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第30話
荘園の別邸では丸二日間、部屋に籠もり続けた。そうして三日目の今日、都に戻るべく身支度を整えている。
冷めることのない熱のせいで、逸物が萎えるまで半日あまりがかかってしまった。それまでは金花を犯し続け、水もろくに口にしなかったような気がする。その後は半日ほど眠った気がするが、それでも飲み食いをしていないのだから疲労困ぱいになるのが普通だ。
ところがどういうわけか体も頭もすっきりとしていて、むしろ力が湧いてくるような気さえする。さすがにおかしいと首を傾げたが、同じくらいおかしかったのは金花の態度だった。
「おい、何をそんなに怒っているんだ?」
何度目かわからない問いかけに、ちらりとこちらを見るだけで金花の返事はない。はじめはいつも以上の無体を強いた俺に怒っているのかと思っていたが、それを謝る俺に違うのだと首を振ったのは金花だった。
たしかに表情や仕草を見ても、交わりのことを怒っているようには感じられない。金花の肌艶は鬼の王の屋敷に行く前よりもよく、背はしゃんと伸び、動きもてきぱきとして気だるさは一切見られなかった。むしろ色気が増していて、道中でも目を引くのではないかと心配になるくらいだ。
じゃあなぜ返事をしてくれないのかと思いながら荷を包んでいると、「まだ血を食らうのは早いでしょう」という声が聞こえてきた。
「金花?」
振り返ると、黒い目がじぃと俺を見ている。
「鬼になることを、そう急かなくてもよいでしょう」
「……俺が唇を噛んだことを言っているのか?」
返事はないが、どうやら俺が金花の血を舐めたことを怒っていたらしい。
たしかに鬼に転ずるには血を食らうのが早いと鬼の王も言っていたが、あれは食らうというより舐める程度だ。それで急に鬼になるわけでもないだろうに、なぜそこまで怒っているのだろうか。
「まだ俺が鬼に転じることを、よく思っていないのだな?」
金花の目がわずかに揺れたように見えた。
「俺はもう決めたのだ。鬼の王に言ったとおり、それにおまえにも話したとおり、俺は鬼となりおまえと共にありたいと願っている。この気持ちは今後も決して変わらないだろう」
「……鬼になれば、あなたは人の敵となるのですよ? これまで共に戦ってきた武士 や、それにお師匠とも相対することになります」
「わかっている。それでも俺の気持ちは変わらない」
「それだけではありません。鬼となれば、見た目が変わってしまいます」
「おまえや鬼の王のように、人前では人らしくすればいいだろう?」
「そうではないのです」
強い口調に少しばかり驚いた。どうしたのだと金花を見つめれば、すぅと視線を落とし、またゆっくりと上げて俺を見る。
「鬼となれば、あなたの見目はいまとほとんど変わらなくなるでしょう。親王様のように」
「……年を取らないということか」
「少し違います。鬼は人と違い、もっとも精力みなぎる姿である時間が長いのです。しかし、途中で鬼に転じた人は鬼となったときの姿のままであることが多い。親王様を見ればわかります。それでは、人の世にはいられなくなるでしょう?」
「まぁ、たしかに見た目が変わらなくなれば、人の近くにはいられないだろうなぁ」
「……親兄弟と、いますぐ離れたいとは思わないでしょう?」
あぁそうか、金花は俺のことを心配してくれていたのか。
兄上たちはいいとして、たしかに俺は母上に弱い。俺が急に身を隠したとしたら泣き崩れるであろうことは容易に想像できるし、そんな母上の姿に俺が心を痛めると思ったのだろう。
もしくは、東国を発つときに「また会いに来ます」と師匠に言ったことを気にしているのか。
(そこまで思われる俺は果報者だな)
俺を慮ってくれる金花の気持ちが嬉しかった。人とは違い、鬼は人の思いを解さないものだとばかり思っていたが、少なくとも金花は俺のことを思って人のように気持ちを汲んでくれる。鬼の王もそうだ。敦皇 様への思いは人以上のように見えた。
もし、金花も俺を好いているがために人のような心を持つようになったのだとしたら……。そう考えるだけで胸の奥がむず痒くなりそうだった。
「金花の言うことはわかっている。鬼に転ずると決めたとき、こんな俺でもいろいろ悩んだからな。それとも、俺は何も考えていないと思っていたのか?」
そうっと視線を逸らした仕草で、金花がどう思っているのかわかり苦笑が漏れる。
「カラギは、熱くなると考えるよりも先に体が動いてしまうじゃないですか。あの鬼が屋敷に現れたときも、それに御所でも、あなたの行動には心配ばかりしたのです。鬼になることだって、……いまは、わたしを珍しく思っているから側にいたいと思っているだけかもしれない。鬼の体が珍しく、妖魔の精が珍しいだけかもしれない。慣れてしまえば気持ちも落ち着くでしょう。しかし鬼になってしまっていては、後戻りできないのですよ?」
