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第1話

 あらゆる物語において、化け物は夜の闇を好む。 【光の国の化け物たち】  ルシャンの夜は明るい。  立ち並んだ輝く街灯の前では、月さえ霞む。  なのに外を歩く者はおらず、街灯は誰の影も映し出さない。ルシャン最大の都市であるここノッドでさえも、夜はさっぱり賑わいを見せなかった。  そんな閑静な夜の街を、蛍が駆け抜けていく。  腰にランタンをぶら下げた人の群れ。五つ並んだその光が、肉の潰れる音と共に四つになる。けれど四つの光は止まらない。  止まれば死ぬと知っているから。  いつからか知らないが、ルシャンには化け物がいた。  見た目こそ人間とそう変わらないものの、夜ごと人の血を啜る彼らを人間とは呼べない。だから代わりに、"吸血鬼"と呼ぶ。  人間と呼ばない理由はもう一つ、ある。それらを殺す際の罪悪感を、軽くするためだ。どんな物語にも化け物がいればそれを退治する奴もいると相場が決まっている。それは、ルシャンも例外ではない。  静寂を切り裂くように、轟音が響く。  "火葬隊"が扱う残酷な銃弾の中でも一際重いそれは、俺にとって任務完了と同義だった。 「……兄貴のやつ、今日も絶好調だな」  荒い息を整え振り返れば、トマトみたいに潰れた頭をコンクリに擦り付ける吸血鬼の姿が目に入る。兄貴の射程に誘き出された吸血鬼の末路は、いつもこうだ。  首から滴る血液が、ぼこりと泡立つ。吸血鬼が肉体を再生する音はどことなく水中を想起させる。俺はそれをけたたましい銃声でかき消すと、飛び散った血を拭った。  再生のたびに歪になっていくそれは人というより出来の悪い泥細工みたいだ。こんな状態でもまだ生きているのだから、吸血鬼の生命力には恐れ入る。再び銃を構えるが、引き金を引くより早く轟音が響き、目の前の泥は弾け飛んだ。  耳をつんざく轟音が収まるのと共に背後の靴音に気付く。すれ違いざまに長大な狙撃銃を俺に押し付けたそいつはそのまま泥……いや、もはや崩れ落ちて灰の山を成すだけのそれへと足を進め──ざり、と靴底で灰を噛んだ。  砂山のてっぺんに旗を立てるガキのように、腰から抜いた短剣を灰の山に突き刺す。その後ろ姿に近寄って軽く肩を叩いてやれば、そいつは静かに振り返った。 「砂遊びはその辺にしとけよ、兄貴」 「ロキ……」  毎朝整えている茶髪は血と汗で崩れ、穏やかな緑の垂れ目は憎しみに塗れている。 「さっさと帰って朝飯食おうぜ。土曜だからデザートにケーキも付いてるし、な?」  へらりと笑って調子良く言えば、兄貴も口元を緩めた。ああやっぱり。  あんたは、笑ってた方がいい。  ステンドグラスから朝日が差し込んでいる。  賑わいを見せる食堂の中、まだ日が出てすぐだというのに人々は皆活気に満ちていた。中でも隣に座る男が一際生き生きして見えるのは、たぶん俺の贔屓目のせいだ。 「はぁ……うめぇ、これのために働いてるみたいなとこあるよなぁ」 「嘘つけ」  垂れ目をもっと垂れさせて、兄貴がケーキを頬張る。この顔が見れるから、土曜の朝は好きだ。 「俺の半分やろうか?」 「週一の楽しみを簡単に人に譲んな」 「いいんだよ、俺はもうじきホールで食えるんだから」  ショートケーキをちょうど真ん中でカットして苺ごと兄貴の皿へと移すも、数秒後にはぽとりと苺が帰還する。 「さすがに苺はもらえねえわ」  眉を下げて笑って、兄貴は指に付いたクリームを舐めた。 「つか、ホールで作ってやっても毎年半分以下しか食わねえのに何言ってんだよ」 「だってデカいんだよ兄貴の作るケーキ。何人分だよ」 「誕生日なんだ、デカすぎるくらいでちょうどいい」 「限度があるだろ。しかも別でプレゼントまであるしさぁ。