雪目でしょう、と往診に来た医師が診断を下した時、傍らに控えていたランベルトは間違いなく笑いを噛み殺していた。 「そりゃあ笑いもする、あれだけ大袈裟に痛いだの目が見えないだの騒いでおいて」 　鉄橋を超える車両の振動でも、鼓膜を擽る揶揄の色は誤魔化せない。ペルソールのサングラス越しに薄く開いた目を、リッキーは辛うじて睨みつけているように見える形へ動かした。 　ティーニュからジュネーヴへ行って銀行家に会い、せっかく降りた山を迂回するようミラノへ。6時間の旅は角膜を癒すのに十分と言えず、今夜のパーティーではこのままサングラスが手放せないだろう。 「良いじゃないか。どっかの映画監督みたいだ」 「ジョン・フォード的な？」 　コンパートメントへ他の客がいないのをいいことに、リッキーは不機嫌を隠しもせず鼻を鳴らした。正面に腰を下ろしたランベルトは、それを広げた今朝のル・モンドで簡単にいなす。 　この頑強なキャベツ食いは笑い飛ばすが、今朝目を覚ました時は、本当にどうしようかと思ったのだ。両目とも真っ赤に充血し、視界はさながら霧の中へ放り込まれたかのよう。隣室のランベルトを呼びに行くまでに、3回は壁や家具に衝突した。「雪目だろう」とさして慌てもせず、欠伸混じりに告げられた彼の予言は、見事的中した訳だ。全く業腹だった。 　まるで素人のような疾病は、羞恥と怒りを一層掻き立てる。これまで冬が来る度山へ来ていたのに、こんな事態は初めてだった。「今までは大方、雪合戦してるか、ロッジで火に当たりながらピナクルでもしてたんだろう。良かったな、大人の遊びの洗礼を受けて」なんてランベルトの指摘は、絶対、絶対間違っている。 　執拗に憎々しげな眼差しを向けていた効果はようやく現れる。新聞を折り畳むと、ランベルトはおろしたばかりなヘリンボーン・スーツの懐へ手を差し入れた。取り出されたのはスコッチの入ったスキットルではないらしい。目を眇めて身を乗り出せば、そのままサングラスを奪われた。 「そろそろ薬の時間だな」 「目薬？　まだ早いってば。さっきから2時間も経ってない、多分」 　そんなところに隠し持っていたなんて、と少し笑いを転がし、油断したのが運の尽き。気付けば隣に腰掛けられ、左手で顎を掬われる。 「嫌だよ、それ、凄く沁みるんだぞ」 「よく効く薬は苦いし沁みるもんだ。良い子にしたら、ご褒美をやろう」 　ご褒美、と呟いた舌にまで、目から鼻を伝って苦味が押し寄せてくる。何もしない方が余程ましな眼球の痛みに、思わずひっと息を飲み込んだリッキーの様子を、ランベルトは間違いなく面白がっていた。 　びりびり響くような刺激が、ぶわりと充填された涙でようやく埋められる。 「大袈裟な」 　そう腐しつつも、甘ったるいシャネルを染み込ませたハンカチが取り出され、眦から流れ落ちる雫を拭う。必然的に彼の身体もこちらへと寄せられるから、人肌に温められた、オリエンタルな芳香が鼻腔を擽る。これは香水だけではない、彼の吸っている黒い刻み葉の煙草。 「雪目で死んだ奴はいない。数日もすれば、けろりとしてるよ」 「だからって」 　柔らかなシルクシャツの袖口と、ひんやりしたカフスボタンが頬を掠める。避けるよう首を竦めたリッキーに、ランベルトは顎を掴む手へ力を込めた。 荒れの一つもない親指の腹が口角を撫でる。 「リッキー。どうして目を開けない」 「眩しいから」 　押し込んで含まされた指先へ軽く歯を立てたのは、あくまで抵抗の意思を示してのことだ。なのにランベルトは、喉奥で笑いを転がす。悔しくなって、リッキーは瞼を開いた。肉体反応としての瞬きが、理性で制御できるようになったと言え、視界はやはり不明瞭。まるで無数の星が視界へ散っているかのようだった。 　輝きは、顔を覗き込む男の顔を網膜へ映した時も同じだった。寧ろ痛みは、余計に増した気がする。 「ほら、やっぱり沁みる……」 　呟いて、顔を捕らえる手から身を離す。そのまま男の二の腕を掴んでいた手のひらをゆっくりと上へ滑らせた。 　触覚だけが頼りだから、顔面へと辿り着くまでに手を振り回したり、指先が空を切ったり、決して格好のいいものではなかっただろう。最終的に、目的地へ到達して撫で回されても、ランベルトはリッキーの好きにさせていた。 　こうして触れているだけでも、整った造形の目鼻立ちだと言うことが分かる。くっきりした顎からの輪郭。すっと通った鼻筋。柔らかい唇と、手入れされた口髭──微笑んだのだろう。手のひらで、口角の持ち上がりを知る。 　触れることが出来るほど、感じることが許されるほど、こんなにも近くへいるのに、なんて遠い存在なのだろう。 　手に入れられないのだと、益々強く実感させられ、泣きそうになる。そんな事になったら、せっかく目薬をさしてもらったのに、やり直しだ──再び繰り返したいのか、このままやり過ごしたいのか、リッキーにはもう分からない。 　これまで苦痛から守られて生きて来たせいだろうか、刺激が強過ぎる。 　いつ車掌が切符を確認しに来たり、他の客が中を覗き込むのか分からない。なのにランベルトはリッキーの顎を摘んで引き寄せる。 「どれ、もっとよく見せてご覧」 「酷い顔してるだろう。殴られたみたいで」 「いいや。黒眼鏡で隠すのが惜しい瞳だ」 「どんな目？」 「一途な若者の、恋してる瞳」 　ふざけた戯言と共に、まだ濡れている目尻へ唇を押し当てられる。火照った瞼の粘膜へ触れている間から、ランベルトは「苦いな」とさも後悔しているような口調で呟いた。