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第32話
時折りごとりと音を立てる牛車の中は、まるで夜更けのように静かだった。やましい気持ちがなくても気まずさはあるため、金花に言葉をかけることもできない。
いま俺は、六条殿の屋敷へと向かっている。宴の席の用意を始めていると兄上に聞き、その前に直接断りを入れに行くほうがいいだろうと思っての行動だ。
そうしなければ宴席で諸々を断ることになり、その場を大いに凍りつかせてしまうことになる。六条殿や姫君に恥をかかせることは本意ではない。それなら事前に直接会って説得し、六条殿のほうから断ったことにしてもらうのがよいと考えたのだ。
(そう思って菓子も用意したわけだが……)
俺の隣には金花が座っている。さすがに金花を連れて行くのはどうかと思い、屋敷で待っているように何度も話した。しかし「妹に 側にいるように言われていますから」とにこりと微笑まれては絶対に駄目だと言い続けるのは難しかった。
屋敷では金花は俺の家人 、いや乳兄弟かというほどの扱いを受けるようになっている。おかげでずっと側にいても不思議がられないのはありがたいが、婿入りを断りに行くときにまでついてこられるのは、さすがに気まずい。
「わたしのことはお気になさらず。それに、牛車の中で待っていますので」
「あぁ、うん」
何と答えればよいのかわからず、間の抜けた返事しかできない。いつもならこんな俺に「かわいい方」とかなんとか言ってからかうのに、金花のほうも今日はやけに静かなままだ。
牛車がごとりと音を立てて止まった。どうやら六条殿の屋敷に到着したらしい。ここからは俺の戦いであり、決して負けることはできない。いざ行かんと前簾 に手をかけたところで、その手に金花の白い手が重なった。
「がんばってくださいね」
「俺は絶対に断る。そのためにわざわざ来たんだからな」
「ふふっ、信じていますとも」
ふわりとした金花の笑みにようやく気まずさも収まり、「いざ参らん」と改めて気合いを入れ直した。
「わたくしも結婚するつもりはないのよ」
「それはよかったと言いますか……」
「お父様にもそうお伝えしているし、お父様だって結婚は早いと言っているのに」
「なるほど……」
「それなのに、こうして話が進んでいるなんて嫌だわ」
御簾の向こうからはまだ幼さの残る、しかしはっきりとものを言う少女の声が聞こえる。まさか直接姫君に会うことになるとは思わなかったが、なぜか出迎えに現れた六条殿は「姫が会いたいと言ってきかなくてね」と言いながら奥のこの部屋まで案内してくれた。
聞いていたとおり六条殿は穏やかな性格の人物だった。部屋に到着するまでの少しの時間しか言葉は交わせなかったが、言葉の端々から姫君への愛情も十分伺えた。それなのに御簾越しとはいえ俺が対面してもよいものか悩んだが、こうして姫君と話しているうちに、六条殿が最後に浮かべた苦笑の意味がなんとなくわかってきた。
(元気な姫君というか、物怖じしないというか)
おそらく変わった姫君と言われているに違いない。そういう姫君なら、同じ変わり者の俺をあてがうのにちょうどよいと兄上は考えたのだろう。
「それに、唐多千 の君様の奥方様は、世にも稀な美しい人だって聞いたわ。そんな美人の奥方様と比べられるのなんて、絶対に嫌!」
幼いゆえなのか生来の気性なのか、きっぱりとものを言う姫君だなとある意味感心する。俺は気持ちの良い姫君だと好感を持つが、六条殿にはかわいくも頭の痛い姫君なのだろうなぁと心中を察した。
「わたくしは好いた方と結婚したいの。この方でなくては駄目というくらいの方と結婚したい。だって、結婚したら一生添い遂げるのでしょう? だったら、お相手は死ぬまで一緒にいたいと思うくらい好いた方がいいわ」
「俺もそう思います。心底好いた相手と結ばれることほど嬉しいことはない」
「まぁ、やっぱり!」
ぱちんと手を叩いて姫君が声を上げた。
「女房たちが、唐多千 の君様は旅先で心底好いた方を見つけて、どうしても奥方にしたいと願って都まで連れ帰ったと言っていたのだけれど本当だったのね! あぁ、なんて素敵なお話かしら」
そういうつもりで金花を連れ帰ったわけではなかったが、結果的にはそうなったのだから間違いではない。だが、そんな話が六条殿の屋敷でも噂されていたとは驚いた。さすがは都の女房たち、噂話が好きで瞬く間に話が広まるというのは本当だったらしい。
