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4.麻痺

「綺麗な足だな」  モカシンの部屋履きを脱がせ、毛糸の靴下を引き抜き、現れたリッキーの右足を、ランベルトは矯めつ眇めつ眺める。彼の口から、しかも今の状況で飛び出すと、そんなもの皮肉にしか聞こえなかった。 「そりゃ、君に比べたら誰だって」  ティーニュに滞在して5日、真面目にスキー三昧の日々を送っている。早くから起き出して、上り始めた朝日を反射し、目が潰れてしまいそうなほど輝く雪原を真っ直ぐ滑り降りる爽快さと言ったら、何事にも変え難い。  己だってそれなりの腕前だと自負していたが、ランベルトはどんな時でもリッキーの一歩、どころか半マイルは先を行く。巨躯を感じさせない軽快さで風切り疾駆する背中へ、遅れまいと躍起になっていては意味が無い、何せ今回は楽しみに来たのだから。かと言って、彼に己のペースへ合わせさせるのも腹が立つ。  もっと難易度の高いコースへ行けばいいのに、と幾ら言っても「お遊びで本気にはならないさ」と肩を竦められる。はっきり言ってプライドは傷付くが、振り返りざま肩越しに、あの琥珀色をした美しい目を細め「下で待ってる」と言われれば、もう逆らえない。棚引く青いカシミヤのマフラーを、また一生懸命追いかける羽目になる。  と言う事で、もういい加減疲労困憊、すっかりくたびれたとシャトーの部屋でベッドに転がっているリッキーと違い、まだまだ体力は有り余っているだろうに。ベッドへ腰を下ろしたランベルトは、恭しく手に取った素足の人差し指と中指の間に、ぐっと親指を差し込んだ。  揉み解されて初めて気付くのは、自らの爪先がすっかり感覚を失っていたこと。体温の低いランベルトの手ですら、火傷しそうに感じられるほどだから重症だ。なのに思わず、リッキーは「冷たい」と声を上擦らせた。 「そんな事しなくていい、盥に湯を張って持って来させるよ」 「いや、まずは刺激して血行を促進した方がいい」  取れるぞ、と言うのが冗談だと分かっていても、己の小指がポロリと剥がれ落ちる様子を想像し、リッキーはぶるっと上半身を震わせた。シーツを掻いて皺を刻む左足の踵へ一瞥を落とす時、ランベルトの表情は相変わらず涼しげなもの。踵を支える手の力が強くなり、子供のように丸っこいリッキーの足指を根本から先端に向けてマッサージして行く。かじかみ少し青黒くなっている指先は、長く形の良いランベルトの手指が引っかかる事もない。  ランベルトの足はもう少しぼこぼこしていた。以前、彼が風呂に入っている時に見たから知っている──いや、嘘、まじまじと観察したのはベッドの中。暗がりでも、指の関節に固いタコがあったのを見て取れたし、触れても確かめた。母にもあった、スキーの熟練者のみが待つことを許される勲章。  どこもかしこも美しいこの男の身体の中で、数少ない不格好な場所。それすらリッキーに羨望を抱かせるのだ、全く憎たらしい話だった。 「さっきも言ったが、膝だけでバランスを取ろうとせず、もう少し内腿で骨盤を支えるイメージで。上半身が安定する」 「分かってる。さっきもそうしてただろう……」  君は僕の前を走ってた癖に、アドバイスなんか出来るものか。そう返そうとした憎まれ口は、足の甲から徐々に取り戻される体温によって、舌の上で溶けて消える。心地よさに溜息をつくと、ランベルトは「本当に?」と笑い出しそうな声で尋ねた。  いつのまにか手のひらは足から上へと進んでいる。脹脛の腱を伸ばし、膝下の筋肉群に蓄積する緊張を解く。凍えるようだった身体は、上半身までうっすら汗ばんでいた。  今から着替えて下へ降り、ゲレンデで久しぶりに会った何とか夫妻と食事をしなければ。ランベルトは初対面のようで、紹介すれば彼も喜ぶだろう。  紹介だって? まるでポン引きにでもなった気分。  ランベルトは顔が広いが、それでもリッキーやその家族が引き合わせた人間は決して少なくない。そして気付けば、彼はインマン家の誰よりも相手と親しくなっている。  だから嫌なのだ、と、今まで当たり前にこなして来た行為に嫌悪感を覚え、思わずうっすら眉根に皺を寄せる。  何が嫌なの? と自身へ問いかけていたら、すかさず気難しさの証に優しいぬくもりが降ってきた。 「ラニー、擽ったい」 「これは治療だよ、リッキー」  大丈夫、楽になるだけだ。とろりと耳に吹き込まれる。気付けば、彼が指摘していた内股まで、大きな手のひらは這わされている。筋肉そのものも張っているし、骨盤の稼働部を拳でぐっと押されれば、とてつもなく気持ちいい。すっかり眠気と快感にとろけた口調で、リッキーは「もっと」と呟いた。  暖炉の中で太い薪がぱちりと爆ぜる。寄り添っていた体温がすっと離れ、瞼を開けた。 「そろそろ夕食の時間だ。腹が減っただろう」  枕元の時計を見上げ、渋々身体を起こす。  サボろうかな、別に深い知り合いでもないし、今後仲良くする予定もない。大体、夫人の方は明らかに、ランベルトへ色目を使っていた。  けれど、己の目を覗き込む男の、狼のような瞳に逆らえない。この「やって当然」と言わんばかりの、強い眼差しに、リッキーが否と言えた試しはこれまでなかった。 「でも、手が悴んで服が着れない。手伝ってくれよ」  スプリングの上に突いた両手を幽霊のように前へ掲げたのは、せめてもの妥協だった。なのにランベルトは、腕の時計へちらりと視線を落とすと、再びベッドへ腰掛けた。 「なら、あと10分だけ」  掬い上げる凍えた手に指を這わせ、唇を落としながら、ランベルトはそう囁いた。

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