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3.貧血
顔がありませんよとあらかじめ検視官から警告されていた。ならば身元確認なんぞ意味がないじゃないかと思ったが、警察の手続きが形式張って融通が利かないことは世界共通らしい。
ディドゥロウ通りの突き当たり、セーヌ川の河岸にある遺体安置所へ足を踏み入れて15分足らず。その内ひんやりした霊安室にいたのは30秒ほど、だと思う。手術台に被せられていた覆いが捲られて5秒後には、ふうっと頭の中は冷たくなり、目の前が真っ暗になった。付き添ってくれたランベルトが咄嗟に腰へ片腕を回して抱き留めなければ、そのままへたり込んでいたに違いない。
はい、間違いないです。彼はコリン・フォーサイス氏です。(説明に反して、コリンの顔は右半分がほぼ無傷の状態で残っていた)そちらにある服も、昨晩彼がパーティーで身につけていたものに相違ありません。同伴の女性は無事でしたか? いませんでした? 彼が持ち帰る、いえ、つまり、彼は親切な男なので、送って行こうと持ちかけたんです。あくまで紳士的に。何せ彼女も貞淑なご婦人だったので。
本当に酷い事故だったと言う。制御が効かなくなったミニクーパーのドアが開いたお陰で、コリンの上半身は外に飛び出した。運転手の顔と肩を時速70マイル(113キロ)でアスファルトへ擦り付けながら道路脇に進路を逸らした挙句、車は路肩の木へ激突してようやく停止。タイヤに巻き込まれつつ木に潰されたコリンの体は、背骨だけで6箇所も複雑骨折していたらしい。
こんな姿、親御さんにとても見せられないではないか。アメリカ南部一の煉瓦長者の御曹司の顔ではない。
彼のことが好きだったと、リッキーは今になって理解した。性的な意味ではない。もっと純粋に、異国の地で懐かしい言葉を話す、歳の近い友人として。
彼とは境遇が似ていた。今このモルグに横たわっているのが自分であったとしても、何らおかしくはない。舞台はオテル・ド・クリヨン。ジェット族の若いオハイオ人夫婦が主催するパーティーは、客もまたアメリカ人が多かった。その時点でうっかりほろ酔い位にはなり、知人の知人が持つアパートへ流れた時にはすっかりいい気分。そこから更に郊外にある誰それの別荘へ行こうとの誘いについて行かなかったから、己は命が長らえている。
まあ、自らが多分どれだけ泥酔しても、ハンドルを握っていたのはランベルトだったので、さしたる心配はなかったのかも知れないが──彼の肝臓は鉄で出来ているのか、どれだけ強い酒を飲んでもけろりとしているし、みっともない酔姿など想像すらさせない。
警官とのやり取りや、その他煩雑な手続きを全部ランベルトがやってくれている間(そもそも目撃者と言う点で言えば、この男も自らと全く同じ条件なのだ)路肩に停めたベンツの中でぼんやり待っていた。お陰で気分は少し、ほんの少しだけ快方に向かう。
それにしても、コリンが引っ掛けたあの何とか夫人は、一体どこに消えたのだろう。途中で掻っ攫われて違う男について行ったか、それとも本当に指一本触れられず送り返されたか──あり得ない。コリンはやるべき事をやり遂げる男だ。
あれだけの大事故だから、もしも同乗していたとすれば、彼女とて無事では済まされなかったはず。よく映画であるように、どこかへ担ぎ込まれて昏睡状態になっていたり、記憶を失っていたりして身元不明人扱いされているのかも知れない。
或いは奇跡が起きて、ほんの些細な傷しか負わなかった。
その可能性こそ、最も忌むべき想像だった。コリンは明け方に通りかかった地元の農夫へ発見されるまでの数時間、大破した車の側で放ったらかしにされたのだ。もし彼女が良心と不名誉を天秤にかけ、正しい選択の後に事故を報告していたら、助かっていたかも知れない。
「君は、僕が事故で死にかけても、勿論通報してくれるだろう」
戻って来たランベルトに問いかければ、何を当たり前の事をと言わんばかりに片眉が吊り上げられる。
「間違っても、その場へ置き去りになんかしないね?」
「君を担いでパリの病院まで連れて行く」
車のイグニッションを回しながら、決然と言ってのけるランベルトの口調は、胸がすくほど歯切れ良い。
「昔、ビル・ハケイムで、盟友を背負って4日間砂漠を彷徨ったことに比べたら、容易い事さ」
そう、彼はドイツ戦車部隊の英雄だ。「あの男の言う事を余り真に受けるなよ」と父は言うが、リッキーは周りが言い募れば言い募るほど、ランベルトを信じた──彼の言葉ではなく、その本質を。
大体、この女たらしで鳴らした男が、リッキーを受け入れた理由は、まさしく本人が話した生歴に由来するものだった。リッキー自身ですら漠然と感じていただけであるものの正体を、ランベルトは見抜き、そして否定しない。
「珍しいことでもない、軍では日常茶飯事だった」
何を隠そう、触れて来たのはこの男からだ。いとも軽い調子で肩を竦め、膝の上で硬い拳を作っていたリッキーの手に手のひらを重ね、彼は甘く台詞を紡ぐ。
「閉鎖的な空間で、親密な関係が構築されれば、誰にでも起こり得る。寧ろ、君がそれだけ俺に心を許してくれている事が嬉しいよ」
愛が嬉しいものだと教えてくれた男は、今も助手席のシートにぐったり身を預けたリッキーの頬に手を添える。「人に見られる」「構わないさ。別に隠す必要なんかない」
こんな大胆な真似をする男が、一時の醜聞に惑わされて己を捨て去る筈などない。確信に満足し、リッキーは男の唇を大人しく受け入れた。
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