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第1話「恋池団地」

 恋池(こいけ)地区にある集合団地、恋池団地。昭和後期に建てられたこの古い建物は、あちこちから治安の悪い臭いがしている。隣接する公園から聞こえてくる、子どものはしゃぐ声と虫の声は酷く耳障りで、古い冷房設備は、見ているだけで汗をかいてしまいそうだ。  男は一人、荷物を抱えて暗い階段を上がっていた。男の名前は、伏見銀河(ふしみ ぎんが)。派手な名前とは裏腹に、見た目は地味で、あまりぱっとしない男だ。 「……はいはーい」  銀河がインターホンを押しこむと、白いドアの向こう側で、明るい声がした。  銀河は、ドアの前で汗を拭い、荷物を抱えなおした。控えめに言っても地獄のようなこの暑さは、車内と外を行き来すると更に堪える。  目の前のドアが開くと、やや冷えた空気が、銀河の首を撫でた。 「高崎(たかさき)……さんですね」 「ああ、ありがとうございます。暑かったでしょ」  頭のてっぺんが黒くなった金髪を、後ろで雑に束ねた男が、美しい顔でにこりと笑った。睫毛の下で焦茶色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめ、砂糖菓子のように光っていた。白い肌は少し汗ばんでいて、頬や肩が赤く火照っている。 「……サインを」 「はーい」  綺麗な顔の男は、襟元の緩くなったTシャツを着て、色落ちした黒い短パンを履いており、足元は玄関にも関わらず裸足だった。無防備な服の隙間から見える肌は白く、体毛は薄く、まるで、自分とは違う生き物のようだった。 「……ああ。あは……お兄さん、俺の名前が気になるんでしょ」  突然声をかけられて、思わずびくりと身体が跳ねる。特別そこが気になっていたわけではなかったが、きっと、上から下までじろじろと見られていたことが不快だったのだろう。銀河はバツが悪くなり、目線をそろそろとそらした。  美しい男は、その銀河の様子を特に気にかける様子もなく、届けられた荷物の伝票を指差した。 「コイトだよ。コ、イ、ト。かわいいでしょ」 「恋糸(こいと)さん……」  ぽつりと呟くと、恋糸は嬉しそうに笑って、銀河にペンを返してきた。 「そう、高崎恋糸。池団地の糸さん。かわいいっしょ」 「…………そスね……」 「『そスね』って? あは、真面目だね、お兄さん」  恋糸の指先は、ペンを越えて、銀河の手のひらをやや掠め、そして離れた。銀河は、ドキドキと鳴る胸を押さえながら、彼の足下に目を落とす。程よく肉の付いた、真っ白な足を足先から辿り、ハーフパンツの裾からチラチラと見える情事の痕に目を奪われた。 「お兄さん、名前は?」 「え……」 「俺にだけ名前明かさせちゃうのー?」 「いや、その……」  言葉に詰まる銀河を、恋糸は不思議そうに見つめる。銀河は首筋を伝う汗の重みを感じ、自分が今、酷い姿で彼と対峙していることを悟った。  俯き、逃げるように足を引く。目の前の恋糸は、白い手を持ち上げた。 「あはっ。気にしないで。冗談、冗談。ホントに真面目なお兄さんだなー」  その手は恋糸のそばで揺れて、すぐに彼の腰の横に戻った。銀河がほっとしたのも束の間、今度は、その手が、ぬっと銀河の目の前に伸びてきた。 「……どうしたの」  恋糸は、銀河の帽子を軽く持ち上げた。銀河は驚いて、その帽子を上から押さえて大きく後ずさった。  恋糸は、動揺する銀河の腕を優しく掴み、少しだけ引っ張る。銀河は酷く混乱して、強く帽子を押さえたまま、動けずにいた。  銀河の様子を見て、恋糸は不思議そうに銀河の腕から手を離した。しかしその手は、おとなしくその場に留まることなく、銀河の赤く染まった首に伸びてきた。 「首まで真っ赤だね。……お茶でも飲んでく?」 「あっ……」  今まで立ち尽くすばかりだった銀河は、その瞬間、突然、恋糸の手を強い力で振り払った。恋糸が、驚いて銀河を見つめる。銀河は落としかけた帽子を片手で押さえ、バタバタとその場から走り去った。  「ふ、せ、み、くん」 「あっ、えっ……?」 「ふせみくん?」  恋糸は、銀河の胸元を指差して、小さく首を傾げた。銀河は戸惑いから目を瞬かせ、すぐに首を振った。 「い、いえ。伏見です。伏見」 「あはっ。そうかー、フシミくん」 「はい……」  恋糸は受け取った荷物に、慣れた様子でサインをした。 