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第16話

 あの鬼が再び現れるのは同じ庭に違いない。そう目星をつけ、庭が見える場所に高灯台で火を灯し暗闇に包まれた庭をじっと見る。師匠は髭切を抱え、柱に背を預けて目を瞑ったままだ。まさか寝てはいないだろうが……いや、師匠なら寝ているかもしれない。  昔、俺がまだ半人前だったときに一度大鬼退治に連れて行かれたことがあったが、あのときも直前まで屯食(とんじき)を食べていた。師匠は鬼退治だといっても普段と何も変わらない。それが羨ましくもあり、敵わないなと思うところでもあった。 「お師匠は胆力の強い人ですねぇ」  気配もなく近づいた金花が、耳元でそっと囁いた。耳にかかる熱い吐息に胸がどくりと鳴ったのを悟られまいと思いながら、こくりと頷く。 「俺もいつかは師匠のようになりたいと思っている」 「カラギも同じくらい胆力が強いですよ?」 「師匠に比べれば、まだまだだ」 「そうですか?」  問いかけるように小さく吐き出された息が耳をくすぐり、背筋がぞわりとした。いつもの女房装束ではないというのに、金花の吐息を感じるだけで体がじんわりと熱を持つ。 (公達姿が初対面のときを思い出させて、どうにもよくないんだ)  あのときの快感はいまだに忘れられない。あれから何度も金花と交わっているというのに、最初のことを思い出すだけで体の芯がじくじくしてしまう。我ながらとんでもなく淫らになったものだと、ため息が漏れそうになった。 「ふふっ、カラギがかわいすぎて困ってしまいますね」 「……っ」  俺の小さな変化にすら気づくらしい。逸物はかろうじて兆していないというのに、金花の声はとろりと熱を帯びて俺をそちら側へと(いざな)おうとする。 「御所では駄目だと言っただろう!」 「わかっていますよ。けれど、カラギがかわいいから、つい」  ふふっと小声で笑う金花をぎろりと睨むと、金花が庭を見ていることに気がついた。俺も視線を向けたが当然そこには真っ暗闇しかなく、かろうじて俺たちの近くが高灯台の灯りでぼんやりと見えている状態だ。 「金花?」  なおもじっと庭の奥を見つめている金花に声をかけるのと、「ようやくお出ましか」と師匠の声が聞こえたのはほぼ同時だった。 「師匠、……ッ!?」  師匠の言葉を確認するため振り返ろうとしたが、庭の奥に異様な気配を感じて振り返ることができなかった。  咄嗟に鴉丸(からすまる)を掴んだ右の手のひらにじわりと汗が滲む。構えた体はそれ以上動かず、つつつと首筋を嫌な汗が流れた。 「ほう。おもしろい気配がすると来てみれば、あのときの武士(もののふ)ではないか」 「……ッ」  暗闇からぬっと出てきた赤い目に背筋がぞくりとした。気がつけば二、三歩後ずさりしていたようで、金花の腕に鴉丸(からすまる)を握り締めた右腕がこつりとぶつかる。 「ほう! こりゃまた大層な鬼が出たもんだ。なるほどなァ、弟子が手こずるのもわかる」  俺とは違い、師匠はいつもどおりの口振りで鬼に語りかけた。 「……その太刀は、髭切か?」 「ほほう。鬼の連中にも有名とはありがたいことだ」 「その太刀、都を去ったと聞いていたが」 「そうそう、(あずま)でのんびりしていたって言うのに、どこぞの鬼が御所で暴れたりするから呼び戻されちまってなァ」 「なるほど」  鬼の赤い目がぎらりと光った気がした。額の二本の角は暗闇の中でもぼんやりと光って見え、それがより一層不気味さを増している。 「これは興味深い。いやはや、鬼を脅かす太刀が二揃えもあるとはな。それに、下賤な輩まで揃っているときた」  鬼がニィと笑った。