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第12話「失態」

 「うわーっ! 凄いですねここ!」 「いい部屋でしょう」 「すげーっ! な、銀河(ぎんが)。こんな素敵な部屋見たことないなっ」  恋糸(こいと)は大袈裟なほどに抑揚のついた声でそう言って、部屋に上がった。銀河は、恋糸のあとをこそこそとついていく。 「あら、アシスタントの方ですか?」 「えっ……。あ、俺は……あの…………」  旅館の人間に声をかけられ、銀河は飛び跳ねた。何と答えれば正解か分からず、対応に困っていると、それに気づいた恋糸が、慌てて戻ってきた。 「あっ、弟です。ちょっと人見知りで」  恋糸はそう言って銀河をそばに引き寄せると、まるで小さな子どもにするかのように頭を撫でた。 「こんな綺麗な部屋見られて、嬉しそうだなー、銀河。良かったなぁ」 「……いたい……」 「ああ、弟さんでしたか」 「はい。少し手伝いをしてもらいに連れてきたんです」  恋糸はにこりと笑った。当然、二人の顔はまったく似ていないので、旅館の従業員は若干ぎこちなく笑った。 「おいくつなんですか」 「じ、十六歳です」 「ああ、高校生ですか。勉強はどうですか?」 「えっと…………」  銀河は目を左右にウロウロさせ、黙り込んだ。恋糸は銀河の横でくすっと笑うと、彼の肩に手を置いた。 「あはは、銀河は勉強好きじゃないもんなー」 「あら、そうなの」  女性は、口元に手を当てて優しく微笑んだ。銀河は心底ほっとした。恋糸は、やはり会話が上手い。自分が黙り込んでしまっても、それまでまるっと含めて楽しい会話に変えてしまう。銀河は、彼の話術を、まるで魔法のように感じていた。  恋糸はしばらく写真を撮り、その後パソコンで作業を始めた。真剣な表情で画面を見つめる恋糸を、銀河は部屋の隅から眺めていた。パソコンとカメラを行き来する彼の目は、ずいぶん楽しそうだ。  一時間ほど経ち、恋糸が片付けを始めた頃、突然、部屋の扉が開いた。 「……どうかな、高崎くん」  入ってきたのは、受付付近で恋糸と会話をしていた、偉そうな男だった。銀河はびっくりして縮こまる。 「ああっ、ちょうど良いタイミングでしたよ」  恋糸は立ち上がり、パソコンの前から退いた。自信有りげな表情に、銀河は画面を覗こうと少し首を伸ばす。 「いかがでしょう」  恋糸が手を向けると、男はパソコンの前に座った。それから、画面を見て驚いた顔をする。 「これ……本当に君が撮ったのかい?」 「素敵なお部屋でしたから、ほとんど撮ったままでお出ししました」  恋糸は微笑む。男は、大口を開けて笑った。 「いいねっ! 素晴らしいよ!」 「そうでしょう!」  恋糸はぱっと満面の笑みを浮かべる。それから、あっ、と呟いて、白い指で口を押さえた。 「あは、すみません、支配人さん。嬉しくてつい……。ありがとうごさいます」  恋糸は男の隣に座り込む。偉そうな男は、どうやらこの旅館の支配人だったようだ。 「素敵なお部屋ですから、こうやって、写真で魅力を引き出せて嬉しいです」  恋糸はにこっと笑った。  これを、愛想と言うのだろう。銀河は、彼を見てそう思った。  「……嫌なことするんだな」  自動販売機から自室までの帰り道、恋糸は突然、後ろから声をかけられた。恋糸は、振り返らずにひらひら手を振った。 「何のことか分からないなー、橋川(はしかわ)」  (よう)は、恋糸の肩を掴み、無理矢理自分の方を向かせた。彼は顔をぐっと歪め、悔しそうだった。 「あの人たちは、金を払ってまで雇った俺の写真のほうが酷いと気付いて怒ってたよ」 「あは、そんなはずない。それは、お前に愛想がないからだ」  恋糸の言葉をきいて、洋の瞳には明らかな怒りが映った。