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第1話

 大きな荘園のある町から川沿いの街道を歩いて半日、そこから山へ向かう道に入り、内陸の町を二つ通過して寂れた里山に入ったのは二日前だった。人がいなくなって久しいのか立ち寄った村は荒れ果てていて、朽ちかけた家がポツポツと立つだけの様子はひどく寂しい。  その中でも比較的まともそうな空き家を拝借し、これから挑む大仕事に向けての準備を始めた。 「明日には行けるか」  手にした鴉丸(からすまる)を鞘から抜き、椿油で灯した火に刀身を照らして確認する。  鴉丸(からすまる)は、天下一の刀師(かたなし)が一生に一度と精魂込めて作り上げた名刀だ。刀身は月の光のように静かに輝き、切れ味は鋭く、数代前の帝が大層お気に召して枕元にも置いていたというくらいで“濡れ羽の刀”とも呼ばれている。 「濡れ羽の刀とは、言い得て妙だな」  普通、刀というものは連続で斬り続けることはできない。血で滑り、脂で斬れ味が落ちるからだ。  しかし、この鴉丸(からすまる)はどれほど斬り続けても斬れ味が落ちることはなかった。それどころかますます斬れ味が鋭くなり、斬れば斬るほど月光のような刀身がドス黒い血で光り輝く。  その輝きが鴉の濡れ羽色のように見えることから、いつしか“鴉丸(からすまる)”と呼ばれるようになった。 「そしていまは鬼を斬る刀になったというわけだ」  二代前の帝の御代に、都を騒がせた大鬼がいた。その大鬼はいかなる刀や槍、弓矢でも傷一つつけることができなかったが、唯一この鴉丸(からすまる)だけが大鬼を退けることができた。  そのことから鴉丸(からすまる)は“鬼をも斬る刀”と(たっと)ばれ、鬼退治の刀、退魔の刀と讃えられるようになった。そんな刀を手に、俺はある目的を果たすため都から遠く離れたこの里山までやって来た。 「目指すは“山の高貴なる畏怖”か」  この寂れた村から入る蔽衣山(おおえやま)には、古くから鬼が棲むと言われている。昔は鬼神様と呼ばれ、この辺り一帯での信仰の対象になっていたそうだ。それがいつしか“山の高貴なる畏怖”と畏れられるようになり、次第に山伏たちの調伏対象になったらしい。  しかしどんな高名な山伏も“山の高貴なる畏怖”を退治することは叶わなかった。それどころか大勢の山伏や僧侶が打ち負かされ、いまでは遠く離れた都にまでその名が聞こえている。  そういう経緯もあってか「(ほふ)れば莫大な富を得られる」という話がまことしやかに広がり、各地から腕自慢を名乗る者たちが鬼退治と称して山に向かうようになった。なかには家を継げない公達までもが富と名声のために挑み、都では一種の度胸試しのようになりつつある。  その結果、蔽衣山(おおえやま)の鬼に返り討ちに遭う者たちが後を絶たず、そのことを憂いた帝より勅命を賜ることになったのが俺だった。 「鬼とはいえ、こちらが手を出さなければ害を成す相手ではないのにな」  都を騒がせる小鬼たちとは違い、蔽衣山(おおえやま)の鬼はこちらから手を出さなければおとなしいと聞く。そもそも山から下りてくることもなければ、自ら人を襲うことすらないのだ。  だから“山の高貴なる畏怖”と呼ばれるようになったのだろうし、こちらの勝手で山に入り荒らしているのだから返り討ちに遭うのは当然だ。それを「人に害を成す悪鬼だ」と喚く貴族のほうがどうかしている。  とは言え自分もその貴族の端くれであり、今回こうして鴉丸(からすまる)を携えて鬼に挑むことになった。  母上には泣いて止められたが、鴉丸(からすまる)を授かっている身としては勅命を断れるはずもない。「兄上様はひどいことをおっしゃる」と泣き崩れた母上を思い出すと胸が痛むものの、その母上の降嫁に先の帝が持たせたのが鴉丸(からすまる)だった。