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第1話

 ヴァナルガンド大聖堂から、宵の刻を告げる鐘の音が聞こえてくる。  ヴァナルガンド王国の守護聖獣、フェンリルの息吹とも呼ばれる澄んだ音だ。  建国の折に名のある光魔術師たちによって鐘に込められた恒久平和を願う詠唱が、今に至るまでとどろいているともいわれ、ヴァナルガンド王宮を挟んで北側に建つこの塔にまで、よく響いてくる。  その音を聞きながら、クラウス王子はふっと一つ息を吐き、暗い窓ガラスに映る己の姿を一瞥した。  ふわりと柔らかい亜麻色の髪に、薄いブルーの瞳。透けそうな肌と、首にはめられた革のチョーカー。  自分が一見するとオメガの特徴そのままの顔かたちをしていることに、いい加減慣れねばとは思うのだが、いまだに鏡を見るとはっとすることがある。  容貌だけ見ればオメガそのものなのに、長身で肩が広く、細身だが筋肉質な、まるで少年期のアルファのような体つきをしているために、ちぐはぐな印象を受けるせいもあるのだろう。  ごく普通の生来のオメガならば、あり得ないことだ。 (こんな感情になることもないのだろうな。生来のオメガならば)  かすかに苦い思いを抱きながら、クラウスは窓辺を離れてベッドに歩み寄った。  清潔なシーツが敷かれたベッドに腰かけると、振りかけられた薔薇水の香りが漂って、知らず心拍が速くなるのがわかる。  塔の静けさ、部屋の落ち着いた調度品、ベッドの天蓋から下りるベールのようなカーテン。  まるでアルファの番を迎えるオメガの寝室そのものだ。  ここで二日前に始まったこと、そしてクラウスがオメガとして成熟し、発情する体になるまで行われ続けるであろうことを思えば、これ以上似つかわしいしつらえもないのだが、それがまたクラウスの心を憂鬱にする。  大聖堂の鐘の音がやむと、ややあって塔のらせん階段をゆっくりと上ってくる足音が聞こえてきた。  気を静めるために深く息をして、部屋の入り口を真っ直ぐに見る。  目線の先に、巨躯のアルファの男が現れる。 「……少々遅れまして申し訳ありません、クラウス殿下。アンドレア、参りました」  アンドレア・ヴァシリオスが低く告げる。  彼はかつて南方にあり、今から十七年前に滅ぼされた武人の国、シレアの民で、黒髪と黒い瞳、胸に彫られた「戦士の証し」と呼ばれる美しい刺青がその特徴だ。  諸国を流浪していた十歳の頃、クラウスの父である先王に拾われ、幼年期から少年時代のクラウスに、従者兼遊び相手として仕えていた。  その後王国騎士団の騎士となって、二年ほど前からは百人隊長をつとめている。  遠慮がちにこちらを見つめるアンドレアに、クラウスは言った。 「そんなところに立っていないで、こっちに来いよ、アンドレア。今後は俺に近寄るのに許可を得る必要はないと言っただろう?」 「……は。それでは、失礼いたします」  慎み深く言って、アンドレアが中に入ってくる。  部屋の空気が揺れ、かすかに麝香に似た香りがしてくる。  アルファであるアンドレアの、フェロモンの香り。  自分がオメガの体になるまで、ついぞ嗅いだことのなかった匂いだ。  こんな艶めいた香りを発しながら目の前に片膝をついて屈まれたら、否が応でも腹の底のあたりがきゅっと疼く。  それには気づかぬ様子で、アンドレアが律儀に訊いてくる。 「始める前に、ご確認いたします。今宵のお体の調子はいかがですか、殿下?」 「昨日と変わらないな。悪くはないよ」 「お気持ちのほうはどうです?」 「そっちも問題はない。ああ、でもできれば今後は、ベッドで殿下はやめてほしいかな。なんとなくちょっと、恥ずかしさが増すというか」 「それは……、気が回らず大変申し訳ありませんでした。では、クラウス様と?」 「それでいいよ。ほかには特に伝えることはない。始めてくれ」 「承知いたしました」  あえて淡々と告げた言葉に、アンドレアが至って真面目な顔で小さくうなずく。 「では、今夜も不肖、このアンドレア・ヴァシリオスが、クラウス様の『夜伽役』をつとめさせていただきます」 「……っ」  夜着の裾から出たむき出しの膝にちゅっと口づけられ、黒い瞳で見上げられて、背筋にしびれが走る。  目の前のアルファの肉体に、オメガのこの体は早くも反応し始めている。  昨日も一昨日もそうであったように、今夜もまだアンドレアに触れられ、甘く抱かれて恥ずかしく声を立ててしまうのだろうか。 (俺だって、同じアルファだったのに)  衣服を緩められ、体をベッドに横たえられながら、また苦い思いに囚われる。  クラウスは生来のオメガではなく、十七歳まではアルファだった。  五年前に第一王子であった兄が亡くなってからは、ほかにアルファの王族がおらず、クラウスが次期国王になるであろうことがほぼ確定していた。  それが今から三年前、突如原因不明の高熱を出し、数日間生死の境をさまよったあと目覚めると、赤茶に近かった髪は亜麻色に、濃いグリーンの瞳は薄いブルーに、日焼けした活力のある肌は透けるような薄い色に変わっていた。  体がオメガへとバース転換する、「ビッチング」と呼ばれる現象が起こったのだ。  王国を継ぐべき王子としてオメガの伴侶を娶り、王となって子を産んでもらうはずが、アルファの婿を取って自ら世継ぎの子を産むことを要請される立場になってしまったということだ。  それだけでも十分に心が重いのに、アルファからオメガに中途転換したせいなのか、もう二十歳になるのにクラウスには発情期が来る気配がない。  そういった場合、俗に竿役などとも呼ばれる専属のアルファである「夜伽役」を立て、抱き合うことで体の成熟を促すのが一般的で、アンドレアはその役割を果たしているのだ。 「……綺麗ですよ、クラウス様」 「なっ」 「透ける肌が上気して、匂い立つようだ。胸のここも、可愛らしく硬くなって……、まるで薔薇の蕾のようではありませんか」 「そ、な、言わ、なっ……、ぁっ、はぁ、あ」  大きな手で肌を撫でられ、乳首を口唇でちゅくっと吸い立てられて、自分でも信じられないような恥ずかしい声が洩れる。  アンドレアを「夜伽役」に指名したのは、ほんのたわむれ心からだった。  王子として身を慎んで暮らしてきたクラウスは、アルファだった頃もオメガになってからも、性愛の経験が一切なく、アルファに抱かれる覚悟もまだなかった。  話しぶりから、アンドレアもそちらには疎いのだろうと思ったからこそ話を持ちかけたのに、彼はこちらが赤面するような甘い言葉を口にし、巧緻な技でどこまでも啼き乱れさせてくる。  アンドレアがベッドでこんなにも「アルファらしい」振る舞いをするなんて思いもしなかったから、オメガの体を彼の手で昂らされるたび、こんなはずではなかったのにと、複雑な気持ちになってしまう。  初めて出会った五歳の頃は、いつも忠犬のように優しく傍に寄り添ってくれるアンドレアにひたすら甘えていた。少年時代は気の置けない友達か、あるいは兄弟のように親しく過ごしていた。  だが三年前、クラウスがオメガになったことが確認されると、何か間違いがあっては困るからと、番のいない独身のアルファであるアンドレアは従者を解任になった。  それからは、アンドレアは臣下としての立場をわきまえ、やや距離を取って接してくるようになったのだった。

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