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18.死を悟る

 そばかす一つ無かった白い肌はヘルペスだらけでぱさつき、鼻から頬にかけてと言えばジン焼けの兆候が隠せない。乾燥した赤い髪。モルヒネの作る朦朧のせいで、銀色の瞳は安っぽいニッケルじみたくすみを帯びている。駄目押しとばかりに、身につけているのは絹のパジャマではなく、ぺらぺらの病院着と来た。  自らが賞賛した美しさを全て失ったかつての愛人に──せめてそれ位の関係ではあったと、リッキーは頑なに信じていた──ランベルトは平然と対峙する。看護婦に案内され、一歩部屋に足を踏み入れるや、まるで一週間ぶりに会ったかのような顔で「やあ」と口元を緩めた。  四半世紀の間、彼は己のイメージを完璧に保ち続けていた。見事なブロンドは見事なプラチナ色になり、眦や口角に刻まれた年相応の皺が魅力に拍車を掛ける。彼が今までずっと、ご機嫌に過ごしてきたという証拠。押し寄せる安堵と、もっと濁った感情を、リッキーは複雑な思いで受け止めた。 「最後に話をしたのは、いつだったっけ。ジャッキーの結婚式?」 「そうだな。もう10年近くになるのか」  立てかけてあったパイプ椅子は、ぶら下がった点滴へぶつからない位置で広げられるから、何だか距離があるように感じる。組まれた脚の先端で、昔と変わらず磨き立てられたプレーン・トゥの靴が、ベッドの枠へぶつかる。それだけで、これほど胸が締め付けられるなんて想定外だった。  クールな態度を貫いても無駄なこと、足掻くのは止そう。この一流の役者の前で、小手先のごまかしなど効きはしない。リッキーは起こされたベッドにぐったり身を預け、穏やかに細められる瞳と向き合った。 「この25年間、色々あった。君の助言通り、冒険をして、経験を積んだって言えるのかな……あれからすぐ、精神病院に入ったよ。タマに電気コードを付けられて電流を流されたし、インシュリンから氷風呂まで一通り……結婚もした、離婚だって。信じられるかい、この僕に子供が2人もいるなんて」 「彼らは見舞いに来るのか」 「さっぱり顔を見せないか、僕が眠っている時に来てるかの、どちらかだろう。何にせよ、早くくたばってくれることを祈ってると思うよ。それだけの事を、僕はしたから」  自分で出来る限り、精一杯こなしたつもりだ。「ホモを治そう」と馬鹿げた治療を受けたし、両親の期待に応える為真面目に働いた。妻も子供達も愛した。でも、足りなかったのだ、世間の基準からすると。己を上手くあしらえない人間に、男らしく、まともに、他人を愛することなど出来はしない。  ならどうすれば良かったのか、と何度自問自答したことか。どれだけ一生懸命考えても、最終結論は「どうしようもなかった」に辿り着くのだから、もう本当に手の施しようがないのだろう。  言い訳は幾らでも思いつく。安心した両親が生前贈与を決めた辺りから、がたがたと何かが狂い始めた。無くした面影を追い、暇を見つけてはモンテ・カルロのカジノへ足を運び、サイコロを振っていた。まとわりつく男達の腕を振り払わなかった。  己は極めつきの凡愚だったと認めることのどれほど辛いことか。でも、仕方がない。最初の経験が余りにも鮮烈だった。こんなにも美しい男と、例え一時でも人生を共有すれば、その後の生活が全て味気なくなってしまっても当然の話だ。 「有り難う、久しぶりに顔を見れて嬉しいよ。正直、来てくれるとは思わなかった」 「昨日までアトランティック・シティにいたんだ。ボードウォークも退屈な場所になったな、観光バスで来てスロットを回す、引退した老人ばかりだ」  この伝説の女たらし、最高のハスラーが、髪を紫色に染めた老婆達の間に混ざってカードを捲っている姿を想像する。反対の指にはあの重く甘い紙巻煙草を手挟み、背筋をしゃんと伸ばして。  長く形の良い指先は、今でも器用にチートをこなすのだろうか。膝の上で組まれた左手に視線を落とし、リッキーは首を傾げた。 「ああ、そう言えば、君も離婚したのか。3度目だっけ?」 「私のことはどうでもいい」  若く未熟だったリッキーを容易くおろおろさせた、深く柔らかい声が、静まりかえった個室に響く。いや、刷り込みとは恐ろしいもので、今でも肩が少し強張ってしまう。 「なあ、リッキー。私は言ったよな。君はきっと幸せになるって。君はその特権を享受するチャンスを手にしていた。それがこの体たらくだ、一体何があった?」 「分からない……こんな事を言うと迷惑だろうね」  一言口にする度、薄衣を一枚ずつ被せるように、全身の気怠さは増していく。今でも何より美しいと感じる、ランベルトの真面目腐った顔つきと対峙していられなくて、リッキーは窓の外を見遣った。監獄の塀のように感じていた深い広葉樹の木立へ、今は走り込んでしまいたくて堪らない。もう全身に蔓延る病巣は、そんな元気な真似を許してくれないだろうが。 「君のせいにはしたくないんだ。でも……ああ、くそっ。ラニー、この25年間、僕は欲深かった。人並みに幸せだったのに、もっともっとと手を伸ばして……けれど、君には絶対届かなかった」 「謝って欲しいのか」 「いいや」 「当然だ。