「あ、あの、この前は……すみませんでした。手を……」 「え? ああ! そんなの、気にしないでよ。よく距離近いって言われんだー、俺。むしろごめんね」  恋糸はそう言って、指を揃えた片手を胸の高さまで上げて、軽く頭を下げる。大きめのシャツの隙間から、日に焼けていない白い肌に、今日も、赤い痕がついているのが見えた。 「……伏見くんって良いね、名前。伏見くんって感じ」 「そうですか……?」 「うん。言われない? 伏見って感じですねーって」 「ああ……いや……」 「あはっ。人見知りなの? あんまり駄目なものを避けてると、そのうちもっと駄目になっちゃうよー」  恋糸はけらけらと笑った。しかし、銀河は微笑みもしない。恋糸は、喋りっぱなしな自分の癖を、ほんの少し反省した。  恋糸が扉を閉めようとしたとき、銀河が突然口を開いた。 「あの……ギンガです」 「……ん?」 「銀河といいます、名前……」  銀河は、小さな声でそう言った。 「へえ、銀河くん? それすごい名前だね」 「はい……まあ……」 「あはは、に言われてもってな!」  また、銀河は愛想笑いもしなかった。  何か後ろめたいのか、俯いたまま、少しも顔を上げようとしない彼を、恋糸はからかうように笑った。 「…………んー、銀河くんさー、俺のことエロい目で見てるでしょ」  銀河の手から、機材が滑り落ちる。拾おうと、慌ててしゃがみこんだ銀河を見て、恋糸が笑った。 「あはっ、やっぱり? 分かりやすいなー、きみは」 「いやっ、ちが……」 「んー? あれ、違ってた?」  銀河は首を振りながら、ふらふらと立ち上がる。彼は、早くこの場を去ろうという気持ちでいっぱいになった。しかし、恋糸は容赦なく、銀河の頬に手を伸ばす。 「銀河くんの目って、いつも俺のエロいとこばっかり見てるから、そうだと思ったんだけど」  銀河は後ずさる。恋糸はその真っ赤に染まった首に手を触れ、鎖骨を指でなぞった。 「……ね、イイコトしようよ、俺とさ」 「あ……っ」 「ほら、銀河くん、ね」 「違っ……その……!」  足を滑らせて、銀河はその場に尻もちをつく。そのはずみで、帽子が床にパタンと落ちて、彼の真っ赤な顔が見えた。  その瞬間、恋糸は驚いて目を見開き、そして凍てついたように固まった。その顔が、思っていたより随分幼く見えたからだ。 「き、キレイな人だと思って……」  短く切り揃えられた黒髪の下で、まだ若い目がそろそろと動いた。 「お、俺は……ただ……っ。そんな、俺……その……っ、あなたと、何かする、つもりじゃ……」 「…………あー、はは……」  しばらく固まっていた恋糸は、ようやく半笑いをこぼした。  よく見れば、その身体はまだ薄く、服は妙に余裕がある。声は低いが、確かに、独特な拙さがあった。 「や! ごめんごめん。ごめんなー? 俺ほら、もうてっきりそういう目だって思って。そんな、タコみたいに真っ赤になっちゃって、可哀想に」  べらべらと、口だけが動き続ける。恋糸は銀河の腕を掴み、優しく引っ張った。 「いやいや、俺のせいだってなー。ごめん。いや、ホントにごめん。俺ってほら、君の言うようにキレイだからさ、そーいうこともあるんよ」  恋糸は、焦りから自分が何を言っているのか分からなくなりながらも、なんとか銀河を立たせることに成功した。立ち尽くす銀河を放り出したまま、恋糸は扉を引っ掴み、愛想笑いを浮かべる。 「あはっ。び、びっくりさせたよなー。ごめんな、また荷物届けに来てね……」  恋糸が部屋に引っ込むより先に、またもや銀河がバタバタと走り去って行った。  薄っぺらなカーテンの隙間から、淡く光が射す。それは恋糸の目を焼き、彼は眩しさに寝返りをうった。柔らかな掛け布団は、その赤くなった白い肌を優しく撫でる。煙草の匂いに包まれた薄暗い部屋の中に、インターホンの音が響いた。 「……恋糸、ピンポン鳴ってるよー」 「んー……」  恋糸は、肩を揺すられて不機嫌そうに唸った。  インターホンの音が、また再び部屋に響く。 「こいとー?」  呼びかけられても、恋糸の目はちっとも開く気配がない。それどころか、甘えた様子で擦り寄ってくる恋糸に、男はため息をついた。 「……しっかたねぇなぁ……はいはーい」 「高崎さん、宅配便です」 「はーい、すぐ行きまーす」  男が扉を開くと、そこにいた少年は、やや驚いたような顔をした。 「あ……」 「……『あ』?」 