恋糸はそれを飄々と受け流すと、彼をまっすぐ見た。 「……お前の写真のほうが、客は増えるよ」 「は?」 「俺はそういうの得意じゃねぇ。繕ったりしないから」  恋糸は淡々と言った。洋の手を振り払い、ぱたぱたと肩を払う。洋の顔が、更に険しくなった。 「……馬鹿にしてるのか?」 「愛嬌のある写真撮るくせに、そういう性格だからがっかりされんだよ、お前」  橋川洋の写真は、大味だ。ぱっと目に入る情報が鮮やかで、情報量の多い場所では目を引きやすい。その、分かりやすく媚びを売ったような写真を、実は、恋糸はかなり評価していた。 「性格悪いのはなおらねぇだろうが」 「なおせなんて言ってねぇだろ。性格悪いとも言ってねぇし。俺は他人の性格の面倒まで見れねーよ」  恋糸はため息をつく。めんどくさくて、もう一刻も早く帰りたかったが、心配そうな銀河の顔が頭を離れなかった。  一つ息を吐き、目を閉じる。それから、ゆっくりと彼に向かい合った。 「……俺はお前嫌いだけど、お前みたいな奴を好きな奴だっている。事実、お前はずっと同じ会社で働いてんだろ」  恋糸は静かに言った。 「俺のことばっか見んのはやめろ。きめぇんだよ」  恋糸は、さっさと身体の向きを変え、歩き去った。彼が自分に文句を言ってこないのを確認してから、恋糸は角を曲がる。  橋川洋は、天才ではないが真面目だ。恋糸にとっては羨ましいほど、写真の難しさを楽しんでいる。  恋糸は、宿泊部屋の前で、小さく息を吐いた。何だか、ひとつ、肩の荷が下りたような感じだった。 「ただいま」 「おかえりなさい」  扉を開けると、すぐに銀河の声が返ってきた。 「支配人サン、何だったスか」 「夜一緒に食べようよって言われちまってさ。断るのもなんかちょっと気が引けて」 「いスよ。俺、静かしてるんで」 「ごめんな、銀河」  銀河は、特に何も言わなかったが、その背中は少し残念そうに見えた。 「銀河、何してるんだ?」 「アルバムに貼るやつ選んでるス」 「あ、こら。勝手にカメラを見るな」  恋糸は慌てて銀河からカメラを取り上げた。焦っているのは、たまに、銀河のことを許可なく撮影しているためである。 「アルバム持ってきてないんだろ。帰ってから決めたらいいのに」 「これが俺の唯一の楽しみなんスよ。取り上げようなんて酷いス」 「そうかよ。どれにするんだ? 教えてくれよ」  恋糸は、銀河の横に座ってカメラを見せた。銀河は楽しそうに一枚一枚を指差し、選んだ理由を説明してくれた。 「旅のこと思い出せるように、この順番にするス」 「……へえ、良いな。銀河はセンスが良い」 「写真が良んスよ」 「うん。お前が選ぶのは特に良い」  銀河は、キラキラした目で嬉しそうに笑った。 「けど、一枚……人の写真がほしいです」 「あー、人撮ってないもんな、今日」 「……まあ、ないもんは仕方ねス」 「あ。じゃあ、銀河の写真撮ってやろうか」 「えっ」  銀河が、目を見開いて固まった。恋糸がカメラを持ち上げると、銀河は慌てて首を振った。 「嫌ス」 「あは、撮らせろよー。せっかくだろー」 「嫌ス」  恋糸は銀河の腕を引っ張り、無理矢理立ち上がらせる。銀河は眉をひそめ、口を真一文字に結んだ。 「いいからそこ座ってみな。芥川龍之介みたいにかっこよく撮ってやるから」 「芥川龍之介別にかっこよくねス。嫌ス」 「失礼なやつだなー。この面食いめー」  恋糸は銀河の頭を撫で回し、それからまた綺麗に整えた。恋糸は銀河を椅子の前まで連れてくると、すぐに彼に向けてカメラを構えた。 「ほら、銀河」 「……信用するスよ」 「もちろん。ほら、座れって」  銀河は、渋々椅子に座った。 「……よしよし。もう少し深く座って。……そうそう。あの柱見てろよー」  おとなしく、銀河は言われた通りポーズを取る。カメラ越しの銀河は、少し大人びて見えた。 