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値踏み

 ふっと窓の方へ向けた目を思わず見開いたのは、アパルトマンの中庭を掃いている男が管理人ではなく、自分の息子だと気付いたからだ。  インマン夫人が自らの子供の姿を見間違えることなど決してない。5人の子供達は皆母親譲りの夕陽じみた赤毛をしている。特に下から2番目のリッキーは、リタ・ヘイワースもかくやの艶めいた髪質と、曇った銀を思わせる色の瞳が、まるで彼女自身から移植したかの如く受け継がれていた。  大学を卒業して一年。彼はいつの間にか、立派な青年になっていた。だからこそ、仕立てのいいスーツを着こなし、下男のようにせっせと仕事へ励んでいる姿は、ぞっとするものを感じさせる。  あの子は昔から、至って普通の子だった。特別賢くもなく、特別感受性が強い訳でもない。何をやってもそつなくこなすが、他の兄弟姉妹に突出して秀でることが出来ない己を持て余していた。幼い頃は体が頑丈でなかったのも、そのことが関係しているのかもしれない──火にかけられた鍋の中で圧力が徐々に高まっていき、遂には蓋を吹き飛ばしてしまうかの如く、身体が耐えきれなくなるのだ。  子供達の父親は、平凡が罪であると、我が子らが小さい頃から繰り返し繰り返し教え諭した。母親である前に妻であることを夫が望んだから、彼女がその意見に異を唱える権利など終ぞありはしない。彼女自身、妻であるよりも女であることの方が楽しかったので、尚のこと。何よりも彼女は、己を非凡な人間であると自負していたのだ。  余りに平凡すぎると、人生は味気なく、つまらないものになってしまう。だからこそこれまでリッキーは何をやらせても、常に心の一欠片を違うところへ置いてきてしまったような態度しか取ることが出来なかった。そんな息子が、あれほど熱心に物事へ取り組んでいるなんて、異常でしかない。    それにしても、全くなんてことかしら。鏡台前に据えられた籐の椅子の中で身を捩り、インマン夫人は溜息をついた。  四方を壁に囲まれた中庭は、小さな空間を更に息苦しくするよう、楓が三本植えられている。今年のパリの秋は朝晩の寒暖差が常以上に激しい。血のように赤く色付いた落ち葉は次から次へと舞い落ち、幾ら箒を振り回しても決して秩序は戻ってこない──掃除用具を持たせたことなど、これまで一度も無かったが、案外上手く扱っている。イェールの寮で覚えてきたのかもしれない。  既に幾つか出来上がっている枯れ葉の小山をざっと見回していた視線は、庭の入り口へ向けられた途端、ふっと動きを止める。  ランベルトは背の高い男の割にとても姿勢が良く、優雅な歩き方をする。骨のない軟弱なジゴロではなく、威厳すら漂わせる軍人じみた足運び。かつてバルジ戦線でパンツァーに乗り、連合軍と競い合っていたという本人の言もあながち偽りでは無いのかもしれない。  インマン名義の小切手が切られたトレンチコートの懐へ、彼は何かとても大事な物を隠しているようだった。例えこちらに背を向けていても、軽く爪先立ち、前のめりになったリッキーの後ろ姿が、期待に満ちあふれていることは一目瞭然だったから。  取り出された茶色い紙袋を、リッキーはまるで宝物のように胸へと抱きしめた。その間にランベルトは庭の片隅にある古びた納屋へ足を向けた。小屋の中から小さなガロン缶が運び出されてきた来た時は彼女も首を傾げたが、次いで古びたブリキ板と金ばさみが持ち出されてきたとなれば、嫌でも理解せざるを得ない。  落ち葉をめい一杯缶へ詰めると、リッキーは袋から取り出した栗をふかふかしたその中へ埋め込んだ。擦られたマッチの火が落とされても、最初は少し煙が上がるだけ。それでも熱心に覗き込むリッキーの目の前で、ランベルトは板の蓋をしてしまう。  