君には金があった。立派な家柄もあった」    何とも思っていないなら、優しくしないで欲しい。哀れむ位なら、いっそ忘れて欲しい。  それなのに、今でも覚えているのは、彼に愛されていたという記憶。感じるのは、彼が向ける貪欲な眼差し。そんなものは単なる騙しの技術だと、一体何人の人間に諭されたことだろう。  けれど今ランベルトの口調は、まるで地の底まで沈んでしまいそうな重みを纏っている。こんなにも、己一人に向かって話しかけてくる声を、リッキーは生まれてこの方聞いたことがなかった。 「君は周囲が思うほど愚鈍じゃなかった。いつでも私にまとわりついて、何か聞きたげな、全てを知りたいと言わんばかりの目をしていたね……追い求めているものが幻影だとも知らずに」  懐から取り出したシガレットケースを開き、「吸うかい」と尋ねられ、リッキーは首を振った。彼と別れてから始めて、再びあい見えるまでにやめた、と言うか出来なくなった習慣。勧めておきながら、ランベルトは特注品らしい金のケースから自らの分を取り出す事なく、ぱちんと閉じた。 「でも、これだけは勘違いしないで欲しいんだが。君の前で、君が望む理想の男を演じていた時、私はとても幸福だった。自分が本当にそんな人物だと錯覚してしまいそうになって、恐ろしさを感じた程だ」 「だから立ち去った?」 「ツキは永遠に続かない」  正直、彼の口から何を聞かされても失望する自信はあった。けれど静謐に微笑み、伏せた視線を上げられなくなった男を目にした時、リッキーは泣きたい程の感情が込み上げてくるのを感じた。ちゃんと彼以外の場所で愛は知っていた筈なのに、悪徳が平穏を、こんなにも呆気なく凌駕するとは。 「手紙を出したのは、ラニー。君がホテルを転々としていると聞いたからだ。僕にも少し財産がある。 父さんじゃなくて、僕自身の財産がね」  今度こそ上手く笑い返そうとしたのに、またもや大失敗。これでは呆れられるのも当然だ。深々とつかれる息に心臓が跳ねる、いっそこのまま止まって欲しい。  ましてや、ひんやりした手が、シーツの上へ力無く投げ出された手に重ねられた時には。もうこのまま死なせてくれと、リッキーは本気で神に祈った。 「そんな事を考えてたのか。本当に馬鹿な奴だな」 「笑えよ。どうせ君がその気になれば、一晩で使いきれるような額しかない」 「違う、リッキー。私だって金は持ってるんだ。3人分の慰謝料は馬鹿に出来ないって話さ」  堂々とつかれる嘘を、弱りきった肉体は拒絶しきれない。あまつさえ、真っ直ぐ顔を覗き込むのは、琥珀色の瞳だ。 「ああ。私のリッキーがここにいる……馬鹿で、弱くて、意地悪で、欲深くて、命懸けの恋をしていた美しい青年。どれほど会いたいと望んだか分からない、人生で唯一手に入れることを許されなかった男だ」 「ラニー。君は変わったね」  もっと利口で、スマートな男だったのに。そう呟けば、「なに、知らなかっただけさ」と肩を竦められる。 「それに、私だって歳を取った。少し感傷的になる位、許されるだろう」  呼び出された看護婦は、クローゼットから旅行鞄を取り出す。手早く詰め込まれていく荷物に目を見開いたリッキーへ、ランベルトは芝居かかった風で両手を広げて見せた。ずっと昔、2人で旅をしていた頃、サプライズ・パーティーを開いてくれた思い出が、記憶の奥底から迫り来る。あれほど幸せな誕生日、後にも先にもありはしなかった。 「パリ郊外に療養所がある。私もセーヌ川沿いにアパルトマンを借りたんだ、そろそろ腰を据えるのも悪くない」 「やめろよ、冗談にしてもくだらない!」 「冗談じゃない」 「迷惑をかけたくないんだ」 「私に情けをかけられるのは嫌か」 「そうじゃない……そうじゃない、分かってるだろう」 「なら、さっさと観念するんだ。それ以上駄々をこねるなら、担いででも連れて行くぞ……金なら心配するな。君が生きている間位は賄える」  甘く、そしてかつてない程ぎこちない微笑で捩れる、白く太くなった口髭の下の唇を見て、リッキーは確信した。医者も看護婦も、時たま様子を見に来る兄弟姉妹達も皆一様に口を噤んでいるが、己の命はもう決して長くはない。  そんな事、最初から分かりきっていた。そう嘯く事で、これまで一体どれ程のものを手放し見送っただろう。最後位は、現実から目を背けても、許されるのではないだろうか。 「本当に?」 「ああ。少なくとも、話をする時間は十分にある……さあ、何が聞きたい?」  そう尋ねられたリッキーは、まず一番初歩的な質問を、動きの鈍い舌に乗せる。 「何を今更」  掠れた声を漏れなく聞き届けたランベルトは、昔と寸分違わぬ表情で呵呵と笑う。完璧な芝居に相応しいのは、全身全霊の喝采のみだ。せめて手を動かせるうちは、そうでありたい。  骨と皮だけになった肩へ触れた柔らかい手が、そのまま上へと滑って、こけた両頬を包み込む。乾いた唇に唇が重ねられ、答えを与えられたとき、リッキーはもはや人目を憚ることなど決してしなかった。

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