「……ああああ!」  男と少年が顔を見合わせて立ち尽くしていると、部屋の奥で、大声を上げて恋糸が飛び起きた。 「あっ、ちょ、ライラ……どいて……!」  ライラと呼ばれたその男は、恋糸の勢いに押されて玄関の隅に追いやられた。 「ご、ごめんなー、銀河くん。宅配便、宅配便な」 「は、はい。……あの、サインを」 「はいはいはい、サインなー」  恋糸は、自分の胸元に手を置いて初めて、自分が服を着ていないことに気が付いた。渡されたペンを受け取りながら、自分の情けなさにため息をつく。 「……あー、びっくりさせたよな、俺ん家から知らん人出てきたらなー」 「い、いえ……。その、高崎さんが……」 「え?」 「あ、いや……その……高崎さんが飛び出してきたことのほうがびっくりしたっつーか……その……」  銀河は、しどろもどろになりながら、目のやり場を探しているようだった。 「あ、あー! あはっ、そうだよなー、たしかになー……たしかに……」  確かに、荷物を届けに行って半裸の男が飛び出してきたら、そりゃ怖いだろう。その男が、一昨日自分にいやらしい誘いをかけてきたとなれば、尚更だ。  ペンを返すと、銀河は荷物を恋糸に手渡した。その細い指先を見て、恋糸はまた苦笑いを浮かべる。  何故、気が付かなかったのだろう。 「ごめんなー、いっつもびっくりさせて」 「いえ……」 「そうだった、銀河くんにあげようと思ってたお菓子があっちに……あっ、いや、遅くなっちまうな。それはまた今度。ありがとうね」  銀河はぺこっと頭を下げ、歩いてその場を去っていった。  扉を閉めきると、恋糸は大きなため息をついて荷物を床に放り出し、ベッドに飛び込んだ。追いやられていたライラが、恋糸のあとからベッドに座る。 「……恋糸、お前どうしたんだよ」 「あの子いくつに見える」 「あー? ? そんなに若い子なの?」 「脅しちまったんだよ、未成年!」  枕を掴んで暴れだした恋糸を、ライラは奇妙なものを見る目で見つめた。 「どーしよう、だって見えなかったんだ未成年に! 帽子で顔は影になってたし、背も高くて声も大人びてるし、大体宅配のお兄さんなんてほとんど年寄りだろ!」 「いや、割と若いだろ、宅配のあんちゃん」  恋糸はまたふてくされたように枕に突っ伏した。それから、今度は不安そうに小さく縮こまる。ライラは、眉をひそめ、優しい声で尋ねた。 「……脅したって何? なんか怒鳴ったりしたの?」 「いや、その……『俺とイイコトしない?』って……」  ライラは目を瞬かせてぽかんと口を開けていたが、やがて険しい顔になった。 「……バカだねぇ」 「わかってるよ、だから困ってるんだ!」 「いやお前……バカだねぇ……」  恋糸は、枕を抱きかかえたまま、何の反応も返さなくなってしまった。 「なんでそんなことしたんだよ」 「爽やかでウブないい男だと思ったんだよ。俺って好きだろ、そういうの。あと、銀河くんの目がすごいエロくて……」 「それだけ?」 「これは絶対にいける! って思ったんだよ。……押せばいけるって思ったのによー……」  ライラは恋糸の頭を優しく撫でた。 「バカだねぇ……」 「おい、バカバカ言うな」 「バカだからな」  恋糸は強い力でライラを蹴った。 「……そろそろやめろってことじゃない? そういうことはさぁ」 「分かってる、分かってるよ。……でも依存症はそんなすぐ治んねーんだよ! お前もタバコやめてみろ!」 「うるさいな、おちつけよ」  ライラはタバコに火をつけ、恋糸をバカにするように笑った。 「……それであのご機嫌伺いモードだったわけか。びっくりしたわ」 「銀河くんも超ビビってた。ひーてた」 「そらひくだろ」  前髪をぐしゃぐしゃにして、恋糸は頭を抱えた。 「……はー……ホント、可哀想なことしたなー……」  一体、彼がどれほど自分を惨めに思ったことだろう。恋糸はため息をつき、ぎゅっと苦しくなる胸を押さえた。 「ライラ、ちょっと……」 「……セックス? 気分じゃない」  すぱっと断られ、恋糸はライラに飛びつく。 「な、なんでだよ、いーだろ……」 「いや、お前……、ちょっとくらい断てよ」 「なんか怖いんだよ、頼むよ……」  美人に、俯いてしおらしく服を引っ張られては仕方がない。ライラはタバコを消し、恋糸の身体に手を伸ばした。 「……バカだな、お前」  ライラは恋糸の手を握り、ベッドになだれ込んだ。  