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第16話

フェアリーフェラーは鼻歌を唄っていた。 豪邸の地下はシリアルキラーのプライベート空間。犯行時に壁や床に飛び散った血は拭い、シーツも取り換え、完璧に証拠隠滅をした。 ベッド正面の壁には『お伽の樵の入神の一撃』と題されたリチャード・ダッドの複製画が掛けられている。 リチャード・ダッドは十九世紀ヴィクトリア朝の画家であり、英国の妖精伝承にちなんだ絵を数多く発表した。 シェイクスピアの戯曲に登場する女王ティターニアと悪戯好きな下僕パックを描いた絵でも高い評価を受けたが、とりわけ批評家が眼目を置いたのは精神病院……通称べドラムに収監後、十一年の歳月を費やし完成に漕ぎ着けた本作だった。 厚塗りの油彩画に猥雑に犇めく妖精たちはいずれも個性に富み、しかし誰もが同じだけの緻密さで描き込まれることで背景の一部として埋もれ、胡桃を断ち割るべく斧を振り上げる木こりを取り巻く。 『フェアリー・フェラーの神業』はダッドの絵にインスピレーションを得、書かれた曲だった。 開幕から錯綜した旋律に乗り、タップダンスでも踏むように次々登場する妖精たち。 木こりが胡桃を断ち割る瞬間を見届けるべく待ち受ける鋤車引きのウィル、管楽器を吹き鳴らす政治家と上院議員。しかめ面の学者は半信半疑に眼鏡を上げ、半人半獣の好色なサテュロスは女がよそ見したのを幸いとスカートの下に潜り込む。 ハンサムな青年が乳絞りの女を口説いてのしかかり、若く美しいニンフが蓮っ葉な野次を投げる。 温度差ある観衆の視線に我関さずと斧を振り上げる木こりは、孤高の威厳にあふれていた。 ダッドの複製画はフェアリー・フェラーにとって、生贄を捧ぐ祭壇で仰ぐべき|聖画像《イコン》だった。 「なんて身勝手な連中だ 有象無象が寄り集まって 運命の響きを待ち侘びる」 部屋に渦巻く音楽の盛り上がり最高潮に達し、月夜の狂騒劇の全貌が鮮やかに描き出され、妖精の木こりに成り代わった全能感と高揚感に心が弾む。 防音仕様の地下室に居座り、お気に入りの曲を聴きながら道具の手入れをするひとときをフェアリー・フェラーは愛していた。無味乾燥な一日の中で本来の自分に戻れる貴重な時間。 油が染みた布で丹念に磨き上げ、心ゆくまでひねくり回し、輝きを取り戻したのを確認後傍らに置く。血の汚れは丁寧に洗い落とした。 恍惚と潤んだ瞳で苦悩の梨を愛でる。 試しに螺子を巻けば鉄の房が軋りながら花開き、禍々しく照明を弾き返す。 苦悩の梨の名前を初めて知ったのは小学四年の時、父の書斎で読んだ本。 父は大学で中世欧州の歴史を教えており、書斎には魔女狩り関連の文献がたくさんあった。 小学四年の夏休み、父の書斎に忍び込んだ体験が運命を変えた。 忍び込んだ理由は覚えてない。きっと取るに足らないこと、ボールペンのインクが切れたので新しいのを借りに行ったとかそんなくだらない動機だ。 主が不在の書斎の机上には一冊の分厚い本が開かれていた。父が専攻していた中世欧州史の研究書だった。 たまさか目を落としたページに掲載された版画では、変な帽子を被った男が、後ろ手に括った女を火あぶりにしていた。水車に縛り付け水責めにしている絵もあった。 気付けば小刻みに震える手を伸ばし、夢中で読み進めていた。 右に左に忙しく動く目で活字を追いかけ、生唾飲んでページをめくる。 めくる。めくる。加速する。水に沈められる女。鞭打ち。処刑人と拷問吏を兼ねる異端審問官。反対の手で股間をまさぐり、浅ましく息を荒げる。 天啓が下りた。 父は異端審問官のまねをしていたのだ。 先日学校の友達と下校中、親に怒られた時の話になった。算数のテストで五点をとった同級生は、罰としてゲーム機を没収された。幼稚園児の妹を泣かせた同級生はお尻を叩かれた。 通学路を占める集団の後ろを黙って歩いていた彼に、振り返りざま友人が訊く。 『お前は怒られたことねーの』 『あるよ。テストで五十点以下だとバチッてされる』 『叩かれるの?こえー』 『ううん、ちがうよ。