金ばさみと枯れ葉の山を指さした後、革手袋に包まれていた手は、最後にリッキーの頭を撫でた。低い軌道を描く秋の日差しにきらめく赤い髪が、黒いラムスキンに遮られる。  ベッドサイドのブザーを押すと、夫人はランベルトをここへ連れてくるよう女中へ命じた。  仕方なく先ほど塗ったばかりの口紅をもう一度塗り直し、シャネルのスーツと化粧が完璧なことを確認してから、彼女は客間へ向かった。既にランベルトは外套を預け、待ちかまえている。まるで最初から身体の一部であるような葡萄茶色のスーツや、ぱりっと糊をつけられた白いシャツに合わせた黒い柄もののネクタイはおろか、くすんだ金色の髪と狼の瞳ですら、特別に誂えたもののようだった。  年齢ですら、彼は己で制御していると言われても、今なら信じてしまうだろう。今日は若々しい気分らしい。30代半ばの外見をした、茶目っ気の中に生来の利発さが垣間見える、快活な好男子。 「インマン夫人」  だが、笑うと駄目だ。整えられた口髭の下で、形良い唇がつり上がるのを目にすると、インマン夫人は何よりもまず残念さを覚える。  ランベルトは己の美貌と才覚を誰よりも自覚している。だから己より劣った、と言う表現には様々な観点が当てはまるが、とにかく他者への軽蔑を隠さない。  勿論、表向きは給仕をいじめたりなど絶対しないし、退屈な金満家の老人が壊れたレコードの如く繰り返す過去の武勇伝へ、真摯な態度で耳を傾ける。だからこそ、彼らが去るや否や、眉一つ動かさないで連中を徹底的にこき下ろす口調は、いっそ惚れ惚れさせられる程だった。  或いは、軽薄と呼べる振る舞いすら、所詮反射に過ぎないのかもしれないが──カフェ・ソサエティの金持ちが好む開けっぴろげな物腰を、このどこの馬の骨とも分からぬ男は完璧に模倣して見せているだけ。息するように偽りを口にする詐欺師、生まれついてのポーカー・プレイヤー。  彼の腹の内がどうであれ、この尊大な態度は実績に裏打ちされているから、並大抵の人間だと到底太刀打ちできない。  幸か不幸か、リッキーに対して爪を見せることはしないので、家長のインマンはランベルトの態度に目を瞑る。息子名義の口座の預金残高が危ういと銀行から報告を受ければ即座に満たしてやるし、何なら自分で男に金を払ってやることすらあった。 「知っているでしょうけど、私はいつも昼間から酒を飲むの。どうせ幾ら飲んでも酔えませんからね……あなたもいかが」 「ご相伴に預かりましょう。ストレートでお願いします」  インマン夫人が突き出したスコッチのグラスを受け取ったが、ランベルトは口を付けようとしなかった。相手がリラックスするまで気長に待つ。夢中になるとよく早とちりをするリッキーと違って……窓の向こうで火の番は律儀に続けられ、立ち上る煙は窓枠の隙間から容赦なく流れ込んでくる。例え己が咳き込む羽目になっても、どんどん枯葉を足すものだから、もはや缶の中は火事も同然の有様だった。今に他の住人から苦情が来るだろう。  息子と違い、インマン夫人はゆっくりと味わいながら、グラスの中身を半分程飲み下す。例えケンタッキーのブートレッガーが作った安い密造酒並に煙い舌触りとなっていても、平然とした表情を作って。 「この一年、息子はどう? 父親の仕事を手伝う気になったかしら」 「なっていませんね。何せまだ一年です」  ほら、このさも「自らは率直です」と言わんばかりの歯に絹着せぬ物言い。ドイツ訛りの片鱗を窺わせる、微かに強い文節のアクセントすら、その仮面を補強する。 「リッキーはまだまだ若く、遊びたい盛りですよ。あの年頃の青年にとって、全ての遊びは学びになり得る」  息子が目の前の男から何を学んでいるか、聞くつもりはない。