隠すだけなら紙袋でもプラのお面でもいいのに、出っ歯うさぎのきぐるみとかどーゆーセンスだよ」
「『バンダースナッチ』は『鏡の国のアリス』に登場する怪物じゃないですか。読んだことは?」
「忘れちまったね」
知ってしまった以上知らんぷりできない。だからこそ勅使河原の本性を暴き、世間に広く知らしめた。勅使河原は芸能界に居場所を失い、警察に逮捕され、家庭も崩壊する。
「世界中のシャーリー・テンプルたちに乾杯」
「……乾杯」
薫が二杯目のカクテルを作り、遊輔のグラスとかち合わせる。涼しげに澄んだ音が鳴り、氷山の一角が沈む。
「じゃあ薫くん、酔っ払いの後始末よろしくね」
「了解しました」
二時間後、看板のネオンが消える。
「よっと」
ドアに掛かった看板を『closed』に裏返し、流行歌を口ずさんで退勤するママを見送ったのち、片手にバケツ、片手にモップを下げて店内を見回す。
「眼鏡したまま寝オチですか。こりない人だな」
『バンダースナッチ』の作戦会議は大抵の場合、営業時間終了後の『Lewis』で行われる。
とはいえ肝心の相棒が酔い潰れ、高鼾をかいてたんじゃどうしようもない。
「薫~おかわり~」
「今日の営業は終了しました」
「ケチ」
空のグラスを掴んでねだる遊輔を放置し、床をモップで擦る。
カウンターに面したスツールを一列に揃え、等間隔に並ぶテーブルを綺麗に拭き清め、英語のラベルが貼られた酒瓶を棚に戻す。
薫は遊輔とふたりきりになれるこの時間が一日の中で一番好きだ。
てきぱき雑用をこなしながら時折ちらりとカウンターに目をやり、彼がそこにいる事を確認し頬を緩める。
清掃終了と同時にブリキのバケツにモップを突っ込み、遊輔の隣のスツールに腰掛ける。
「ご苦労さん」
「お話してくださいよ」
「何を」
「何でもいいです」
貴方が感じた事、考えてる事ならなんでも。
カウンターに片頬付けた遊輔が、鼻梁にずれた眼鏡越しに虚ろな視線を投げてくる。
「昔々、もう何年も前の話」
「はい」
「テレビを見てたらニュースが流れた。無職の男が同居中の親父を殴り殺したんだ。親父は七十代で男は三十代。息子の名前は登る夢と書いて|登夢《とむ》。父親に働けって言われてキレた、それが動機」
「DQNネームですね」
そんな名前を付ける毒親だから、殴り殺されても当たり前だというのだろうか。
しかし遊輔の見解は違った。
「夢に登るって書くんだぜ。生まれてきたガキの幸せ願って付けたって、字を見りゃわかんじゃん」
殺された父親が付けたかどうかはわからない。真実はきっと永遠にわからない。
「―で、思ったわけ。この名前を付けた時、出生届に書き込んで区役所に提出する時、この爺さんは大人になった息子に殴り殺される日が来るなんて絶対考えちゃいなかったんだろうなって」
「…………」
「同じこと考えたヤツ何人いのかな」
遊輔さんだけかもしれませんよと告げる代わりに、限りなく優しい声で囁く。
「名前負けしちゃったんですね、その人は」
「嫌なら変えりゃよかったんだ」
実にささいなこと。
取るに足らないこと。
なのに忘れられない。
「だからせめて、俺だけは覚えとこうと思った」
覚えていたところでどうにもならない。
手遅れだとわかっている。
「俺はいい名前だと思った。そんだけ」
そういうことを書いて、届ける人間になりたかった。
取るに足らないとして見過ごされてきた事件の端っこを、本当は核に近い所にあるかもしれない心の取りこぼしを、自分が書いて届ける事で救われる人間が、この広い世界のどこかにきっといるはずだと信じていた。
あの頃はまだ。
遊輔の話を聞き終えた薫は、さりげなく片手を翳し彼の髪をなでる。
「遊輔さんの名前の由来は」
「ババ抜き」
「はい?」
「お袋がお水でさ。候補が何人かいたもんで、常連の名刺コレクションから選ばせたんだよ。赤ん坊の俺がたまたま掴んだのが裕輔。さすがに一字変えたけど」
「作り話でしょ」
否定も肯定もせずふてぶてしく笑い、間延びした寝息を立て始める。薫が入れ違いに腰を浮かす。
「風邪ひきますよ」
「ん……」
軽く肩を揺するも遊輔は目覚めない。眉間にぐずるような皺が寄り、眼鏡がさらにずり落ちる。
唇は乾いて荒れていた。噛み癖があるせいで少し切れてる。親指をかけて少しめくり、ふくらみを辿る。
店には誰もいない。
肩を掴んだ手を剥がし、磨き上げたカウンターに突き、無防備すぎる寝顔を間近で覗き込む。
こめかみに唇を寄せ、啄む。次いで頬に移す。遊輔がくすぐったげにもぞ付き、スツールが小さく軋む。
まだ大丈夫。