「昨日、ごめんな」 「え?」  恋糸の声に、銀河はぱっと顔を上げた。荷物を受け取りながら、恋糸はへらっと笑う。 「焦ってたからさ、俺。結構ヘンだったでしょ」 「いっ、いえ……そんな……」  銀河はしどろもどろにそう言って、床に目を落とした。明らかに避けられているのを感じて、恋糸はほんの少しだけ落ち込んだ。 「高崎さん、サインを……」 「あ、ちょっと待って」  銀河の言葉を遮り、恋糸は玄関に置いていたビニール袋を、さっと彼に差し出した。 「あげる。いつものドライバーさんと分けな」 「そ、そんな、貰えねぇス」 「マジ、貰って。無理矢理押し付けられたことにしてさ。俺、もー、申し訳なくて生きてけないから」  銀河の胸に押し付けられた袋は、大きく膨らんでいた。ちらりと中身を見ると、和菓子から期間限定のスナック菓子まで、幅広いお菓子が詰められていた。 「気持ち悪かったら捨てちゃって、ね。ホントごめん」  恋糸はぐいぐいと袋を胸に押し付ける。勢いに負けて、銀河は袋を受け取った。  銀河が袋を受け取ると、恋糸はほっとした表情を浮かべた。口の端に小さく笑みをたたえた顔は、やはり綺麗だった。 「……怖かったでしょ」 「えっ」 「知らない大人が突然変なこと言ってきて、怖かったでしょ」 「あ……えっと……」  銀河は、困惑して固まった。申し訳なさそうな顔でこちらを見つめる恋糸を見て、少しうつむく。 「……びっくり、しました」 「そうだよなー、ごめんね」  銀河はぎゅっと袋を握りしめた。 「あの……俺もすみません……じろじろ、見て……」 「ああ、そんなのいいよ全然!」  恋糸は、ぱっと表情を明るくして、手をぱたぱた振った。 「銀河くんに言ってどーすんだよって話だけどさ、俺、よくエロい目で見られんのよ。……でも、それをさー、うまいこと利用してやろうって心が、もー良くないよなー。も、いい大人がさ……」 「……すみません」 「いやいや、銀河くん悪くないよ」  恋糸は首を振る。 「てか銀河くん、やっぱりエロい目で俺を見てたんだ」  苦笑をこぼすと、銀河はびくっと肩を跳ねさせ、顔を赤くした。 「あはっ、気にしないでよ。高校生なんて何でもエロく見えるもんな」 「あ、いえ……ッ、俺は……」 「伏見ー?」  突然、近くで名前を呼ばれ、銀河はびくっと猫のように飛び跳ねた。声の主は、いつも銀河と共に配達にくるドライバーの男だった。彼は、銀河と恋糸の様子を見て、随分腰を低くして二人の間に割って入った。 「あの、何か問題でもございましたか……?」 「あ、ごめんなさい。お菓子、よかったらって。そしたら困らせちゃって」 「ああ、お菓子ですか……」  男はほっとしたのか、気の抜けた声でそう呟いた。恋糸は、男ににこりと笑いかける。 「お兄さんもご一緒にどうぞ。いつもありがとうございます」 「ああ、どうも、ありがとうございます」  男はテキトウな返事をして、銀河の肩を叩いた。 「伏見行くぞ」 「あっ、さーせん、サインがまだ……」 「……じゃあ、先戻って次の場所確認してるから」 「は、はい。すみません」  銀河は慌てて恋糸にペンを渡す。恋糸はさっとサインをして、ペンと紙を銀河に返した。 「銀河くんさ、今度お詫びにどこか連れて行ってあげようか」 「え……?」 「ん? お詫び、お詫び。肉とか好き?」 「す、好きですけど……」  銀河が答えると、恋糸はぱっと笑顔になった。 「じゃ、高い店頼んでおくよ。次いつ休み?」 「え? え、えっと、明日とか」 「じゃ、明日のお昼」 「……あ、あの、こういうの……」 「あ、もしかしてあんま良くない?」  銀河は頷くでも首を振るでもなく、曖昧に頭を動かした。 「お家の人にきいてあげようか」 「いや……、家の人とかは、別に大丈夫ス……」 「そう?」  恋糸は首を傾げる。それから、最も有り得る可能性を思いついて飛び上がった。 「…………あっ! もしかして俺と飯に行きたくない? ごめん、それは気付かなかった。お金がいい?」 「え、違……そうじゃなくて……」  銀河は口をつぐむ。しかし、ずっと黙っているわけにはいかず、小さな声で喋りだした。 「い、行きます。明日……。……どこに行けばいいですか?」 「んー、じゃ、恋池駅に」  銀河は頷き、分かりましたとだけ呟いて、走り去った。

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