彼女自身が社交界にデビューした30年と少し前に、親から同じ事を聞かれた時は、酷く鬱陶しかったから──追求を躱す為、彼女は早々に今の夫と結婚した。 「大体学びと言えば、寧ろ何故国内のロー・スクールなり、スイスのビジネス・スクールなりへやらないので?」 「あの子がその気になっていないから」  辛辣さを隠しもしない夫人の口ぶりに、ランベルトは微笑を浮かべる。歪んだシャーシやシャフトを持つ車体を、美しく何重にも塗装し、総毛皮張りの内装を施したメルセデス・ベンツを、夫人は想像した。  彼女がアメリカ中西部で最初かつ、一番大きなカーディーラーの娘である事と、彼女の夫が全米の歴史上2番目の若さで銀行頭取になったこと(ジョー・ケネディの記録に4ヶ月及ばなかった事を根に持っているので、彼はアイルランド人という存在を今でも毛嫌いしている)更に言えばその父親がハリー・トルーマンの非公式な政治顧問を務めていた事は、この男にとって何ら関係ない。  以前ランベルトは、ハリウッドのパーティーでエロール・フリンに紹介された時、娘と呼んでも差し支えない年齢の妻を伴ったこの伝説的なプレイボーイに向かって平然と言ってのけたそうだ。「タスマニアのご出身だそうですね。私の義理の兄はダッハウで働いていたんですよ」だから同じく度胸満点の活劇スターに気に入られ、一時期小判鮫のようにくっついて遊び歩いていたとか。  それとも、彼もエロールのレイピアをしゃぶらされたクチかしら。ようやくグラスへ付けられた唇が、一口含まれた分のウイスキーで濡れている様子を見れば、途端に良くない想像が頭を駆け巡る。  リッキーの趣味については家族の誰もが知らない、見ていないふりを貫いていたが、この男を招き入れる事により、もはや既成事実として形を持ってしまった。あれでも本人は隠し通しているつもりでいるようだから、公然と口にする者はいないが。  可哀想なリッキー。望むと望まざろうと、もうミネソタにあるインマン家の墓には埋めて貰えない。以前インマン夫人が夫にそう嘆けば、彼は全てを諦めきった、穏やかな表情で肩を竦めた物だった。「だがラニーは、少なくとも妊娠しないし、金をゆすり取る真似はしないからな」  後者はどうか分からない。インマン夫人が言えるのは、リッキーがランベルトを慕っている事と、ランベルトが上手く息子を扱っている事だけだった。今のところ。この先についてなんて! そんなこと、フルシチョフがいつどこに核爆弾を落とすかと同じくらい、予測など不可能だった。  2人の関係に未来はない。前途有望であると見なされるべき若者、リッキー・インマンの輝かしい人生が、この男によって削り取られるのを目の当たりにするのは、酷く残念だった。 「あなたの言う通り、リッキーには学ぶことが多いわ。こうやって世界を見て回る事も、知見を広める為に必要でしょう。それにヨーロッパでは、男友達を連れ歩いていても不審がられない」 「ええ。持つべきものは友です。それも知識のある友を」  いけしゃあしゃあとそう言ってのけ、ランベルトは脚を組み替えた。 「昨晩も、モンマルトルでアンドレ・ブルトンに会いましてね。リッキーはルネ・クルヴェルに似ているそうですよ。共産主義者だと思われたんでしょうか」 「あの子は共産主義者じゃないわよ」 「でもシュルレアリストかもしれない」 「ならあなたはダダね、どれだけ完璧に取り繕っても、本質的なところでは」  微かに、けど明らかに大仰な仕草で瞠られた琥珀色の瞳を見つめ返し、インマン夫人は笑った。 「私もチャールズと結婚する時に、沢山勉強したのよ。あなたの苦労は分かってるつもり」 「苦労だなんて。私は向上する事が好きなんです」 「ドイツ人は勤勉ね。息子にもそうあって欲しかった」 「彼も熱心ですよ」  彼は嘘つきだ、信じてはいけない、何も。  