「じゃあ、やっぱり唐多千 の君様と結婚するのは嫌だわ。心底好いた方との間に入り込むなんて、お邪魔虫じゃないの。やっぱりお父様には断っていただくわ」
「そうしていただけると、俺としてもありがたいです」
これなら何とかなりそうだと安堵したとき、御簾の奥でひそひそと誰かの声が聞こえてきた。姫君付きの女房だろうが、もしかして六条殿に何か言いつけられているのだろうか。
姫君の話では六条殿自身もこの結婚に乗り気ではないとのことだが、大納言を務めるほどの人物だ。内心では関白家との縁をほしがっていたとしてもおかしくない。引き止められたらどうしようか、そんなことを考えていると、「あら、そうなの」という姫君の声がした。
「それは面倒だこと」
「姫君?」
「唐多千 の君様、本当はすぐにでも関白様にお断りしたいのだけれど、それでは少し具合が悪いそうなの」
「どういうことですか?」
「関白様はこのお話にとても乗り気で、お父様が何度お断りしても諦めてくださらなかったの。だからいまお断りしても、一度会っただけではお互いのことはわからないだろう、そうおっしゃるに違いないって女房が」
あぁ、兄上ならそんなことを言いそうな気がする。一度会ったくらいで諦めるな、何度も会ってこそだろう。そんなことを言って俺をこちらに通わせ、気がついたら婿入りが成立していたなんてことになりかねない。
「それは困りましたね」
「大丈夫よ!」
やけに明るい姫君の声は自信に満ちていた。
「何度か通っていただいた結果、やっぱり駄目でしたとお断りすればいいのよ。それなら関白様も無理はおっしゃらないわ」
「あー、しかしそれでも、おそらく兄は納得しないかと……」
納得しないどころか、通っているのだから婚姻成立だと手を叩いて喜ぶだろう。しかし姫君は「だから、大丈夫よ!」と、またもや力強く言い切った。
「もう少ししたら、お父様が帝にお会いになるの。年明けからの宮中行事や舞楽のお話をされるのでしょうけれど、きっとわたくしのことも話題に出ると思うわ。そこでお父様に、婚姻は無理だとお話していただくのよ」
舞楽の師である六条殿であれば、直接帝に娘の婚姻について話す機会もあるだろう。そこで手を打てば、たしかに俺との婚姻を止めることができるかもしれない。
なるほどと思うと同時に、幼さの残る姫君だと思ったがなんとも強かなことを考えるものだと感心した。女房の入れ知恵もあるのかもしれないが、どういうことか理解したうえで話しているであろうことは声でわかる。
「六条殿はこのことをご存知なのですか?」
「わたくしの好きなようにすればいいとおっしゃってくださったわ。だから、わたくしがお願いすれば否とはおっしゃらないの」
なるほど、六条殿もご存知であれば問題ない。もしかすると六条殿が考え、それを女房に伝え姫君に伝わった案なのかもしれない。
しかし、六条殿からすれば関白家との繋がりは本来ほしいもののはず。それをいくら娘が嫌がっているからといって「はい、そうですか」と納得するものだろうか。
そんな疑問が浮かんだ俺の耳に、先ほどよりも小さな姫君の声が聞こえてきた。
「……本当はね、わたくし、思っている方がいるの」
「はい?」
「最初は許嫁だからと仕方なく会っていたのだけれど、いつの間にかお慕いするようになっていたの。……でも、その方とは結婚できなくなってしまったわ」
これまでと違い、あまりに寂しそうな声に深く尋ねることは憚られた。
こうして姫君との初対面は終わり、六条殿に再び先導されて帰ることになった。最後の姫君の言葉が気になり、失礼かとは思いつつも姫君の許嫁について訊ねてみる。
「あぁ、姫がそんなことを……」
「立ち入ったことを聞いてしまい、申し訳ありません」
「いや、よいのです。姫はよほど好いていたのでしょうね。あんな姫ではありますが、あちらも随分とよくしてくれていたので、これはよい婚姻になるとわたしも喜んでいたのですが」
「何かあったのですか?」
六条殿の足が止まり、ふぅとため息をつきながら庭先に視線を移した。
「姫の許嫁は、二条殿のご子息だったのですよ」
二条殿の……。それですべてを察することができた。
二条殿と呼ばれるのは先の関白で、亡き我が父の弟にあたる方だ。父上亡きあと関白となったが、兄上が右大臣になっても職を辞することなく関白としての地位に就き続けた人だ。
