2 / 45
第1話 傷心男とウリ専ボーイ(1)
「ごめんね、隆之 くん。君のことは今も好きだよ。でも――」
その日、及川隆之 は十年ほど付き合った彼女に別れ話を告げられた。初恋で高校生のときから付き合っていた相手だった。
学生の頃は互いに好き同士でいればよかったし、ただ楽しく過ごせればよかった。しかし年を経ると、将来像だとか価値観の違いがあることに気づかされて、次第にすれ違いが多くなるものだ。
それを認め合ったうえで――と思っていたのだが、そういった甘い考えは自分だけだったらしい。
(なにが『今も好きだよ』だ。そんな言葉、もう信じられるかよ……)
いつから心が離れていたのだろう。
子供がほしいからそろそろ身を固めたい、そう言ったのは向こうだった。
一方、隆之は結婚なんてまだ先のことだと思っていたし、家庭を築く幸せな将来だって想像していたものの、今の自分にきちんと父親としての責任を負えるのだろうかという不安があった。だからつい、決心がつくまでに時間が掛かってしまったのだ。
そして、その頃には何もかも遅かった。気がつけば数か月が経ち、年度も変わって互いに社会人六年目――二十七、いや二十八歳。友人も続々と結婚し始めている頃合いだった。
(結局のところ自業自得……悪いのは全部、俺か)
橋の上で一人佇む。夕陽に染まる川の水面はキラキラと輝いていて、より心をセンチメンタルにさせるようだった。
自分の不甲斐なさのせいで、彼女を失望させてしまった――長い付き合いから、この先もずっと一緒にいてくれるものだと胡坐をかいていたのだ。
もっと言葉を尽くせばよかった。もっと彼女の心に寄り添うべきだった。
もしあのときこうしていたら、と数々の《たられば》が押し寄せてくるけれど、後悔先に立たずというもの。スラックスのポケットに手を入れると、そこには彼女に渡せなかった婚約指輪が入っていた。
「惨めだな……」
純白のケースの中で光り輝くダイヤを見つめながら、小さく呟く。考えれば考えるほどに惨めで情けない。
つい投げやりになって、隆之はケースごと婚約指輪を川に投げ捨てた。さながらドラマのワンシーンのようで笑ってしまう。
と、そのときだった。
「あーっ! ちょっと何やってんのお!?」
突然、背後から声が聞こえて振り向く。
そこに立っていたのは、二十歳そこそこの青年だった。猫っ毛の茶髪に、耳にいくつも開けられたピアス――どこかチャラついた印象を受ける風貌だ。Tシャツにジャケットという若々しい服装からしてまだ学生だろうか。
青年は脇目もふらずに川の中へと入っていく。隆之は慌てて声をかけた。
「お、おい! 危ないだろ!」
ところが、制止の声は届かなかったようだ。
真剣な表情で水中に腕を突っ込んでは、指輪を探す青年。そんなものを目の当たりにすれば、さすがに黙っていられなくて隆之も思わず駆け寄った。
「やめろって!」
再び声をかける。すると、相手はこちらを振り返って眩しい笑顔を見せてきた。
「あったよ!」
ザバッと音を立てて川から上がる。その手にあったのは、紛れもなく隆之が捨てた指輪だった。
「……そこまでする必要なかっただろ。ズボン、びしょびしょじゃないか」
「アハハ、これくらいどうってことないよ。乾けばへーきへーきっ」
あっけらかんと言い放つ天真爛漫っぷりに呆れてしまうも、申し訳ない気持ちになる。しかし残念なことに、今は相手を気遣う余裕などなかった。
「それは捨てたんだよ。見てたならわかるだろ?」
静かに言うと、青年はきょとんとして首を傾げた。
「えー? 汗水流して稼いだお金で買ったんでしょ? 捨てるのはどうかと思うけどなあ」
「それは……」
「わっ、綺麗! お兄さん、いいの選んだんだねぇ」
ケースを開けて指輪を見るなり、感嘆の声が上がる。
隆之は何も言えずに押し黙っていたのだが、すっと青年が手を取ってきて、指輪ケースを握らされてしまった。
「ほら。捨てるなんて勿体ないよ」
「い、いいってこんなの。なんなら君にあげるし、質にでも入れて――」
「俺が貰ってどーすんの。なにも、自分の頑張りまで無下にする必要ないんじゃね?」
「………………」
なんだか泣きそうになり、隆之は俯いて唇を噛み締めた。
給料約一か月半ぶん。広告代理店で働く隆之にとって、決して安くはない買い物をした。
営業部門という仕事柄、接待やそれに伴う残業も多く、帰宅が遅くなる日がほとんどだ。会社も休みを取るよう促してくるものの、結局は家で持ち帰り仕事をする始末。日々のあれやこれやを思えば、確かに無下になどしたくない――が、虚しさばかりが募っていく。
(なんだかもう、疲れてしまった)
そんな心情を察してか、青年が気遣いげに視線を向けてきた。
「どーしたの、お兄さん――俺でよかったら話聞くよ? 近くに知り合いのバーあるし、服乾かすついでにそこで飲まない?」
ともだちにシェアしよう!