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最終話「はじまり」
「はー。珍しいな、高崎 恋糸 がタバコ」
「……放っといてくれ」
恋糸は、ベランダの柵に寄りかかったまま、空を見上げた。シャツを一枚着ただけのライラが、一本貰おうかと恋糸の後ろから顔を覗かせる。
「……は? ちょっと待て、お前それいつのタバコだよ、きったねぇな。吸えんの? 賞味期限とかないわけ?」
「放っとけって」
恋糸は、まずい煙を吐き出した。正直、吸えたものではないが、今は何としても自分を罰したかった。
「……で、どうしたんだよ。銀河 くんか?」
ライラはベランダの柵に腕を置いて、首を傾げた。恋糸は何も言わずに俯いて、煙草を口から離した。
「……銀河って、綺麗なやつだよな」
「キレイ?」
「俺とちょっと分かり合えないってだけで泣くんだ。綺麗だろ」
恋糸は笑う。煙草の先から灰がポロポロと落ちた。
「俺が、何度銀河を抱く夢を見たかも知らないで」
ライラが、目を見開き、それから顔をそらした。恋糸は再び煙草に口をつける。
「……悪いことしたなー」
自分を過信していた。こんな、どうしようもないような男でも、いつか、どうにか良い大人になれると思っていた。自分の皮を剥いで出てくるものが、どれほど汚いものか、知っていて。
「……引っ越すか、遠くに」
恋糸はぽつりと呟いた。ライラが、驚いて恋糸の顔を凝視した。恋糸の顔は至って真剣で、ライラは慌てて言った。
「じゃあ、お前……銀河くんどうなるんだよ」
「……どうとでもなるって」
実際、どうとでもなるだろう。まだ若い、青年とも言い難いような年の子どもだ。半年も共に過ごしていないような男がただ一人いなくなったところで、彼の中の何が崩れようか。
「せっかく、アルバム新しいの買ったのになー……」
恋糸は小さく笑った。笑っていないと、泣きだしてしまいそうだった。
インターホンが鳴った。恋糸は、ゆらりと顔を上げる。裸足のまま、玄関まで歩いていき、覗き穴から外を見た。
短い黒髪の、線の細い少年。彼は心配そうに恋糸の部屋の前で俯いていた。
「……恋糸さん、遊びに来ました」
彼は、そう呟く。ドアを越えてすぐそこまでしか聞こえないような、小さな声で。
このままぼうっとしていれば、いつものように、銀河は仕方なくここを去るだろう。恋糸は、玄関にしゃがみこんだ。
しばらくして、やはり足音が聞こえた。それは徐々に遠のき、階段に差し掛かる。
恋糸は、唇を噛み締め、ドアノブに手をかけた。
「……帰るのか、銀河」
「恋糸さん……!」
銀河が、嬉しそうに引き返してきた。
「良かったス、会えて……。ずっと、家にいなかったスよね」
「ああ。悪かったな、銀河」
玄関を開くと、銀河はほっとしたように笑った。本当は恋糸が家にいたことくらい、彼にも分かっているはずだが、彼はそれをあえて言わなかった。
「上がっていくか?」
「もちろんス」
銀河はそう言った。恋糸は、銀河を馬鹿だとまで思った。本当に、彼は子どもだ。子どもなのだ。
そして、自分は、悪い大人でしかない。
「……銀河、じゃあ……アルバム作ってくれ」
「言われなくてもやるスよ」
銀河は首を傾げる。恋糸はくつくつ笑いながら、銀河を家に招き入れた。
「……なんか、散らかってるスね」
「そうか? いつもこんなもんだろ」
「いつもよりきたねス」
銀河はそう言いながら、いつも座っている場所に座った。アルバムを開いた銀河は、先日の旅館の写真を、引き出しの中から引っ張りだした。
「……あれ、恋糸さん、タバコ吸うんスか」
ふと、机の上の灰皿を見て、銀河が言った。
「吸うよ。まあ、ホントたまにな」
「おいしいスか?」
「いや、俺はちっとも。高いしな」
銀河が、また怪訝な顔をした。おそらく、じゃあなんで吸ってるんだとでも思っているのだろう。
「……あ、銀河は駄目だぞ。こんなの、馬鹿んなるだけだからな」
「俺、タバコ嫌いだから吸わねス」
「あは。そうだな、俺も嫌いだ」
恋糸は笑った。
「……なあ、銀河」
銀河が顔を上げる。恋糸は、銀河の手首を掴み、床に彼の身体を押し倒した。
「なんで来た」
銀河の表情は、床に転がされ、身体の自由を奪われて尚、いつも通りだった。
「……来たら駄目でしたか」
「お前、俺に犯されててもおかしくなかったんだぞ」