屋敷とは違い男の格好をしていても、鬼には金花の正体がわかるのだろう。 「なるほど、この前の羽根はおまえの仕業か。くっくっ、下賤な者が考えそうなことだ。しかし、あのお方の耳に入ればただでは済まぬぞ?」  鬼の言葉は金花に向けられたものだろうが、俺も金花も返事をすることはない。あの場にいなかった師匠には話の内容はわからないだろうし、下手に返事をして金花の正体が知られでもしたら大変なことになる。  くっくっと笑っていた鬼はニィと張りついたような笑みを浮かべ、ゆっくりと右手を伸ばした。 (何か来る!)  咄嗟に金花を右へと突き飛ばし、自分は逆のほうへと大きく飛び退いた。後ろにいた師匠は俺より早く勘づいたようで、ひょいと身軽く飛び退いたのを視界の端で確認する。  飛び退きながらも鬼を捉えていた俺の目に、ほんの一瞬、鬼の爪がぎゅんと伸びたように見えた。「あっ」と思ったときには鬼の指先から何かが飛んだように見えたが、あまりの速さに目で追うことができない。代わりにヒュンと空気を裂くような音が聞こえ、少し離れたところでガキンと何かにぶつかるような音がした。 「師匠!」  振り返ると、髭切で師匠が何かを切り捨てている。加勢しなくてはと思ったが、「来るな!」という叫び声ににグッと踏み止まった。 「ほう、斬れ味は落ちていないようだな」 「当たり前だ。代々手入れは欠かさなかったし、八幡大菩薩にご挨拶もしてきたからな」 「なるほど。しかし担い手のほうは昔のままとはいかないだろう? 人は我らより命が短い。あのとき髭切を振るっていた者は相当な強者(つわもの)であったと聞くが、すでにこの世にはおるまい」 「あー、そりゃ俺のご先祖様だな。なんだおまえ、棘希(いばらぎ)が都にいたときからいたのか?」 「噂に聞いただけだ。なるほど、あの棘希(いばらぎ)の腕を落とした者の子孫か」  いつの間にか元の長さに戻っていた爪を、ぺろりと真っ赤な舌が舐めている。そんな鬼と師匠の会話で、俺はようやく棘希(いばらぎ)という鬼のことを思い出した。 (そうだ、棘希(いばらぎ)嗣名(つな)が腕を斬り落とした大鬼の名じゃないか!)  師匠は貴族の身ではあるが、高明な武士(もののふ)の血を受け継いでいる。有名な退魔の太刀である髭切を受け継いでいるのはそのためで、当時髭切を携えていた嗣名(つな)と呼ばれる鬼討伐隊の隊長こそ師匠の先祖だった。  貴族からは煙たがれるだろうが、鬼退治をしてきた武士(もののふ)の血に誇りを持っている――そう話す師匠はとても眩しく、俺にも武士(もののふ)の血が流れていればよかったのにと何度も思った。 「ご先祖様も大したもんだなァ。鬼にまで名が知られているとは、子孫として鼻が高い」 「さて、子孫が同じだけの腕前を持っているかはわからんがな」  ニィと笑ったままの鬼が、今度は俺を目掛けて手を伸ばした。今度も長く伸びた爪が襲ってくるのだろうと考え、鴉丸(からすまる)を抜きながら後ろへと飛び退く。間合いを十分に取れば避けられない攻撃ではない。  しかし、俺に飛びかかろうとしたのは鋭い爪ではなく無数の黒いものだった。 「な、……ッ!?」  鳥か? いや、鳥にしては一つ一つがやけに小さい。それに羽ばたく音はなく、代わりに何かが擦れるような音が重なって迫ってくるのがわかった。 「これは、……蜂か!?」 (まさか、こんな夜更けに蜂が飛ぶとは!)  黒々とした塊は思ったよりも大きく、相当な数でこちらに向かってきていることがわかる。あんな小さい蜂を大量に一匹ずつ刀で斬って捨てることなどできるはずがない。  構えた鴉丸(からすまる)はそのままに、どうすべきか迷いながら黒い塊を見据えた。  