そうして鴉丸(からすまる)に魅せられて体を鍛えたいと思うようになったのが俺なのだから、これは運命だったに違いない。 「さて、寝るとするか」  多少旅の疲れは残るものの、胆力は十分。鴉丸(からすまる)の輝きも都を出たときより増しているように見える。 「“山の高貴なる畏怖”とは、どんな鬼なのだろうな」  鬼退治に行った者は誰一人として戻ってこないため、どんな鬼なのかさっぱりわからない。かつては神として敬われていた存在なのだから相当な強者(つわもの)には違いないだろう。  荷物を枕代わりにしただけの床に寝転んだ俺は、右の拳をグッと握り、改めて鬼退治への気持ちを奮い立たせた。 ・ ・ ・  村近くには多少道らしきものがあったが、少し分け入ると獣道とも言いがたい山道に変わった。道なき道を、ただひたすら頂上を目指して歩き続ける。噂では鬼の棲む建物は頂上付近にあるらしく、いまはそんなわずかな情報を頼りに進むしかない。  途中、湧き水で喉を潤し、ついでに町で手に入れておいた乾飯(かれいい)で昼飯を済ませた。満腹になっては体が重くなると思い、いつもの半分ほどの量にしておく。 「そろそろか」  空を見上げて陽の位置を確認する。日の出とともに山に入ったが、陽の傾きからして昼を過ぎたくらいだろう。周囲が随分と明るくなったのは、陽が高いということと同時に頂上に近づいているという証だ。  改めて気を引き締めながら土手のように盛り上がったところを越えると、急に目の前が開けた。そこには山の上とは思えない屋敷が建っていた。 「立派な屋敷だな」  鬱蒼とした木々や草が綺麗に刈り取られた場所には盛り土が施され、屋敷と呼んでもおかしくない建物が建っている。「こんな山の上にどうやって」と思いもしたが、そこは鬼、人外の力でいかようにもできるに違いない。 「……気配はしないか」  さすがに正面から堂々と入るわけにはいかない。裏手に回ったところで見つけた引き戸をそっと開け、音を立てないように中へと忍び込んだ。  ところどころ戸は開けられているが全体的に薄暗く、ここが鬼の棲家だと言われると妙に納得がいく。外観は貴族の屋敷のように見えたが御簾や衝立のような物は見当たらず、中はがらんとした状態だ。足音を立てないようにいくつかの部屋を覗き見たが、鬼はおろか獣一匹いる気配もない。  鬼は不在なんだろうか。だとすれば一旦ここを離れ、少し時間が経ってから再び来るべきか。そう考えて、「いや、それでは手間がかかりすぎる」と思い直した。  山を降りればここに辿り着くまでに半日はかかるし、夜の山は鬼以外にも危険が多い。春になったとはいえ山の夜は冷えるだろう。それなら屋敷内に隠れたまま鬼が帰って来るのを待ったほうがいい。  そんな考え事に耽っていたからか、背後から声がするまでその存在に気がつかなかった。 「おや、今度の盗っ人は立派な体格だこと」  振り返ると、場違いなほど美しい顔をした男が立っていた。いや、顔だけ見れば男だと気づかなかったかもしれない。まるで美姫のような顔立ちだが、俺とほぼ変わらない上背や漂う気配から男だとわかった。 「何度追い返しても、こうして新たな盗っ人がやって来る。人とは厄介なものですね」 「……ッ」  美しい男が小さくため息をついた。ただの世間話をしている様子だが、俺は背中に脂汗が流れ落ちるのを感じていた。  目の前の美しい男は間違いなく鬼だ。“山の高貴なる畏怖”と呼ばれる鬼に違いない。上背はあるがすらりとした痩身で、ここが都なら公達と言ってもおかしくない出立ちをしている。それでも鬼だと確信できる何かを放っていた。  予想外の姿に不意をくらって動けずにいた俺の眼前に、鬼の男は音を立てることなく一瞬で近づいた。 「おや、これはまた懐かしい都の香りですね」 「ッ!?」  