「恋糸さんが、何回も謝ってくれたから、もう許したス」
「……そういう問題じゃねーのは分かんだろ」
一瞬くらい、驚いたりしないものか。それとも、そういう覚悟の下で、ここへ来ているとでも言うつもりか。
恋糸は、一人立ち上がった。棚の中から、まだ袋を被ったままのアルバムを取り出し、机の上に放る。起き上がった銀河が、眉をひそめて恋糸を見上げた。
「やるよ、銀河」
「……まだ、こっち終わってねぇスよ」
「いいんだ、やるよ」
恋糸はそう言い、床に座った。
「……明後日、引っ越すことになったんだ。だから、もうそれはお前にやる」
銀河が、目を見開き、固まった。
「悪いな。遠くで仕事ができたんだ」
「……だから引っ越すんスか」
このとき、恋糸は、銀河の表情が、初めて読めなかった。彼は固まったまま、恋糸のことをまっすぐ見ていた。
「…………俺のこと、置いていくんスか」
銀河は、ゆっくりと目を瞬かせた。瞳の縁が歪んで、雫が跳ねる。
「置いていってもいス……。けど、ちゃんと……迎えに来てくれるんスよね」
銀河の頬を、星が流れて消えていく。綺麗だと思った。可哀想だとも思った。そうさせているのは自分なのだと、胸が痛んだ。
「……恋糸さん……」
銀河は、服の袖で目を擦りながら、言った。
「恋糸さんにとって、俺って何ですか…………」
恋糸は、しばらく考える。
「何」と来たか。逆に、何だったら、彼の涙を止められただろう。どれを取ったって、どうしたって、もう、その涙が止まることはないだろう。
「……かわいい銀河だよ」
恋糸はそう言い、微笑みをこぼした。
「おいで」
恋糸は銀河を手招いた。銀河が恋糸のそばに駆け寄ると、恋糸は突然銀河の腕を掴み、その身体を抱き寄せた。
回した手のひらで、その指先で、痛いほど銀河を抱き締める。
「おいで、銀河……俺のとこに……」
息が詰まるほどの力に、銀河は身動きが取れなくなった。恋糸の手のひらはうなじを滑り、強い力で頭を撫でる。
「早くおいで……」
銀河は恋糸の肩に頭を埋め、息を深く吸い込んだ。煙草の匂いが肺を満たし、恋糸の匂いが鼻を抜けた。
恋糸は、友人の車に荷物を積み込んでいた。大きな家具などはすべて処分して、とりあえず、必要なものだけを車に詰める。
「……これで全部?」
「あー、あと中にある炊飯器取って来て」
「お前使わないだろ……」
友人は、面倒くさそうにため息をついて、部屋に戻っていく。可哀想に。あとで少しサービスでもしてやれば機嫌くらいは良くなるだろうか。と、そんなことを考えながら、恋糸は車のドアを開けた。
「恋糸さん」
「は……、銀河……!?」
恋糸は振り返る。そこには、銀河がぽつんと立っていた。ぽつんと形容するには大きすぎる図体だったが、彼の悲しそうな顔が、彼のことをそう見せていた。
「誰?」
「……い、いや……友だち?」
「あ、そう」
友人は、車に炊飯器をのせる。恋糸は車から離れ、銀河のそばに寄ってきた。
「今日仕事だろ、何しに来たんだ」
「どうせ恋糸さんは、正しい日付なんか教えてくれないと思ってたス。『明後日』って言ってたのに」
銀河は眉をひそめ、腰に手を当てた。
「嘘はよくねス」
「うるせーな……嘘も方便って知らねぇのか」
「知らねス」
「知っとけ。良いことのためなら、嘘も必要ってことだよ」
「良いことって何スか」
恋糸は、一瞬たじろぐ。
「……うる、せーな……」
恋糸は目を逸らした。今すぐにでも逃げ出したかった。もう、何も、晒したくなかった。
暗い顔で突っ立ったままの恋糸を見て、銀河は恋糸の手を取った。
「心をあげます」
銀河は、その手を自分の胸に押し当て、まっすぐ恋糸を見上げた。
「……俺は、身体はあげられねけど……心をあげます」
風が、銀河の髪を掻き混ぜ、涙を吹き飛ばす。けれども銀河の瞳は、まっすぐに、ただまっすぐに恋糸だけを見つめている。
「それでいスか」
「『いスか』じゃねーよ……」
恋糸は銀河の身体を抱き寄せる。銀河の肩に顔を埋め、棘を吐くように言葉を出した。
「……俺が欲しいもんが分かるだろ……。これが俺だ。俺なんだ……」
「……恋糸さんは、ずっと恋糸さんですよ」
銀河は、優しい声でそう言って、恋糸の頭を撫でた。
「ねえ、恋糸さん」
銀河は手を止め、静かに言う。
「俺、高校に行くことになったス」
「は?」
「別の親戚の家に行って、そこで高校に通わしてもらうス」
恋糸が顔を上げると、銀河は少し笑った。