亡き父上との約束では、兄上が右大臣をしばらく務めたのちに関白職を譲るという話だったようだが、実際にその地位に就いたら退くのが惜しくなったのだろう。何年経っても兄上は関白に就くことができず、叔父が関白の座に居座り続けることになった。
なかなか関白を譲らない叔父に焦れた兄上や心配する母上の様子を見ていた俺は、これ以上時間が経っては厄介だと考えた。数代前の先祖たちはこうした諍いが続き、一族内で互いを蹴落とし合うことになってしまった。それが巡り巡って敦皇 様のことへと繋がったのだ。
俺は鬼退治の褒美として兄上に関白職をと帝に願い、その願いは見事叶えられた。結果、兄上は関白になったが、二条殿は朝廷から退くことになり、いまは別邸で静かに暮らしていると聞いている。
その二条殿のご子息が許嫁だったとしたら、俺は二条殿を都から追いやった関白の弟、姫君と許嫁の結婚を壊した男の弟ということになる。
(なるほど、それでは結婚したくない気持ちにもなるだろうな)
関白家との繋がりよりも、心情が上回ってしまっても仕方がない。こうして穏やかに接してくれるのは、俺が朝廷や御所のことに興味がなく、この婿入り話にも関わっていないとわかっているからかもしれない。
「俺は姫君の気持ちを尊重します。なんとしても兄上には諦めてもらいます」
そう告げると、六条殿は安堵したような笑みを浮かべた。
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俺は姫君が話したとおりの筋道を作るべく、しばらく六条殿の屋敷に通うことにした。望まない噂が立つかもしれないが、それもしばらく我慢すればいいだけのこと。それに、兄上に諦めてもらうための方策をあれこれ整える時間もほしかった。
「ええと、鬼の話ですか?」
今日も方策の一環として六条殿の屋敷を訪れているが、姫君はどうしてか俺の関わった鬼退治の話を聞きたいと言い出した。もともと御簾越しにしばらく話をするつもりではあったが、まさか鬼退治の話をせがまれることになるとは思ってもおらず、少しばかり戸惑ってしまう。
「俺はかまいませんが、姫は鬼が怖くないんですか?」
「怖いとは思うけれど、でも一度も見たことがないんだもの。どういうものか知りたいの!」
なるほど、思っていた以上に変わった姫のようだ。
(このような姫君と思いを交わしていた二条殿のご子息とは、よほど懐の深い男だったのだろうなぁ)
つい、そんなことを思ってしまった。どんな公達か屋敷に戻ったら女房たちに訊いてみるかと思いつつ、さてどうしたものかと考える。
(さすがに鬼の話をしたとなれば、温厚な六条殿も怒りそうな気がするし)
六条殿の気分を害したいとは思わない。それに姫君はよいとしても、お付きの女房たちにとっては進んで聞きたい話じゃないだろう。……それならば。
「鬼の話ではありませんが、東 や西の話はどうですか?」
「まぁ、唐多千 の君様は東 へ行ったことがあるの?」
「太刀の師匠が東 にいるので、鍛錬をしにしばらく行っていたんです」
「まぁまぁ、すごいわ! わたくし、ついこのあいだ旅日記を読んだばかりなの! ねぇ、東 に行く途中に、海はご覧になった? 宿はどうしたの? 東 の人たちは都の人たちとは違うの?」
予想よりも食いつきのいい様子に、思わず苦笑が漏れてしまった。小さい頃の俺も好奇心旺盛だったが、姫君はあの頃の俺よりもずっと興味津々といった雰囲気だ。おそらく姫であるために我慢してきたことが多くあるのだろう。俺の話で少しでも楽しんでくれるなら嬉しい限りだ。
(もしも妹がいたら、こんな感じだったのだろうか)
そんなことを思いながら、嬉々としている姫君のために東国の旅の話をすることにした。
こうして姫君と兄妹のような関係を築く逢瀬は、その後も続いた。今日でちょうど十日目だ。
屋敷を訪れてから半刻は経っただろうか。そろそろ帰ろうかと挨拶をすると、姫君が残念そうな声を上げた。それがなんともかわいらしく「続きはまた今度」と告げる言葉にも笑みが混ざる。
「絶対によ? 忘れたりしたら、枕元まで追いかけるんだから!」
「それでは、かの有名な物語の御息所のようじゃないですか」
「そうよ。忘れたら恐ろしいことになるのだから、絶対に続きをお話にいらしてね?」
「承知しました」
かしこまって答えると、姫君だけでなく女房たちのクスクスという笑い声も聞こえてくる。