バチッてくるヤツをお腹にあてられるんだ』 『何それ』 『みんなのうちにはないの?電気カミソリに似た……』 同級生たちが不思議そうに顔を見合わせる。 だから一生懸命説明した。 悪い点を取って帰ってくると、電気カミソリによく似たアレでお仕置きされるのだと。 結局誰からも共感を得られず、皆と別れ一人になった帰り道で疑問が芽吹く。 みんなはテストが五十点に届かなくてもバチってされないの? 髪を掴まれてお風呂に突っ込まれたりしないの? 家ではいけないことをするとそうされるのが普通だった。スタンガンを躾や体罰に用いるのが異常だと、当時は知らなかった。 よその親は分数の計算を間違えた子供を風呂に浸けたりしないということも。 どうして父がそうなったかはあの本が教えてくれた。 結論から言えば、父は異端審問官だった。 曰く、魔女狩りの対象となった魔女の中には男もいたらしい。苦悩の梨は|男色者《ソドミー》への刑罰として用いられたのである。 卑しい魔女は罰さなきゃいけない。 できるだけ苦しめて殺さなきゃいけない。 書斎の棚に飾られていた苦悩の梨のレプリカを思い出し、ズボンのジッパーを引き下げる。 「っふ、っふ」 水責め。 電流責め。 悪い子はお仕置きされる。 大音量のロックが鳴り響く地下室にて、ミュートにした動画を流す。パソコン画面で犯されているのは今まで手にかけた哀れな犠牲者たち、どれも夜の歓楽街で拾った若者。一人目は施設育ち、二人目は無戸籍、三人目は家出少年。後腐れない人選。 強く瞑った瞼の裏に、行きずりの自分を信用し、無防備に付いてきた青年たちの最期が浮かんでは消えていく。 男をたぶらかす悪い魔女は罰さなきゃいけない。 お仕置きしなきゃいけない。 娯楽の少ない中世において、魔女狩りは一種のショウだった。広場には薪がくべられ、磔にされた魔女が泣き喚く。火あぶりは見せしめ。広場を囲む大衆は石を投げ、口汚い罵詈雑言を浴びせ、神に背いた咎人の惨たらしい末路を嘲る。 妖精の木こりの神業を見届けに集まっておきながら、好き勝手に馬鹿騒ぎに興じる有象無象の野次馬の如く。 「はあっ、はあっ、はあっ」 被害者を凌辱・惨殺したベッドに腰掛け、犯行時の興奮を反芻しながらマスターベーションに耽る。 傍らのテーブルに置いたパソコンは、犯行の一部始終を撮った動画を流し続けている。#1の次は#2、#2の次は#3へ自動的に移行し、ループするように編集した。 外では人格者で通っている父の秘密を知ったのは中1の時。 小4で苦悩の梨と出会ってから、父の留守を見計らい書斎に忍び込むのが癖になっていた。 その日も帰宅後に書斎を訪れ、本棚におさめられた本を物色中、妖精大全と題された本を見付けた。 分厚い専門書が詰め込まれた本棚の下段右端、一番目立たない死角にひっそりしまわれた本は、お堅い父の好みと外れてる気がして食指が動いた。 胸高鳴らせページを開き、次の瞬間凍り付く。 妖精大全には数枚の写真が挟まれていた。どれも裸の青年を写したもの。ただの写真ではない、写真の若者たちは酷く責め抜かれていた。縛られ吊られ鞭打たれ、逞しい背中に蝋をたらされている。 フェアリー・フェラーは父の本性を理解した。 父の本質はゲイのサディストだった。結婚は家の存続の為、跡継ぎを作る為。息子への折檻は歪んだ欲望の捌け口。 倒錯した写真が封じられたページには、草叢に妖精たちが犇めくグロテスクな挿絵が載せられていた。 鋤車引き、政治家、上院議員、学者、サテュロス、恋人たち、ニンフ…… 全員と目が合い、頭が真っ白になる。 妖精の木こりが運命の一撃を振るい、フェアリー・フェラーの理性を破壊する。 コレクションが一枚消えていることに父は気付いただろうか。 わざと気付かないふりをしたのだろうか。 父秘蔵の写真を一枚くすねて机の引き出しに放り込み、夜毎見返してはマスターベーションに耽るのが、思春期に入ったフェアリー・フェラーの習慣となった。

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