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2.頭痛

 昼食会が始まる前から、もう帰りたくて仕方なかった。フォンとか名前に付いたオーストリア人の元映画監督が客として呼び寄せるのは、大半が彼自身と同じく黴の生えたような人種ばかり。さながら『失われた時を求めて』だ。過去の亡霊は、皆醜い。  帝政ウィーン育ちの貴族様のことだから、己の出自も散々当てこすられるかと覚悟していた。大丈夫だよ、とランベルトは笑っていたが、あてには出来ない。彼が危機と認識するのは、本当に余程の事態のみ。つまり己が昔の女に銃で撃たれるとか、インマン家が破産するとかしない限り、何も彼にとって大した事などないのだ。  夜も興奮し過ぎてバルビタールでも飲めと嗜められた位で、実際夜中の2時頃にジン・トニックで流し込むよう促されたものだから、まだ薬効が切れていない。芯が弛緩したような頭ではもう何もかもがどうでも良くなる。えいままよ、とそのままパリ郊外にある邸宅までベンツを快走させたものだから、到着は一番乗り。ふにゃふにゃと怪しいフランス語で挨拶したリッキーと(ヨーロッパ中の言語を流暢に操るランベルトと違い、薬なり酒なりで酔ったりすると、どうも外国語が怪しくなるのだ)傍らで行儀良く控えるランベルトへ、館の主人は四角四面な態度で出迎える。屋敷の案内は彼自身がしてくれたのだから、全くご丁寧なものだ。  シャンデリアはプロイセン貴族の誰々の屋敷から持って来たものだとか、暖炉はどこどこの石だとか。歴史も建築学も大学の講義で身を入れなかったリッキーにはどうにも難しい話ばかり。挙句威厳たっぷりに張り上げられる大仰なドイツ訛りは、頭の痺れを助長する。彼の発声はランベルトの親玉と言った感じだったが、殊勝な顔で説明に耳を傾けていた本人がどう思っていたかは分らない。  最後に、特注したと言う四方の天井一杯まで伸びる棚がご自慢の、薄暗い図書室へ来た時、とうとう限界が訪れる。「沢山本があるんですねえ」と赤ん坊みたいな口調で言ってのけたリッキーを見るにつけ、ようやくフォンも理解したのだろう。このアメリカ紳士に芸術への造詣を期待するのも無駄だと。  それでも彼は礼儀正しい説明を止めず、ガラスケースに収めてある脚本を白手袋に包まれた手で示す。自身の監督作品の完全オリジナル版、つまり上映時間12時間超えの超大作。ウィンナ・ワルツ調のオペレッタだそうで、ランベルトが事前に教えてくれた話によると「傑作」だそうだが、残念ながらリッキーは観たことがない。 「グロリア・スワンソンをやっつけたって本当ですか。僕の父はジョー・ケネディを嫌っているので、その話を聞いて以来、あなたを尊敬しているんです」 「『サンセット大通り』の貴方は素晴らしかった。いつまでも浮ついた年増女のスワンソンと、厳格なあなたの存在感の対比が際立っていました。あの部分はあなたが演出を?」  そつの無い賛辞で、明らかに機嫌を良くしたフォンは、そのままランベルトと母国語で談義を始めた。トーキー映画を撮った事が無いとは思えないほど饒舌に、フォンはあれこれと語る。だからリッキーが「僕はウィリアム・ホールデンが大好き」と英語で呟いた時も、碌に聞いていなかっただろう。  そう言えばあのワイルダーの映画、フォンとグロリアは主従、いや元夫婦か? 密接な役だったけれど、気まずくなかったんだろうか。  知らない言語へ耳を傾けていたら、ただでも雲が掛かったようだった頭の中は、今や豪雨に雷鳴の荒れ模様。太い息をつき、リッキーは一番に目についたカラフルな装丁の本を、棚から引っこ抜いた。そのまま靴を脱ぎ、良く手入れされた緋色の革張りカウチへどすんと身を投げ出す。幸いこれは英語の本らしい。ナボコフか、最近出版されたエロ小説はないのだろうか。ドイツ人はむっつりスケベだと言うから、案外どこか、奥の方の棚に隠してあったりして。  かったるげに目を眇めながらページを繰るリッキーに視線を落とし、モノクルをはめた、いかめしい顔付きの老紳士は「wunderbar」と呟いた。 「貴君はアメリカの貴族だな」 「爵位は持っていませんが」  辛うじて欠伸を噛み殺しながら、リッキーは答えた。 「広義の意味ではそうかも知れません」 「他人の家で心から寛げる人間は、貴族以外にあり得ない」  この場で誰よりも折目正しい男は、おごそかなドイツ訛りでそう続けた。 「積み重ねられた特権を受け継ぐ者……相互の寛容と、規則は破る物だと知っている者のみが出来る行為だ」  メイドが呼びに来て、フォンは新たな客を迎える為に部屋を出た。  テーブルの上に用意されたデカンタから、グラスにブランデーを注ぐと、ランベルトはリッキーの枕元へ腰を下ろした。ぴんと伸ばされた背筋は、シャツの中へ板でも入れているかのよう。狭いから別の場所へ座りなよ、とリッキーが抗議する前に、大きな手が顔に触れる。  親指と中指で両のこめかみをぐっと押さえられ、脳にじんじん重だるい痺れが走る。圧が無くなれば少し痛みはましになっていた。それの繰り返し。最初こそ読むふりだけはしていたものの、とうとうリッキーは本を閉じ、身をずり上がらせて男の膝枕に頭を預けた。ランベルトは叱らない。それどころか黙って眼窩や眉間を揉み、時には柔らかく耳を引っ張ったり折り畳んだり。柔らかい吐息と共に呻き、リッキーは呟いた。 「さっき、フォンは僕のことを馬鹿にしたんだろうか」  ひんやりと薄暗く、静かな部屋の中でこのまま目を閉じていたら意識が溶けると分かりきっているのに、誘惑へ逆らえない。いや、もう既に今の時点で、片足は微睡みへ突っ込んでいる始末。涎が垂れるほどうつらうつらしていたものだから、ランベルトが問いかけに何と答えたか、リッキーはついぞ知る事ができなかった。

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