身構える間もないままに首のあたりをクンと嗅がれた。たったそれだけのことなのに、まるで太刀の切っ先を首筋に当てられたかのような衝撃を受ける。 (俺では敵わない)  一太刀も交えていないが、鬼との力量の差を悟らざるを得なかった。しかも退魔の太刀を持ってしても難しいだろうと感じるほど大きな力の差だ。  これでは鬼退治に向かった者が一人として戻らなかったのも無理はない。たとえ鴉丸(からすまる)があったとしても使い手の力量が負けていれば敵うはずがない。そもそも神と崇められていたほどの鬼だ、人ごときが軽々しく挑んでよい相手ではなかったのだ。 (それでも……やらねばならない)  それが帝の勅命であり、母上と兄上のためでもあった。 (何としても一太刀浴びせねば)  兄上が叔父上から関白の地位を取り戻すには、俺が鬼を退治し帝に褒美を頂戴するしか方法がない。そのために俺は鴉丸(からすまる)を携えてこの地までやって来たのだ。 「近づくな!」  叫びながら後ろに飛び退き、鴉丸(からすまる)(つか)に手をかけた。  おそらく好機は一度だけ。二度目は確実に躱されるか、その前に俺の首が胴から離れているだろう。もしくは心臓をえぐり取られるか。  どちらにしても好機が一度しかないのは間違いなかった。 (それでも、せめて一太刀浴びせることができれば)  蔽衣山(おおえやま)に来る前、八幡大菩薩で鴉丸(からすまる)に加護をいただいた。かの有名な鬼斬の太刀に力を与えたという大菩薩の加護があれば、たとえ一太刀でも鬼を怯ませることができるはず。本当は鬼を完全に(ほふ)るための加護だったのだが、そうも言っていられなくなった。 (せめて腕の一本でも持ち帰れば、帝も願いを叶えてくださるだろう)  五代前の侘千帝(いちのみかど)の御世に、当時都を騒がせていた大鬼を退治した武士(もののふ)がいた。鬼の討伐隊を率いていた武士(もののふ)は名を嗣名(つな)と言い、見事大鬼の腕を斬り落としたのだという。貴族や都の民が安堵したのはもちろんのこと、侘千帝(いちのみかど)はいたくお喜びになり、腕を持ち帰った嗣名(つな)に過分すぎるほどの褒美を与えたと聞いている。  その後鬼の腕は御所から盗まれてしまったようだが、腕一本でも兄上に関白職をいただくには十分に違いない。兄上のため、というよりも、心を痛めている母上のために腕一本でも持ち帰らねばならないのだ。 (そのためにも、一太刀浴びせなくては)  それで腕を斬り落とすことができたならよし、できなくても隙を作ることができれば勝機を見いだせるはず。  そう思い、腰をグッと落とし両足の裏でしっかりと床板を踏み締めた。右手は鴉丸(からすまる)(つか)を握り、右足を踏み出し丹田にぐぅと力を込める。  ピンと糸が張ったかのような空気のなか、額にじわりと汗が滲むのを感じた。斬り込む隙を見極めようと鬼を見据えていると、鬼の口元が不意に緩まったのがわかった。 「よい体つきだとは思いましたが、正面から見ればなるほど……」  鬼の黒い目がじっと俺を見ている。その目までもが段々と緩んでいるように見えるのは気のせいだろうか。  一触即発の状態、少なくとも俺のほうはそれくらいの気持ちで対峙しているというのに、気を抜くとはどういうつもりなのか。 「鍛えられたその体、わたし好みでとても興味があります」 「なんだと?」 「だから、あなたの体に興味があると言っているのです。わかりやすく言えば、欲情しているということですね」 「……は?」 「そんな野蛮なものなど置いて、その体を堪能させてくれませんか?」  鬼の言葉に、俺は不覚にも呆気に取られてしまった。

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