ゆっくりと上にかぶさり、注意深く肩を押し、薄く開いた唇に唇を触れ合わせる。
熟柿の匂いがする吐息を飲み干す。
酒と煙草の味。
しどけなく仰け反る首筋と尖った喉仏が、はだけた襟元から覗くシャープな鎖骨が、仄かに上気してしっとり汗ばんだ肌が理性を散らす。
誘惑に抗えず、引き締まった首筋に手を添える。
少し速い脈と体温を感じた。
さらに大胆に両手を回し、無抵抗な遊輔の頸動脈を押さえ、前屈みに尋ねる。
「遊輔さんは、好きな人に首絞められたことありますか」
もうすこし力を込めれば窒息し、あっけなく死ぬ。この人を殺し、俺の物にすることができる。
「……ッ」
体がどうしようもなく火照って疼く。今日は自ら運転し遊輔を迎えに行ったから、なおさら高揚を抑えがたい。
吐息を荒げ、興奮に慄き、スツールから滑り下りて跪く。
この人がほしい。しゃぶりたい。めちゃくちゃにしたい。仕事中はずっと我慢していた、カクテルを作り接客しながら彼に奉仕し抱き潰す想像に耽っていた。
痺れを切らして下半身に縋り付き、性急にベルトを緩めズボンを脱がしにかかる。
「ごめんなさい。ちょっとだけ」
ご褒美をください。
見返りをください。
あなたは何もしなくていい、ただ寝ていてくれればいい、そうしたら最高に気持ちよくしてあげます。
「んん……」
遊輔が眉間に川の字を刻んで身動ぐ。股間に顔を突っ込んでいざフェラチオを始める寸前、頭に手が置かれた。反射的に視線を上げ、驚愕に目を見開く。
スツールにもういない男が腰掛けていた。
フラッシュバック。
遊輔が薫の頭を押さえ込み、手の甲でじゃれるように首筋をなぞった瞬間、忌まわしい記憶が呼び起こされた。
罪悪感と羞恥心に塗れたまま遊輔を支え外に連れ出し、愛車の助手席に押し込む。
「駅まで送ります」
「終電出ちまったよ」
「じゃあアパートに」
「追ん出された。家賃滞納で一週間前に」
「は?今までどうしてたんですか」
「ネカフェの個室や女の部屋に転がり込んで……」
最後まで聞かずドアを叩き閉め、シートベルトを掛けてエンジンをふかす。仕方ない。
バックミラーの向きと位置を微調整し、体重かけてアクセルを踏み込む。
「十分で着きます。俺のマンションに泊まってください」
バックミラーに映った遊輔が片目だけ開け、呟く。
「大麻とか栽培してる?」
「人聞き悪い」
「風呂でワニ飼ってる?」
「コインロッカーベイビーズじゃあるまいし」
「俺の肉は筋張ってて美味くねえぞ」
それ以上戯言には付き合わず、スマホのボリュームを最大に上げて音楽をかける。以前遊輔に教えてもらった七十年代のブリティシュロックだ。結構ハマっている。
遊輔が寝ぼけたまま革靴の爪先で拍子をとっていた。薫も調子を合わせ鼻歌を口ずさむ。
十分後に薫は帰宅した。現在彼が住んでいるのは世田谷の一等地にたたずむタワーマンションの二十二階。
エントランスのスロープを下り駐車場に車を止めたのち、エレベーターで部屋に赴く。
鍵をさしこんで回すと真っ暗な廊下が出迎えた。遊輔を抱き直して引きずり、リビングのソファーに寝かせる。
「毛布持ってきますね」
既に熟睡しており返事はない。肩を竦めて一旦離れ、また気が変わり戻ってくる。
遊輔の顔に手を伸ばし、慎重に眼鏡を外し、弦をきちんと畳んでテーブルに置く。
もともと若作りな方だが、ばらけた前髪が垂れかかる素顔は目元の険が和らいであどけないとさえいえた。
足早にリビングを横切り、廊下を通って突き当たりのドアを開ける。そこが薫の私室だ。
ベッドに敷いた毛布を取ったのち、四面の壁を埋め尽くす夥しい写真を振り仰ぐ。
「さすがに見せられないな」
薫の部屋には盗撮した遊輔の写真が貼られていた。
ファミレスのテーブル席で原稿を書く遊輔、雑居ビルの入口で誰かを出待ちする遊輔、けばい女とラブホに入っていく遊輔、駅のホームで電車を待ってる遊輔、コンビニで週刊誌を立ち読みする遊輔、終電の車内で大股開いて爆睡する遊輔、パチンコ台で銀玉を弾く遊輔、競馬場で贔屓の馬を応援する遊輔。
防犯カメラの映像を引き伸ばしたピンボケ写真や、高校の卒業アルバムの個人写真まであった。
今を遡ること十四年前、高校時代の遊輔はセロテープでフレームを補修した眼鏡をかけ、腫れた頬と切れた唇の端に絆創膏を貼り、制服をだらしなく着崩している。
毛布を持ったまま正面の壁に歩み寄り、咥え煙草で歩く遊輔の写真を恍惚と潤んだ瞳で見詰め、この上なく愛おしげに触れる。
「やっぱり。三年前から変わってないや、眼鏡」
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