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前編
甲田さんはまだ帰っていなかった。どこか寄り道でもしているのだろう。アパートの下にあるガレージに車はない。
階段を上がって鍵を開ける。部屋は真っ暗だった。早く帰ってくればいいのに、と思いながらご飯の支度をする。
肉そぼろ、きんぴら、ポテトサラダ。甲田さんが事前に作ってくれていたおかずを温めていると、玄関が開く音がした。
「ただいま」
おかえり、と俺は出迎える。
「もしかしてもう食べてた?」
「今温めたところです。一緒に食べましょ」
先に着替えさせてくれ、と甲田さんは自分の部屋に引っ込んだ。その間に俺は二人分の白飯をよそう。
「俺そんなに食えないよ」
部屋着に着替えた甲田さんが茶碗を指差す。
「おれとしてはこれぐらい食べてほしいですけどね」
「俺もう三十六だよ?頼むからもうちょっと減らしてくれ」
おれは白飯を少しだけ炊飯器に戻した。
「てかお前よく食うね」
「まだ十八歳なので」
むかつくなぁ、と甲田さんはダイニングチェアに座った。いただきますと手を合わせてからきんぴらを口に運ぶ。
「あ、そうだ。あとで家賃渡しますね」
「別に急がなくていいぞ」
「でも忘れちゃいそうだから」
甲田さんに拾われてから半年経っていた。最初は家賃もおんぶにだっこだったが、徐々に払えるようになってきている。
「もう折半でもいいですよ。バイトも安定して入れるようになったし」
「いいよ。その分貯金しとけ」
「じゃあ代わりになにかお礼がしたいです」
ずっと考えていたことだった。このままでは世話になりっぱなしで申し訳ない。
「なんでもいいですよ。甲田さんがしてほしいことなら」
「そう言われるとなぁ……」
甲田さんは腕を組んで唸っていたが、突然悪戯っぽい表情でこちらを見た。
「じゃあ体で返してくれるか?」
「いいですよ。それでお礼になるなら」
「馬鹿、冗談だよ」
額を指で弾かれる。地味に痛い。
「いいか?俺は別に見返りを求めてるわけじゃないんだ。お礼なんてしなくていい」
甲田さんの言葉に嘘はない。だけど人の気持ちは変わるものだ。この人と一緒にいるためにはどうしたらいいだろう。
おれは自分の部屋のベッドで考えていた。甲田さんはいい人だ。その優しさにつけこめばいい。
よし、とおれはベッドから立ち上がると、甲田さんの部屋に向かった。
「甲田さん、起きてますか?」
「んー」
気の抜けた返事を聞いて、そっとおれは中に入る。甲田さんはベッドに寝そべっていた。
「どうした、珍しいな」
「考えたんですけど、添い寝っていうのはどうですか?」
「は?」
甲田さんの戸惑った表情を無視して、おれはベッドにもぐり込んだ。
「いやいやどういうことだよ」
「その、こうすれば癒されるかなって」
「何言ってんだ?」
とにかくお礼です、とおれは甲田さんに抱きつく。ベッドの中から見上げると、相手は目をそらした。
「迷惑ですか?」
「……いや、迷惑じゃない」
よかった、とおれは息をつく。甲田さんの体は温かかった。
「お前ずっとこうしてるつもりなの?」
「駄目?」
「駄目っていうかさ……」
寝れねえ、と甲田さんは呟いた。
「読み聞かせでもしましょうか?」
「何言ってんだ馬鹿」
どうしよう、添い寝に癒しの効果はないのだろうか。
「……お前誰にでもこんなことすんのか?」
「甲田さんにしかしません」
あっそ、と甲田さんは俺の頭に顎をのせた。
「あー、駄目だいい匂いする」
「……そんなこと初めて言われました」
「香水とかつけてねえよな?」
「ええ」
もう駄目になりそう、と甲田さんはおれの頭に顔を埋めた。左手でうなじをなぞられる。ぞわりと背筋が震えた。
「甲田さん」と呼びかけると目が合った。引き寄せられるようにして俺は唇を寄せる。その柔らかさに何度もキスをすると、甲田さんは顔をそむけた。
「……駄目だ」
「おれがしたいんだからいいじゃないですか」
よくないだろ、と甲田さんは起き上がった。
「義務感でこんなことしちゃ駄目だ」
「義務感って?」
「世話になってるからしなきゃいけないって思ってるだろ」
「思ってません」
「いや思ってる」
だから駄目だ、と甲田さんは部屋を出ていこうとした。
「どこ行くんですか」
「リビングで寝る」
「待って、置いていかないでください」
甲田さんに向かって手を伸ばし、必死に服の裾をつかむ。
「甲田さん、おれのこと嫌になった?もう捨てる?お願い、なんでもするから嫌わないで……」
甲田さんは驚いたようにおれの頭を撫でた。
「嫌わないよ。なんでそんなこと言うんだ」
だって、とおれはしゃくりあげる。落ち着かせるように甲田さんはおれを抱きしめた。
「お前を置いてなんかいかないから。頼むから泣き止んでくれ」
「……本当?」
「当たり前だろ。ほら、顔拭いて」
服の袖でごしごしと拭われる。
「……俺、不安なんだ。何の役にも立ってないし、いるだけで迷惑なんじゃないかって」
「そんなわけないだろう。第一、迷惑だったらお前を住まわせたりしない。……あのな、智嗣」
甲田さんはおれを真っ直ぐに見た。
「俺は今の生活が楽しいんだ。お前もそうだろ?」
「……うん」
「だったらそれでいいじゃないか」
もう寝ろ、と甲田さんはおれをベッドに寝かせた。
「……甲田さんは?」
「俺も一緒に寝るよ」
今日だけだからな、とおれの頭を撫でた。自然とまぶたが閉じてくる。甲田さんには人を安心させる効果があるに違いない。
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