はじめは少し刺々しく感じていた女房たちの気配だったが、何度か通ううちに随分と柔らかくなったように感じる。おそらく俺に婿入りの意思がないこと、それに権力闘争に不向きな性格だということが伝わったからだろう。
どの屋敷の女房たちもそういうことにはやけに敏感なのだ。とくに未婚の姫君に仕える女房たちは、主人の未来のために婿候補には厳しい目を向ける。
「それでは、また」
「絶対よ、お忘れにならないでね」
最後まで約束をせがむ姫君の声に、姿を表した六条殿が「これ、」と笑いながらたしなめている。そうしていつものとおり部屋を出て先導をしてくれるのだが、今日は何やら機嫌がよさそうだ。
「何かよいことでもありましたか?」
「あぁ、これは失礼。いえね、二条殿から文が届いたのですが、ご子息が公卿になる手はずが整ったとありましてね」
「公卿に」
「まだ小納言ではありますが、いずれは大納言、その先もあるのではと、そう書かれていたのです」
「それはよかったですね」
「えぇ。これならば、姫との婚姻も再び進めることができるでしょう。公卿同士の家柄であれば、帝のお許しも早くにいただけるでしょうし」
そう話した六条殿が、つぃと俺を振り返った。
「政争など関心がないのかと思っていましたが、なかなかどうして、やり手ではありませんか」
微笑む六条殿に、俺はただ笑みだけを返した。
そのまま二条殿の話題には触れず、「ではまた」と挨拶をして牛車へと乗り込む。中では金花が待っていて「何かよいことでもありましたか?」と訊いてきた。
「いや、思いのほか早くに二条殿のご子息が、崇明 殿が公卿になることが決まったらしくてな」
「あぁ、それで」
なるほどと言って、金花が檜扇をぱちりと鳴らした。そのときわずかに揺れる梅の糸花を見ると、やはり少しばかり苛々してしまう。早く新しい檜扇を手配しなくてはと思っているのだが、六条殿のところに通う日が増えたため、なかなか見繕う時間が取れずにいた。
「六条殿は喜んでいたでしょうね」
「あぁ。このまま話が進めば、間違いなく俺の婿入りはなくなるだろうな」
「それはよかった」
そう言って金花はにこりと笑ったが、その笑顔にわずかな違和感を覚えた。
(なんだ……?)
相変わらず美しい笑顔だが、やはり少しだけ違和感がある。ただ、それが何かはっきりとはわからず金花に問いかけることはできなかった。
(しかし、何を着ても美しいな)
狩衣姿であっても公達にしか見えないのは、俺が用意した着物も一役買っているに違いない。そう思うだけで口元がにんまりとして、男が奥方のために着物を用意する喜びがようやく俺にもわかった気がした。
そんなふうにより一層美しくなった金花だが、都に戻ってきたときほど匂い立つ色気を撒き散らしていないのは、交わる時間が少なくなったからだろうか。
六条殿の屋敷へ行く時間と二条殿のことで、俺は珍しく忙しい日々を送っていた。たまに屋敷を長く空けることもあり、鍛錬の時間すら減っている有り様だ。そのため金花と交わる回数が減ったからか、誰にも見せたくないと心配するほどの色気は見られなくなった。
それでも俺の心配が消えることはなかった。本当なら屋敷で待たせればいいものを、こうして六条殿の屋敷へ行くときも必ず金花を連れ出してしまう。当初は気まずい思いから屋敷で待つように言っていたくらいなのに、俺は何をやっているんだと呆れてしまうくらいだ。
(交わる時間が多くても減っても、心配が尽きないとは)
日が経つにつれて、ますます金花にのめり込んでいるような気がする。別に悪いことではないのだが、やはり男としては余裕を持ちたいのが本音だ。そうして好いた相手によいところを見せたいと考えるのは、おそらく世の男たち共通の思いに違いない。
きっと鬼となれば気持ちも落ち着くのだろうが、荘園の別邸で勝手に唇を噛んで以来、金花は絶対に血を食わせようとはしなかった。「鬼になるにも時機が大事でしょう」とは金花の言葉だが、都を離れることに母上が反対しているいま、まだそのときでないのはたしかだ。
(わかってはいるが、どうにも急いてしまうんだよなぁ)
「焦ることはありませんよ」
「……まぁ、そうだな」
俺の考えていることなどお見通しなのだろう。返事をした俺を見る金花は相変わらず美しい笑顔だったが、やはりいつもとどこか違うような違和感は拭えなかった。
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