俺が思っているよりもずっと、金花はいろいろと考えていたらしい。それは嬉しいが、どこか俺と共にあることに怯えているようにも感じられた。
(……そうか。金花は誰かと共にあることに慣れていないのか)
以前も似たようなことを感じたのを思い出した。
下賤と呼ばれ、同じ鬼たちからも疎まれていた金花。兄弟であるはずの鬼の王には存在すら気に留められなかったに違いない。寄ってくる人は屠 ろうとする者ばかりで、そんな人らに嫌気がさしていたとも話していた。なかには惑わされて側にいることを願った者もいたかもしれないが、すべて“ようま”として食らうだけだった。
そんな金花が、初めて共にありたいと思ってくれたのが俺だとしたら……。俺よりもずっと深く物事を見聞きする金花だ。初めてだからこそ、いろいろと考えてしまうのだろう。
(一番に金花を思う俺の気持ちこそ気づいてほしいんだがなぁ)
いや、そんな金花だからこそ側にいたいのだ。俺と共に生きることを少しでも幸せに感じてほしい。
「俺は都を離れると決めている。あぁ、いま決めたんじゃないぞ? もっと前に決めていたことだ。都を出てあちこちの土地を渡り歩こうと思っている。昔からそうしたいと願っていたしな。それなら、おまえと一緒であっても見目が変わらなくとも、あやしまれずに済むだろう?」
「……でも、」
「母上には散々泣かれるだろうが、まぁ仕方ない。俺は母上よりも金花のほうが大事だからな」
「……」
「それに都にいたのでは、兄上たちの都合で次々と奥方をもらわねばならなくなりそうだしな。俺の奥方は金花だけだと言っているのに、腹の立つことだ」
俺なんかを婿にという貴族がいるとは思えないが、現にいま勝手に婿入りの話が進められてしまっている。今後も同じようなことが起きないとは言い切れない。
まずはいまの話を止めなくてはいけないのだが、どうして突然そんな話が出てきたのかとふと疑問に思った。
(……まさか兄上は、金花を狙っているのでは?)
そうだ、初めて挨拶に行ったとき、兄上はやけに熱心に金花に話しかけていた。その後も金花宛ての贈り物が届いていたことには気づいていたし、俺に新しい奥方をあてがってその隙にと、あの兄上なら考えてもおかしくない。
「あぁ、兄上には本当に腹が立つ。いいか金花、兄上たちには絶対に隙を見せるなよ? 一度都には戻るが、婿入りの話を正式にぶち壊したら都を出るからな。うん、それがいい、そうしよう」
そうすれば、金花も心置きなく俺に血を食わせることができるだろう。俺も憂いなく鬼へと転ずることができる。
何とよい考えだと鼻息も荒く拳を握っていると、「ふふっ」という笑い声が聞こえてきた。
「なんだ、おかしいか?」
「だって、正式に断ると言うならまだしもぶち壊すだなどと、ふふっ、さすがはカラギと思っただけです」
「断るくらいじゃ兄上の目は覚めないだろうからな。ぶち壊すくらいがちょうどいいんだ」
「ふふっ、そんなカラギも愛しいと思っていますよ」
「な……にを、急に」
「ふふふ、かわいい方」
「……っ」
気がつけば、いつものやり取りに戻っていた。金花も見慣れたニィという笑みを浮かべて俺を見ている。
金花が心の底から鬼に転じることに賛成してくれているかはわからない。やっぱり駄目だとどこかで言い出すかもしれない。そのときは、またこうして俺の気持ちを伝えよう。どれほど鬼になりたいと思っているか、どれだけ金花の側にいたいと願っているか、嫌というほど聞かせてやろう。
(そうして鬼になり、金花と共にあろう)
俺は改めて決意し、金花と共に都に戻ることにした。
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無事に都に到着し、屋敷に戻った。それはいいのだが、屋敷に帰ってからのほうが日々を忙しなく過ごしている。
(道中だけでも大変な思いをしたのに、まさか屋敷に戻ってからもそうなるとは)
道中、金花はやたらと声をかけられた。おかげで俺の心は落ち着く暇もなかった。
狩衣姿の金花は、道を歩けばじろじろと見られ、少し大きな町に入れば土地の貴族や旅の途中らしき武士 にまで声をかけられた。寝床を貸してくれた寺の僧たちまでもがじっとりと金花を見つめ、挙げ句には御帳に潜り込もうとした輩まで出たくらいだ。金花は稚児という年でもないのに懸想するとは、なんという僧たちだ。
東国の旅でも鬼の王に会いに行く道中でも金花をそういう目で見る輩は大勢いたが、都へ戻る道中はそれはひどいものだった。
そんな輩を怒気で遠ざけ、ときには目で射殺しながらなんとかたどり着いた屋敷だったが、今度は女房たちが大騒ぎをして頭が痛くなる。
「予想はしていたが、これほどとはな」
女房然とした姿でいたときでさえ、屋敷の女房たちは金花を羨望の眼差しで見つめ、憧れを超えた思いを抱く者までいた。それが今度は狩衣姿の美丈夫として現れたのだから、女心を撃ち抜かれても仕方がないのはわかる。
