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第79話『サキの願い』

寒風も和らぎ始め、梅の花が満開になった。 大学が春休みに入る直前、サキとレイは水族館でデートをして、レイのマンションに帰ってきた。   リビングに入り、サキはひと晩の衣類が入ったリュックをソファーのそばに置いた。 「ケーキの代わりに、こういうのにしてみたんだけど」   キッチンにいたレイは冷蔵庫から箱を出してきた。 ダイニングテーブルにのぞきに行くと、それはフルーツのコンポートだった。 イチゴ、リンゴ、マンゴーがある。 サキは砂糖菓子のような甘さは苦手だが、シロップに漬けたフルーツは嫌いではなかった。   レイは泉サキの誕生祝いをしようとしてくれていた。   以前の身体である『吉野春之』の誕生日ではない。この身体である『泉サキ』の誕生日だ。 レイは吉野春之の誕生日にこだわっていたが、サキはこの身体の誕生日を祝ってほしいと言った。 自分は泉サキとして生まれ変わったのだ。吉野春之に未練はなかった。 サキはコンポートを見つめ、「おいしそうだ」と言うと、レイは「よかった」と安心したように言った。それからコーヒーを淹れ始めた。   サキはダイニングテーブルの椅子をひいた。   久我がサキを襲うという暴挙から二週間が過ぎていた。 あの事件の後、レイは久我と二人で会ったという。 サキに二度と手を出さないように釘を刺したと言っていたが、実際は犯罪の証拠となる動画を見せ、脅したらしい。 久我が丸裸で失神している姿も撮ってあったそうだ。 それを教えてくれたのは立石ハルキだった。 彼はレイとの同居を解消したことや、改めて付き合い始めたことを伝えると、どういう心境の変化か、サキに対して好意的になった。 彼とは今後も長い付き合いになりそうな気がした。 レイは淹れたてのコーヒーを持ってきて、あ、と立ち止まった。 「シャンパン買ってたんだった」   サキはくすっと笑った。レイは家で酒を飲む習慣がないので、忘れてしまうようだ。 「いいよ。あとで開けよう」   サキは白のマグカップを受け取った。 スプーンをもらい、誕生日ケーキ代わりのイチゴを口に入れる。 甘いイチゴの果汁が口の中に広がった。 レイはマンゴーを取った。 「明日は何時までいれる?」   レイが訊いた。 「三時過ぎくらいかな。四時からバイト入れてるから」   レイは、そっか、と言いながら、 「次に会えるのは一週間後かあ。早く社会人になりたい」   と、ぼやいた。サキは黙ってイチゴを食べた。 想いを伝え合ってからすぐにレイは「うちに戻ってこない?」と言ってきたが、サキは断った。 このマンションはレイの親のもので、光熱費は彼の親が払っている。 サキが寝泊まりできる場所を見つけた以上、甘えるわけにはいかなかった。 なので、レイにはお互い自立したら、一緒に暮らそうと言ってある。 サキもその日を楽しみにしていた。   スプーンを置き、コーヒーを口にしていると、レイが物言いたげに見ていた。 「なに?」   問うと、レイは視線を外し、片手に乗せたマンゴーの器を見ながらつぶやいた。 「サキはさ、何かしたいことがあるんでしょ」 「うん?」   何の話だ、と記憶をたどった。首を傾げると、レイは食べかけのマンゴーを置いた。 「前に訊いたとき、教えてくれなかった」   サキは再度考えてみたが思い当たらず、なんだっけ、と尋ねた。 すると、レイは怒ったような表情を浮かべた。 「春之がサキと入れ替わった理由だよ。叶えたい願いがあるんでしょ」 「ああ!」   サキが手を打つと、レイはむっとした。 「なに。あれは嘘だったの?」 「いや、嘘じゃない」   サキは頭を掻いた。 「ごめん、からかってるわけじゃないんだ。でも、なんで知りたいわけ?」   レイは口を尖らせた。 「何か手伝えることがあるかもしれないから、言ってほしかっただけ」   レイは面白くなさそうにコーヒーを啜った。 サキは端整な恋人の横顔を見て、軽く目を閉じた。 白い靄の中でのことを思い出していた。 (あれからまだ一年なんだよな)   レイは不貞腐れたようにマンゴーをつついている。 サキは、ふ、と笑い、遠い過去を語るように口を開いた。 「おれの世界に第二性がないことは、前に話したよな」   レイは顔を上げた。 「だからってわけでもないけど、こっちの人たちと違って、同性を好きになる人は少ないんだ。……理解してくれる人も一部だけだ」   サキは目を伏せた。 「おれは同性に恋愛感情を持つタイプで、周りにはそのことを隠してた」   レイはじっとサキを見ていた。 「おれが……」   死んだとき、と言おうとして、サキは言葉を換えた。 「泉サキと身体を交換した日、あの日はずっと好きだった人が結婚するって聞いた日だったんだ」   サキはその人の影を思い浮かべた。 会社の先輩だった。入社したときから面倒を見てくれ、部署が変わっても可愛がってくれた。 彼もまた長く独身で、恋人がいるという話は聞いたことがなかった。 思い切って告白してみようかと思ったこともあったが、勇気は出なかった。 そして聞かされた結婚報告。 「飲み会の席で、みんなと一緒にお祝いの言葉を言ったりして、すごくつらかった」   レイは静かに耳を傾けてくれた。サキはふっと息を吐いた。 「その帰りに意識が飛んで、神様みたいなのが顕れた。そこで願ったんだ」   サキは顔を上げて、レイを見つめた。 「おれは、好きな人に愛される身体になりたいって」   レイの目が大きく見開かれた。 「願いはもう、叶ったんだよ」   サキはしあわせいっぱいに微笑んだ。 ― 完 ― ※最後までお読みいただき、ありがとうございました。 リアクション等いただけましたら大変励みになります。 また次作を見つけてくださることを祈ってます!

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