「……だから、俺……俺も、この町からいなくなります」
恋糸は目を見開き、突然銀河の肩を掴んだ。
「…………い、いいのか、銀河。変わるの……嫌じゃ……ないのか」
「いス」
銀河は、にこりと笑った。
「どうせきっとまた、上手くいかねスから」
そんな、と恋糸は呟く。銀河は、小さく首を振った。
「……けど、良んス。俺、やりたいことができたんで」
「やりたいこと……」
恋糸は、ようやくいつもの調子を取り戻し、彼の肩から手を離した。少し得意げにも見える、いつもの笑顔を浮かべる。
「……何がしたいんだ? 教えてくれよ」
「嫌ス」
「なんだよ、教えてくれてもいいだろ」
「教えたら、恋糸さんと二度と会えねぇ気がするんです」
銀河の言葉に、恋糸は、ただ、そうかとだけ呟いた。
「おい、全部のせたぞ」
「ああ! ありがとなー」
恋糸は、銀河を振り返る。
これから先、この真っ黒な瞳を、忘れることはないだろう。笑った顔が思い出せなくなっても、髪の毛の柔らかさを忘れても、きっと、その瞳を覚えているだろう。
「じゃあな、銀河。楽しかったよ」
恋糸は助手席に乗り込みながらそう言った。
「恋糸さんっ」
銀河の声に、恋糸はドアを閉める手を止めた。
「……大好きです」
「知ってるよ」
恋糸は笑った。馬鹿な子だ、本当に。
「……写真、ずっと撮るスよね」
銀河は尋ねる。恋糸は、ただ曖昧に微笑み、車に乗り込んだ。
「カメラさえあれば、写真家は死なねぇんスもんね……!?」
――そのとき、自分が一体なんと答えたか、もう、すっかり忘れてしまった。覚えているのはその時の銀河の顔くらいで、あとはもう、何も覚えちゃいない。
「はじめまして。今回の写真展、担当の伏見です」
男は、にこりと人好きする笑みを浮かべ、人懐っこそうに目を細める。堅い容姿とは異なり、その口調は軽やかだ。
「幼少期から憧れていた高崎恋糸の写真展を、ぜひともうちで作らせてください」
誠実そうなスーツに、知的な眼鏡。賢そうで、愛想もなさそうなその姿が、ハッタリだと知っている。
恋糸は、苦笑を溢して、頬杖をついた。
「……幼少期は言い過ぎだろ」
「そうでもねスよ。だって、“子ども”なんでしょ?」
恋糸はくすくす笑ってから、銀河の頭をなでた。もう柔らかくない髪の毛が、手のひらを押し返す。
「……でかくなったなー、銀河」
頭を撫でられた銀河は、少し恥ずかしそうに笑った。
「そうだな、まずは、オトナになった祝いに酒でも飲むか?」
「いスよ。この写真展をうちで作らせてくれるなら、いくらでも飲むス」
銀河はにやりと笑い、その挑発的な瞳を恋糸に向けた。恋糸は眉をひそめ、それからくつくつと笑い出す。
「……あー、俺のかわいい銀河が大人んなっちまった」
「あは。恋糸さん、変わんねスね」
やはり少し大人になったなと、恋糸は一人思った。昔は、こんな笑い方はしなかったのに。
「なんだ? お前、このために、わざわざこんな仕事に就いたのか?」
「恋糸さんと、仕事してみたかったス」
「……馬鹿だな。俺がまだカメラやってるとは限らなかっただろ」
「まあ、実はどっちでもよかったス。俺、写真好きだし」
恋糸はむっと顔をしかめる。すると、銀河が嬉しそうにくすくす笑った。
「けど、恋糸さんが、『俺が銀河を覚えてる限りカメラはやる』って言ってたから、まあ会えると思ってたスよ」
「知らねぇな」
「俺は覚えてるス」
「お前やっぱ記憶力良いよな」
「最近、それでよく褒められるス」
銀河は得意げに笑った。
やはり、大人になった。子どもだった銀河との、あのたった数ヶ月を、恋糸は懐かしく思った。
「そうだ、アルバム返します」
「アルバム?」
銀河は頷き、鞄からアルバムを取り出すと、机の上に置いた。
それは、流石の恋糸にも見覚えがあった。
「……俺が最後にあげたやつじゃん。……うわ、埋めてやがる。わざわざ俺の売ってる写真買って埋めたのか?」
「返すから、また買ってください」
文句を言おうと口を開きかけた恋糸の手を取り、銀河はまっすぐに恋糸を見つめた。
その目を覚えている。それは、かつて、どうしても欲しいと願ったものだった。そして、今も変わりなく、恋糸を本能から突き動かす。
「一緒に作ろス、恋糸さん」
優しく手を握り返すと、銀河が嬉しそうに笑った。
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