「……ほら見ろ、かっこいいだろ」  恋糸が写真を見せると、銀河は驚いた顔をした。思った反応とは違い、恋糸は首を傾げる。彼は画面を凝視したまま、黙り込んでしまった。 「……どした、銀河。気に入らないか?」 「いや……」  銀河はぽつりと呟く。 「父さんに似てる……気がするス」 「……父さん?」 「いや、俺……もうそんな覚えてねスけど……、そんな気がするス」  恋糸は、再びその写真を見た。確かに、その横顔は、彼とよく似ていた。 「あはっ。そりゃ似るだろ、親子なんだから」 「……そうスか」 「そうよー。ちなみに俺は母さん似」  恋糸はそう言って、自分の顔を指さした。しかし、銀河はカメラから目を離さない。恋糸のことも無視して、ただカメラに目を奪われていた銀河の口が、ほんの少し持ち上がった。  恋糸はため息をつき、机に肘をついた。 「……嬉しそうだな」 「はい。……母さんと父さん、好きだから」 「……きっと、お前の母さんと父さんもお前が好きだよ」  恋糸がそう言うと、銀河はまた、嬉しそうに笑った。  美しい大広間。居合わせた団体客の笑い声が、畳をドカドカ揺らしている。銀河の隣では、恋糸が支配人や数名の従業員と談笑していた。支配人たちはもう既に随分酒を飲んでおり、顔を真っ赤にして上機嫌そうだった。  もう食事をある程度終えてしまった銀河は、手持ち無沙汰になり、なんとなく、飲みたくもないオレンジジュースに手を伸ばした。 「あれ? 橋川くん?」  ふと、支配人が声を上げた。見ると、銀河の向かい側で、洋が机に顔を突っ伏していた。 「潰れちゃった?」 「ああ……そうみたいですね。コイツ、酒強くないですから」  恋糸はそう言って苦笑をこぼした。隣で、銀河が眉をひそめて呆れた顔をしていた。 「俺たちに合わせて飲んでくれてたのかぁ」  支配人はそう言いながら酒をあおった。恋糸は、洋の肩を揺さぶったが、彼は少しも反応を返さない。恋糸は眉をひそめ、肩を強い力で掴んだ。 「コイツ……」 「じゃあ、高崎くんも一杯どう?」 「ああ、いや、俺……酒はちょっと……。弟の面倒見てやる奴がいなくなるんで」 「大丈夫だよ! なあ、銀河くん」 「え、あ……はいス」  突然話しかけられて、驚いた銀河は反射的に頷いた。恋糸が、苦笑をこぼす。 「いや、でも、ホントに……。俺、酒癖が悪い方なんです」 「酒癖なら俺達のほうが負けてないよ、なあ!?」  支配人はそう言って恋糸の肩を叩く。苦笑を浮かべていると、銀河が耳元で囁いた。 「……いスよ、俺に遠慮しなくて」 「そうは言うけどな、銀河……」 「だって、これも恋糸さんのお仕事だから……。俺は邪魔しねス」  銀河はそう言い、また隅っこで小さくなった。暇そうで、可哀想だ。本当なら、二人で静かに楽しく夕飯を食べていたはずだったのだから、そう見えるのも仕方ない。 「ほら、もうついじゃったから! これだけ! ね!」 「……ありがとうございます」  恋糸は、仕方なくグラスを受け取った。心の中にある僅かな不安を、抑え込む。きっと、大丈夫だ。  ぐっとグラスを傾ける。歓声が上がったのを聞きながら、恋糸は目を瞑る。  不安だった。この先何をしても、自分をまっすぐ見てくれる人はいないのだと、正しく評価してくれる人はいないのだと思っていた。  ずっと、不安でいっぱいだった。世界に一人取り残されたようで、常に疎外感を感じていた。他人と繋がる方法が、思いつかなかった。変わっていく世界の波に押され、圧迫感を感じながら、立ち上がることができずにいた。  カメラを辞めると、一日が突然暇になった。時計が止まっているように感じて、何もできないでいる自分を意味もなく焦らせた。  性行為をするのは、暇をつぶすのに丁度良かった。金のかからない、丁度良い娯楽だった。