ぶわり、ざざざざざーー!  真っ黒な塊が大きく広がったかと思えば、次の瞬間にはまた塊となって俺へと向かってくる。その羽音は凄まじいもので、音を聞くだけで首がぞわぞわと総毛立つほどだった。  これまで多くの鬼と対峙してきたが、蜂と向かい合ったことは一度もない。どう対処すべきか悩みながら抜いた刀身をぐぃと引いたところで、「身を低くして袖で頭を覆って」という声が聞こえた。  言われたとおり、咄嗟に地面に触れるほど身を屈め左の袖で頭を覆う。すると少し離れたところでびちゃりと何かが潰れる音がし、ざざざと響く羽音がそちらに向かうのがわかった。 (一体なにが……?)  袖の下から音のほうを見ると、金花の側に真っ黒な塊が近づいているところだった。それなのに平然と立っている金花に驚き「逃げろ!」と口を開きかけたが、少し離れた地面に何かが落ちているのが見えて口を閉ざす。  しばらくするとふわりと甘い匂いがしていることに気づき、それが枇杷の実だということがわかった。 「……枇杷とは、用意がいいな」 「御所へ来る前に、どなたかの屋敷の庭先に熟れた枇杷がありましてね。カラギと食べようかともいできたのですが、役に立ったようですね」  赤い目の鬼が金花を見据えたような気がした。口元は変わらずニィと笑んでいるが、不穏な気配は先ほどより濃くなっている。 「蜂に枇杷ってのは、まるでどこぞの公卿様だなァ」  師匠のところへ迫っていた蜂も枇杷の甘い香りに引き寄せられたのか、周囲には一匹も飛んでいない。髭切をぶんと一振りした師匠は、蜂を見ながら顎を撫で感心したような声を出した。 「そういえば、蜂を大層愛でられていた公卿がいましたね。そうそう、蜂飼大臣(はちかいおとど)でしたか」 「おー、そうだそうだ。御所で蜂の群れに出くわしたとき、枇杷でおとなしくさせたって話は有名だなァ」 「おやまぁ、そんなことが。その話は知りませんでしたが、枇杷をもいでおいてよかったということですね」  二人が話している間に枇杷で満足したのか、黒い塊だった蜂が今度は蜘蛛の子を散らすようにあちこちに飛んで行った。それをちらりと見た鬼の目が金花のほうへと向く。 「小賢しい真似を。我が虫を操ると知っていたのだろう?」 「さて、下賤なわたしには高貴な鬼のことなどわからぬこと。けれど、あなたが人の苦しむ様を好物にしていることはわかりました。とくに虫の毒でもがき苦しむのを眺めるのがお好きなのでしょう? 爪にも虫の毒を仕込むくらいですからね」 「……不愉快な奴だ」  爪と聞いてドキッとした。あの爪に傷をつけられたときに気づいたのだろうか。  鬼の赤い目は完全に金花を捉えている。このままでは金花までも襲われかねない。同じ鬼だとしても金花は半分のみの鬼、おそらく赤い目の鬼には勝てないだろう。  体を起こした俺は、震える足に力を入れながら金花に近づいた。もし赤い目の鬼が何かしようとするなら、俺が鴉丸(からすまる)をもって防いでみせる。心の中でそう誓いながら(つか)をぎゅうと握り締めた。  そんな俺の動きに気づいたのか、少し笑みを浮かべた金花だったがすぐにきゅぅと口を結ぶ。 (金花も緊張しているのか)  こんな顔は初めて見た。いつもニィと笑みを浮かべ、母上が攫われかけたときもいつもと変わらぬ顔をしていた。それなのに、いまは緊張しているかのような表情を浮かべている。 (やはり金花を守るのは俺の役目だ)  ざざっと音を立て、金花の前に陣取った。金花を背後に鴉丸(からすまる)を構え直した俺は、嫌な汗を背中に感じながらも赤い目の鬼を見据えた。

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