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1.発熱

 狩猟旅行へ赴いたタンガニーカでマラリアに罹ったか、ハリウッド詣の際に買ったサル・ミネオ似の男娼から伝染された淋病の初期症状か、はたまた知恵熱か。  いや最後のはないな、と笑うランベルトの顔は、精悍という表現が最も相応しい。ワーグナーの楽劇へ登場するゲルマンの英雄さながらに輝いて見える。真昼の太陽を受けて明るさを増した金髪も、太古の琥珀を思わせる色をした瞳も、額に滲む汗ですら。  余りにも眩しいものだから、いっそ鬱陶しかった。ベンチに横たわったリッキーは目を閉じ、酷く冷たく感じる手の甲を額に押し当てる。  いや、これは体の末端以外が熱いと言う方が正しい。体温計で測ってはいないが、間違いなく平熱の範疇を超えている。悪寒が止まらない。二の腕を擦るポロシャツのコットン生地すら不快なほど、肌が刺激へ過敏反応する。その感覚から唯一目を逸らす事が出来るのは、強烈な眩暈の波が押し寄せてきた時だけ。体を地面と水平にしていてもくらくら来て、ちょっとの身動きですら地面へ転がり落ちてしまいそうだ。  いっそそちらの方が幾らかマシかも知れなかった。木製の座面は火照った身体の熱が移って生ぬるい。庇のお陰で、太陽が上って以来一度も陽光の洗礼を受けていない土は、未だ冷たく気持ちよく湿っている。  なのにリッキーが落ちようものなら、ランベルトは手を貸して元の位置に戻す。何なら無理矢理抱え上げる真似すらするかも知れない。そうするよう命じられているから。もし彼の自発的な意思があるとするならば「それが仕事だ」と答えるだろう。  揶揄の答えを律儀に返すならば、正解は日射病だ。  昨日のうちから、付き合えと宣言したのは当のリッキーだった。今滞在している邸宅の持ち主は、今日明日と夫婦共々ニューヨークへ帰っているので、自由に羽を伸ばしてやろうとさもしい気持ちを起こしたのは確かにあった。けれどまさか、こちらが脇から来た刺客に好き放題されるとは思いも寄らないではないか。  流石キャベツ食い、リッキーがのろのろと、寝室まで運ばれて来たパンにバターを塗っている頃には、もうテニスウェアへ着替える事までやってのけている。二日酔いか、ならやめとくかと竦められた肩が、逆に闘志を掻き立てた。    まあ、どれだけ発奮したところで、この器用な男に勝てることはない。逞しい肉体はスキー、ボクシングからセーリングまで、ありとあらゆるスポーツに熟練している──セックスも運動に入るのだろうか? どちらにしても、あれが彼の一番お得意な体の動かし方である事に変わりはない。  対してリッキーは、さしてこの遊びが得意ではなかった。家族でトーナメントをしてもよくて3位入賞に食い込めるかどうか。  以前、腕を磨きたいならビッグ・ビル・チルデンを呼んでやると父に言われた事があった。彼ならインマン家の別宅があるマリブから車で30分の所に住んでいるし、何せ元世界王者だ。けれど先に雇ったことのある友人から、あんなアル中止めた方が良いと助言を貰ったから、すんでのところで断ることに成功する。  口うるさく、ボールボーイは愚かこちらの尻を触って来かねないコーチよりも、ランベルトは遥かに気持ちよい相手だった。彼にとって、リッキーとのラリーは文字通り軽い肩慣らしでしか無いのだろう。ワンツー、チャチャチャ、ジルバでも踊るつもりで軽くやれば良いのさ。毎回アドバイスはその一言だし、相手が盛大にラケットを空振りしても、快活にスコアを叫ぶだけ。だがそれだけでも、最初は寝起きのかったるさが勝っていた運動へ、リッキーをのめり込ませるには十分だった。  いつのまにか本気になっていたので気付かなかった。滝の如く流れていた汗がぴたりと止まる。喉が張り付かんばかりに乾いている。まずいと思ったのは数ゲームを終え、クレイコートの脇にあるベンチへ向かって歩き出した時のこと。途中で倒れなかったのが奇跡だ。腰を下ろした瞬間、燃えるような熱が全身を舐め尽くしている事に気付き、脊柱がぐんにゃりとなる。  使用人が運んで来た塩入りのレモネードは無理矢理2杯飲んだが、一向に起き上がれる自信がない。  火のような息を吐き、そろそろとリッキーが瞼を持ち上げれば、既に視界は色男に占拠されている。ん? と首を傾げながら、ランベルトは微笑みかけた。ちょっと目元口元に苦みがまぶされているのは、呆れが三分の一、いたましさが三分の一。残りは……期待しても良いと思う。リッキーの頭を撫でる手は、こんなにも優しいのだから  赤い癖毛を弄んでいた、大柄な体の割には繊細な造形の指は、やがて下へと降りていく。今更一つ、二つと外されたシャツのボタンは、悔しいが確実に息苦しさを緩和してくれた。  ただ、デコルテをそっと摩る手つきは頂けない。痛みにすら近い感覚へ、ぶるっと身を震わせたものの、抵抗する気力は今のリッキーになかった。  それを良い事に、荒れの一つもない賭博師の指先は、鎖骨の窪みから肩の付け根を通り、無防備な首筋を通過して遂には顎へ。熱い。息苦しい。喉を晒け出すように頭を反らして、リッキーは短く深い息の塊を吐き出した。レモネードに混ぜられた蜂蜜は、熱く乾いた口腔内で酷く醜悪なものに変化している。 「まだ辛いか。中に戻ろう」 「大丈夫、もう少し休めば」 「そもそも、テニスなんかするのが間違ってるんだ。そばかす一つないのに」  紅潮した頬を指の背で撫でながら、ふうっと滑り寄る感嘆の吐息は甘く、爽やかだった。彼も先程、レモネードを口にしたのだ。 「アメリカ生まれで、こんな綺麗な肌をした赤毛の男を、俺は見た事が無いよ」  礼は毎日風呂上がりに、己が使っていたセタフィルのクリームを肌へ擦り込んでくれた小間使いに言わねばならない。 「冷たくて気持ちいい指だなあ」 「普通は嫌われるんだが」 「それは見る目がない」  猫へするかの如く、顎の下を擽る指先へ素直に身を任せ、リッキーは粘つく唾液が絡む喉を小さく鳴らした。

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