確か、何度も人を傷付けた。それでも、性行為をやめられずにいた。漠然とした不安から抜け出す方法が、分からなくなっていた。 「大丈夫かい、高崎くん」 「あは……大丈夫ですよ……」  恋糸はそう言ったが、それが自分の発言だと分かるまでかなりの時間がかかった。多分自分の部屋であろう場所に入ると、そこには銀河がいた。掛け布団をぐちゃぐちゃにして、寒そうに眠っている。 「……ぎんが……」  そんなときに現れた銀河は、あまりにも純粋で、綺麗で、恋糸にとって魅力的だった。自分を正しく、まっすぐに見るその正直な瞳が、どうしても欲しいと思った。 「……銀河……」  すやすやと眠っているこの少年は、きっと俺のことを好きだ。可哀想に、この子は、こんな男を好きになってしまった。どうしようもない、何も出来やしない、こんな男を。  恋糸は、銀河の頭に手を伸ばした。 「こいとさん……?」  頭を撫でると、彼はうっすら目を開けた。キラキラの瞳が、恋糸を見上げ、無防備に細められる。  ああ、これは、俺のものにはなり得ないのか。こんなにも欲しいと思っているのに。こんなにも、近くにあるのに。こんなにも欲しいのに。 「わ、恋糸さん……?」  銀河の肌は柔らかく、首筋から石鹸の香りがした。皮膚の下のあたたかさが手に伝わる。はだけた浴衣の隙間から、銀河の匂いがした。 「…………恋糸、さん……?」  可哀想に、どれほど怖いだろう。恋糸は思わず笑っていた。  この子は、これから俺と、この不安を分け合ってくれる。そのはずだ。だって、この子は俺を好きなのだから。  ずっと、これを望んでいた。慰めてほしい。この子に、優しく、ずっと深くで……。 「恋糸さん……!」  泣いているような銀河の声に、恋糸ははっとした。その次の瞬間、猛烈な吐き気に襲われて、恋糸は立ち上がった。  トイレに駆け込むと、胃の中のものが一気にこみ上げた。恋糸はむせ返りながら嘔吐して、肩で息をした。 「は……っ、は…………」 「こ、恋糸さん……? 大丈夫スか」  恋糸はトイレのレバーに手をかけて、引っ張ろうとした。しかし、酒か焦りか、指が震えてうまくいかない。もたもたしていると、銀河の手が恋糸の手を上から包み、レバーを下げた。 「大丈夫スか」 「……ごめん、みず……水とってきて、銀河……」 「水」  銀河はせかせか歩いていった。恋糸はトイレットペーパーを引きちぎると、自分の口元に当てた。吐瀉物の臭いが、喉や鼻にくっついていて気持ちが悪い。頭がくらくらして、胃がひっくり返りそうだった。 「水あったス」 「ごめん、銀河……」  恋糸は水を受け取った。手を伸ばしてきた銀河の浴衣は、前が大きく開き、帯周りは不自然に歪んでいた。 「……ごめん……」  銀河の乱れた容姿が、恋糸の胸を突き刺す。喉の奥がきゅっと痛み、視界が眩んだ。 「ごめんなさい…………」  銀河が、瞬きを繰り返し、恋糸のそばにしゃがんだ。恋糸の背に手を当てて、彼は心配そうに膝を抱える。 「……なんで、こうも俺は情けねーんだろう……」  自分の声が、歪み、震えているのは分かっていた。けれども、もう、そんなことはどうでも良かった。自分の不甲斐なさを、誰かに咎めてほしい気分だった。今の自分を見て、銀河がいっそ幻滅すればいいと思った。 「俺だって、銀河のそばにいれると思ったのに……」  恋糸は、トイレの壁にもたれかかった。目から涙が溢れて、どうしても止まらなかった。 「……ここに、いたかったのに…………」  目を閉じる。膝を抱えて、閉じこもる。  はじめから手を出してはいけないものだったのだ。どれだけ取り繕おうとも、結局は、こうして醜く剥がれてしまうのだから。

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