「だがな、男どもまで上の空になるとは、どういうことだ」
「まぁまぁ、落ち着いて」
憮然とする俺に、金花がにこりと笑いかける。すると、遠目でこそこそと見ていたらしい下男や武士 たちのため息があちこちから聞こえてきて、舌打ちをしてしまいそうになった。
眉を寄せて不快感をあらわにした俺は、腕を組んでぎろりと周囲を睨みつけた。すると今度はあちこちで物を落とす音やバタバタと走る足音が聞こえ、やっぱり覗き見をしていたかと苦い思いがわき上がってくる。
「たしかにおまえは狩衣姿でも美しい。これで公達のような出で立ちをしようものなら、ますます目を惹くだろう。それはわかる。わかるが、女房たちよりも圧倒的に男の目が多いのはどういうことだ!」
「それは、あなたが毎夜のように精をくれるからでしょう? しかも奥深くに、何度も何度も。あなたの精が体の奥にずっとあるせいで妖魔の力がみなぎってしまうのですよ」
金花の言葉にはぐぅと唸ることしかできなかった。それでも金花を求めてしまう気持ちは止められない。こうなったら、いっそのこと金花をどこかに隠してしまおうかと思うほどだ。
(これが奥方ならそうできるんだろうが……いまの金花は奥方の兄 という立場だからな)
一旦都に戻ると決めた俺は“母君の病が思ったよりも重く、引き離すには忍びなかったため金花は母君の元に置いてきた”、そういうことにしようと金花に話した。では連れて帰る金花自身をどうするかだが、男の姿に戻り、俺の友とするのはどうかと考えた。
「友、ですか?」
「あぁ。たとえば、おまえは金花の兄か何かで里で仲良くなったのだとか、都を見たくてついて来たのだとか、いろいろ言い様はあるだろう?」
「そうですねぇ。兄妹というのは、案外よいかもしれませんねぇ」
金花が檜扇を口元に当てながら「ううん」と考えている。まるで公達のような姿は惚れ惚れとするものだが、目に入った檜扇に眉が寄った。思い出したくもない出来事まで思い出されて不快な気持ちが胸に広がる。
目にするだけで不快になる檜扇を、本当はすぐさま燃やしてしまいたかった。しかし、それを「よい作りなのだから、もったいないでしょう」と言って止めたのは金花だ。
たしかに都でもはやりそうな上品な作りではあるが、梅の糸花がついていたりと男物にしては華やかすぎる。それがまた狩衣姿の金花によく似合い、なんとも言えない色香を感じさせた。
この檜扇が俺の贈ったものなら何の問題もない。しかし、とある大きな寺の僧正の贈り物となれば不愉快極まりなかった。僧正が金花を見る眼差しを思い出すだけで腹の奥から不快な熱が湧く。
物に当たるのは大人気ない。それはわかっている。檜扇を睨みながらも気持ちを落ち着かせるしかなかった。
「では、こうしましょう」
檜扇をぱちりと鳴らした金花の考えはこうだった。
母の看病とはいえ妻となった身で俺の側を長く離れるのは申し訳ない。だから兄を代わりに側に置いてほしい。不自由しないように身の回りの世話だけでなく野盗から身を守るための伴として、自分が側に戻るまでの間、兄には常に側にいるようにと頼んだ。
「ただの友よりも、これなら常に側にいても不思議ではありません」
「なるほど、よい考えかもしれない。とくに母上には響くだろうなぁ。母思い、兄妹思いというのがお好きな方だからな」
「では、決まりですね。ふふっ、これならカラギの側にずっといられますから、わたしも安心です」
「何を言っている。心配なのは俺のほうだ。……その檜扇も、本当は焼き捨てたいくらいなんだぞ」
「ふふふ、かわいい方」
そんなふうに笑われてしまえば、大人気なく焼き捨てたいなどと言い続けることはできない。結果、都に戻ってからも使い続けているのを見る羽目になってしまった。
「今回は男のままでよかったと思っていますよ」
「こんなに男どもに目をつけられているというのにか?」
「そう怒らないでください。もしわたしが女として屋敷に戻っていれば、女房たちの近くにいることになるでしょう? このように妖魔の力が増している状態では、それこそ目も当てられないことになっていたと思いますよ? それに母上様の近くにも行かなければならなかったでしょうし。わたしは母上様と交わりたいとは思いませんから」
「……っ。それ、は、そうかもしれないが」
「それに、あなた以外の男になどまったく興味はありません。どれだけ見られようとも、草木に見られているのと同じこと」
ふわりと伽羅の香りが近づいた。
「わたしは、あなただけのものですから」
耳元でそぅっと囁かれた言葉に、ぞくりと背筋が震える。
明日は兄上のところへ行かねばならなかったが、今夜も俺は金花を手放せないだろう。そうすると、ますます匂い立つような姿を大勢に晒すことになってしまう。それでも金花を組み敷かないという選択は俺の中にはなかった。
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