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第18話『誘う香り』

バイト先である最寄り駅の前のカフェから出ると、レイは空腹を感じた。時刻は夜の九時を過ぎている。 昼過ぎにサキのコンビニスイーツを食べてから、腹には何も入れていなかった。 人の流れは駅から住宅街へと流れていく。 レイもまた自宅マンションに向かって歩いていた。夕食はサキが作っているはずだった。今朝、自分から作ると言い出したのだ。 記憶を失ったサキは、なんというか、まともだった。 「居座らせてもらうからルールを決めなきゃ」 と言われたときは、記憶がなくなるだけで人格まで変わるのかと驚いた。 自堕落で、明け方近くまでバイトをしていたサキは、朝ごはんなど食べなかった。 それが昨日も今日もレイより早く起き、今朝は朝食を作ってくれていた。コーヒーもブラックにしてと言われ、甘い物をしかめ面で食べる。散らかっていた部屋は片付けられていた。 記憶を失ったサキは、レイの知っているサキとはまったくの別人になっていた。 実のところ、サキが記憶を失くしたと言ったにも関わらず、ソフィアに行くと連絡が来たときは、記憶喪失は演技だったのだろうと思った。 そもそも同棲していた理由は、サキが家にいたくない、とレイの部屋に入り浸るようになり、そのまま居ついたのだ。 それでも初めての恋人に頼られるのはうれしかったので、なあなあのまま過ごしていた。 『別れたんだから、早く出ていって』 レイがそう言った矢先に事故は起こった。だから家から追い出されたくなくて、ついた嘘なのだと思った。でなければ、記憶にないはずの店に行くはずがないからだ。 ところが、サキは昨日のうちにソフィアを辞めてきてしまった。コンビニスイーツを食べながら聞いたことだが、店から呼び出されて無視するわけにもいかず、事情を説明しに行ったのだという。 「成り行きで、店には出たけど」 と、サキは頭をかいた。 こんなに責任感の強いサキは、もうサキとは思えなかった。記憶喪失というより、二重人格で、別の人格だと言われた方がしっくりくるくらいだ。 そこまで考えて、まさかな、と自嘲した。 以前より好ましいとはいえ、サキがサキらしくなくなったのは自分のせいだ。その罪悪感はぬぐえなかった。 早く記憶が戻ってほしい、そして彼から解放されたい。 レイは夜風にと肩を震わせた。気づけば自宅マンション前だった。マンションのエントランスに入る前、五階の自室を見上げた。 あれ? と首を傾げた。 (電気が点いてない?) サキはどこかに出かけたのだろうか。レイは携帯を取り出し、チャットを見た。しかし、連絡は入っていなかった。 どうしたんだろ、と思いながら玄関扉を開ける。廊下の照明が自動で点いた。靴を脱ごうとしたとき、ふわっと芳しい香りが鼻をかすめた。脳髄を刺激する匂いにレイの胸がどく、と鳴った。 (これ、は……!) レイは靴を脱ぎ捨て、リビングの電気を点けた。そこにサキはいなかった。 レイは廊下に戻り、サキの部屋の前で止まった。 甘く誘う匂いはここから漏れ出ている。ドアを開けようとしたが、鍵が掛かっていた。 「サキ! 大丈夫⁉」 声を掛けると、くぐもった返事があった。 「だいじょうぶ、だ、から……ほっといて……」 「大丈夫じゃないでしょ! とにかく開けて!」 ドアを叩く。 レイは焦っていた。まさかとは思ったが、自分の身体のことまで忘れているようだ。 性別は生まれもったものだ。サキは記憶がなくとも己の性別は認識していたので、第二性の特殊事情はわかっているものだと思っていた。 いや、当然のことすぎて、意識していなかった。レイの背中に冷や汗が流れる。 「サキ! 開けて!」 しかし、部屋の中から反応はない。レイは頭に血が上った。甘い匂いが冷静さを奪っていた。 「開けろ‼」 ガンッとドアに拳を叩きつけた。束の間、しんとした後、床を踏みしめる足音が聞こえた。 カチャリ、と鍵が開く。ドアがスライドして開いたとき― 濃厚な香りが廊下に溢れ出て、レイを包んだ。とっさに鼻と口を手で覆う。 (やっぱり……! 発情しかけてる) ドアを開けたサキは、レイの前でへたりこんだ。

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