床に落ちた小袿は金花のものだった。舞い上がった小袿が、俺の頬に傷をつけた何かを既(すんで)の所で妨害したらしい。母上は震えながらもしっかりと金花にしがみついているようだから、怪我はしていないだろう。 　そのことに安堵しながら視線を庭に戻すと、なぜか鬼がピタリと動きを止めていた。赤い目はわずかに見開いているようにも見える。 （まさか、金花の正体がばれたのか？） 　そう考えた途端に背筋を冷たいものが流れ落ちた。 　同じ鬼同士、わからないはずがない。しかし、ここで金花が鬼だと周囲に知られれば面倒なことになる。目の前に鬼がいるというのに、屋敷にも鬼がいたとなればますます混乱し大騒ぎになるだろう。 　俺は目の前の鬼を見据えながら、どうすればよいのか必死に考えを巡らせた。 「……これはまた、おもしろいものを見た」 　鬼がくつくつと笑いながら母上を、いや、金花を見ている。やはり金花の正体に気づいたのだ。 　鴉丸(からすまる)の柄(つか)になんとか右手を伸ばしたが、体は思うように動きそうになかった。しかし鬼を退けなければ金花のことが皆に知られてしまう。それ以前に鬼に狙われている母上の安全も保証できない。 　俺は必死に魂を奮い立たせ、両足の裏で床をぎしりと踏み締めた。腹の底にこれでもかと力を込め、奥歯をぎりぎりと噛み締める。 　次第にじわりじわりと体に熱が戻り、頭にカッカと血が巡り始めた。これなら一太刀、いや、母上たちから遠ざけることができるかもしれない。そう思いながら右手にぐうっと力を込めたとき、鬼が口を開いた。 「おもしろいものを見せてもらったことに免じて、此度(こたび)は引いてやろう。まぁ、そのうちまた見(まみ)えることになるだろうがな」 　ニィと笑った鬼が、最初に見たときよりも長く伸びた爪を舌でべろりと舐め上げた。助かったのか……鬼の言葉と態度に周囲がざわりと反応した。安堵したような気配が漂うなか、俺は爪に付いた血を舐める鬼から目が離せないでいた。 　舐め取った血は俺の頬をかすめたときのものに違いない。それを意味ありげに舐める鬼に、ぞくりと悪寒が走る。 　そんな俺にちらりと赤い視線を向けた鬼は、再びニィと笑みを浮かべたあとひょいと壁を飛び越えて姿を消した。突然の行動に、その場にいた誰もが呆気にとられた。 「……鬼を追え！」 　我に返った武士(もののふ)たちの声に、再び場が騒然となった。悪寒を無理やり押し込め母上の状態を確認した俺は、女房たちに大丈夫だと声をかけながら武士(もののふ)たちに指示を出した。 （念のため他の鬼がいないか確認したほうがいいか） 　そう考え鴉丸(からすまる)を持ち庭に出ようとしたとき、くいっと袖を引かれて足を止めた。 「頬のお手当てを」 　見れば、小袿を羽織った金花が袖を掴んでいる。御簾を避けるため少しばかり腰を落としているからか、いつもとは違う上目遣いに胸がずくんと鳴った。いや、上目遣いだけではない。わずかに薄桃色に染まった目元が、まるで閨事の前のように見えてしまったのだ。 　こんなときにそんな顔をするなと睨むが、金花の目は俺の頬に注がれたままで、ますます目元がふわりと色づく。 「お手当てを」 　声に艶が増したような気がした。たったそれだけで、鬼と対峙したばかりの高ぶる体は簡単に熱を上げてしまいそうになる。 （こんなときに……！） 　このままではまずいと思い、金花の手を引いて右往左往する女房たちの間を通り抜けた。そのままずんずんと歩き、人気のない部屋にぐいっと押し込んでから周囲を見渡す。ちょうど母上の居住区と俺の居住区の境だからか、女房たちは皆出払っているようだ。 　それでも念のためと思い、やや乱雑に御簾を下ろし几帳の奥へと金花を追いやった。 「どういうつもりだ。なぜそんな顔をしている」 「だから、頬の手当てをと言っているでしょう？」 「手当てをしたいと言いながら、なぜ淫らな顔をしているのかと聞いているんだ！」 　大声にならないように抑えながらも、荒げた声のまま問い詰めた。 「そんなに顔を近づけては、血の匂いに酔いそうです」 「血？　……あぁ、」 　金花の言葉と表情に、蔽衣山(おおえやま)での出来事を思い出した。 　唇を噛みしめたせいで出た血を舐めた金花は、鬼の本性が出てしまうと言いながら姿を変え、そのせいで激しく交わることになってしまった。あのときに伸びた髪はいまも長いままだ。 「あなたの血はわたしにとって御馳走のようなもの。たとえ小さな傷でも鬼の本性が抑えられなくなってしまうのです。屋敷で完全な鬼になってしまっては、あなたも困るでしょう？」 「わずかな切り傷だぞ？」 「鬼にとっては量など関係ありません。たった一滴でもわかるのです。そう、たとえばあなたが御所で同じような傷を負っても、わたしにはすぐにわかる」 「そういうものなのか」 「えぇ、半鬼と言えど、わたしも鬼ですからね」 　そう言いながら金花がすいっと身を寄せてきた。何をするつもりだと身を離そうとしたが、それより先に金花の両手が俺の後頭部へと回る。 「なにを……！」 「しぃっ、静かに」 　囁いた金花の紅い唇が近づいてきてギョッとした。動けないまま目を見開いていると、頬に熱く濡れたものを感じて再びギョッとする。 （これは、……金花の舌か！） 　舌で頬の傷を舐めているのだ。なぜそんなことを……そう思っている間も熱い舌が傷を舐めるせいか、ちりりとした小さな痛みが頬に走る。同時にわずかな伽羅の香りが鼻に入ってきた。 （これは……） 　ふわりとしていた伽羅の匂いが少し強くなる。これは金花の香りだ。着物に焚き染めた香だと思っていたが、もしかしたら金花自身の匂いなのだろうか。 　そういえば、交わっている間も伽羅香が強まるときがあった。この香りを嗅ぐと途端に頭がぼんやりとしてしまうせいで、いまも意識がふわりふわりと漂ってしまう。 「血は止まりました。あの鬼の爪に毒があったとしても、これで大丈夫でしょう」 「……毒、だと？」 「鬼の中には爪や牙に毒を持つものもいるのですよ？」 「そう、なのか」 　言葉は理解できるのに、ぼんやりした頭のままだからか返事をする声までもがぼんやりとしてしまう。 　そうだ、金花の匂いを嗅ぐといつもこんなふうだ。酒精に呑まれたようになり、そのせいで閨事の回数が増えるうえに、いつまで経っても逸物が落ち着かない。それを金花はうれしいと喜ぶ。 「ふふ、こちらも処理したほうがよければしますが？」 「……ッ！」 　不意に逸物を撫でられ、ぞくりとした快感が背筋を突き抜けた。慌てて腰を引き、ニィと笑う金花を睨む。 「そんな時間はない！　それに、これはさっきの鬼と対峙して気が高ぶっているせいだ！」 「ふふっ、そういうことにしておきましょうか」 　金花の美しくも淫らな笑みをひと睨みした俺は、とにかく周囲の確認が先だと部屋を出た。そのまま乱暴な足音を立てて東側の居住区へと向かった。