いい加減、煙くて仕方がない。女中に通り側の窓を開けるよう命じたが、何故か匂いは一向に消えなかった。 「率直に聞くけれどね、ハニー。リッキーはチャールズや、兄弟の後に続きたくないと言ってるのでしょう」  ランベルトは、暫くの間、柔らかな下目遣いで夫人を見下ろしていた。よく磨かれたウイングチップの爪先が、まるで相手を招き寄せるかのように、数度上下する。 「彼は兄弟を愛しています。そして、世界のことも。余計な争いに巻き込まれたくは無いと、常々口にしています」 「私達は、子供達全員を強い子に育てたつもりなのに」 「勿論、彼は強い。けれど、非凡な醜悪さは持ち合わせていない。私はそれを美徳と捉えますが、世間はどうでしょう」  醜悪を極め尽くした男がそう言うのだから間違いがない。更に言えば、インマン夫人は自分を凡庸な善人だと任じていたので、わざわざその事について議論する気もなかった。 「パリにはあと何日滞在するの」 「来週一杯は。その次は予定だと、ティーニュで滑って来る事になっています」 「案外長いのね」  思わず嘆息を漏らし、インマン夫人は手の中のグラスを軽く揺すった。 「目下の連絡先はリッツ? 一回位は息子も交えて昼食の機会を作らなくちゃ」 「リッキーは会いたがっています。何せ貴女を愛していますから」 「でしょうとも」 「金曜日ならいかがです」 「駄目、その日は将来有望な若い作家と会うの。ゴア議員のお孫さんで、おかまよ。木曜日か、来週の月曜ならいい」 「では木曜日に」 「それまで、私もあの子を愛しているって事を、リッキーに忘れさせないようにしてね」  無駄な話だろう。この男の口に掛かれば、全てが歪んで伝わる──掛けられた補正によって、より美しく見える世界に、リッキーはすっかり酔いしれているようだった。そして多分、己も。今嗜むウイスキーが本来持ち合わせる、口当たりの良さへ、すっかり頼りきっている。  それの何がいけないのだろう。ランベルト・ホルツフェラーはプロだ。これまでインマン夫人は、己が学ぶつもりのない分野に関して、全てを専門家に任せて来た。投資も、家事も、ついでに育児も。  中庭に戻ったランベルトは、リッキーに詰め寄っている住民達を豊富なフランス語の語彙で瞬く間に捌き終えた。缶の中ですっかり焼き上がっている栗を持たされて、渋々立ち去る連中の後ろ姿を見送るリッキーは、酷く所在なさげに見える。不意に彼女は、幼い息子をこの街へ連れて来た時、屋台を見かけるたび、焼き栗を買ってくれるようねだった事を思い出した。あの子は大好きだったのだ。固く、さして甘くもない、ただほくほくと温かく湯気を立てている事だけが取り柄な、あの木の実のことを。  皆に分配され、手のひら一杯分しか残らなかった栗を見下ろし、リッキーは残念そうに首を振る(この時点で、彼がコミュニストから程遠いことは一目瞭然だった)ランベルトは宥めるように笑みを浮かべ、落とされた肩に大きな手で触れた。そして次は唇をこめかみに。大柄な体躯は不埒にも更に屈められ、手のひらは冷えのぼせした頬を包み込む。  リッキーは最初抗っていた。だが二言三言、あの低く柔らかい声で何事か囁かれると、たちどころに陥落する。本人は恐る恐るのつもりだろうが、爪先立つ足は今にもうきうきと浮かび上がってしまいそうな始末だった。男の首筋へ腕が回された拍子に、あれほど大事に抱えられていた木の実が、地面へぱらぱらと零れ落ちる。  あの子がもっと私に似ていれば良かったのに。もはやどうにもならない願望を幾ら残念がっても意味はない。窓から顔を背け、インマン夫人は飲み終えたグラスを片付けるよう、女中を呼び付けた。

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