お腹いっぱいだよ俺は」 「でも誕生日ってそういうモンだろ」  誕生日には大きなホールケーキと絵に描いたようなプレゼント。それが、両親が吸血鬼に殺されるまでの十年間で身に付いた兄貴の常識らしい。  俺も六回は祝ってもらったはずだが、残念ながら常識として定着するには至らなかった。なにせ、両親が死んだ後はとてもじゃないがお祝いどころじゃなかったから。  孤児院、空き家、ボロアパートときて、最終的にここ──火葬隊に入ってようやく、俺たちは再び誕生日を祝えるだけの余裕を手に入れた。でもここだって、決して安息の地とは言えない。  火葬隊に入隊してからというもの兄貴の復讐心はいっそう燃え上がり、それと一緒に傷も増えた。一度意識不明になって帰ってきた死体みたいなそいつを見て、いつかそう遠くない未来この男が本当に死体になって帰ってくる気がした。開口一番「火葬隊をやめろ」と可愛い弟に散々ねだられても、兄貴は首を縦には振らなかった。俺が火葬隊に入ったのは、それからすぐだ。入隊式に並んだ俺を苦虫を噛み潰したような顔で見ていた兄貴は、記憶に新しい。  それでも俺たちは今日まで生き抜き、毎年十一月と二月には誕生と無事を盛大に祝った。両親が、死ぬ前みたいに。兄貴はずっと、こういう生活に戻りたかったのだろう。俺だって、そうだ。  でも実際は、何も戻っちゃいない。  苺をフォークでころころと転がして、考える。火葬隊の殉職率は高い。兄貴がまた来週ケーキを食べられるかどうかすら分からないほどに。生きるか死ぬかの生活をしているという点では、俺たちは結局ここに来る前と何も変わっちゃいなかった。 「なぁ兄貴。今年のプレゼントは、さ」  フォークの先で苺をつぷりと突き刺して、兄貴を見据える。 「退職願いが欲しいな」  テディベアなんていらねえよ。腕時計もコートも靴も……ケーキも。俺が欲しいのはただ一枚の紙っぺらだけだ。  しかしみるみる曇っていく表情を見て、馬鹿なことを言ったと悟る。 「ええと、だってほら、もっと兄貴には向いてる仕事があると思うんだよ。シェフとか、ケーキ作る仕事もいいよな。結婚式場とかででっけえ派手なやつ作ってさ、なんつーの? 人の幸福をお裾分けしてもらうってやつ?」 「ロキ」  誤魔化そうと増えた口数は、兄貴の一言にさえ勝てない。 「あの"赤い目"の野郎を殺すまで、もうちょっとだけ待ってくれ」  あんたのいう「もうちょっと」って一体何年だよ。 「それ以外のモンなら何でもやるからさ」  いらねえよ。あんたの無事と幸福以外、何も。  何も、いらねえ。 「じゃあ……」  他に欲しいものがあるとすれば──。 「今年も、酒がいいな」  欲しいものが手に入らなかったことを忘れさせてくれる、それ。悲しみを半分にしてくれる魔法の水はもはや俺の人生と切り離せない。 「毎年それじゃねえか。少しは控えろ」 「誕生日くらい許してくれよ」 「へえ。ヴァレンティ弟は誕生日近いのか」  突如声が割り込んで、どかりと対面に男が座る。取り巻きを連れにやにやと笑うそいつは、テーブルに肘を付いた。 「俺らもなんかやろうか?」 「いやぁ、先輩方に気遣わせらんないですよ」 「そう遠慮すんなって。お前好きだろ、"ミルク"。最近ちょうど溜まってたし、いっぱい飲ませてやるよ」  こういった扱いを受けることは、そう珍しいことではない。俺がかつて金に困って売春していた噂はとうの昔に広まって、時折こういう奴らを引き寄せる。 「おい」  愛想笑いを浮かべる俺の隣で、音を立てて椅子が倒れた。ちぎるみたいに目の前の男の胸ぐらを掴みテーブルに引っ張り上げた兄貴が、その長い腕を振り上げている。 「俺の弟を二度とそういう目で見るな」  拳が振り下ろされる直前、慌ててその腕を掴む。昔から、兄貴はすぐに大ごとにしたがる。 「まあまあ兄貴、そんな怒んなって。いいよ別にチンコの一本や二本くらいさぁ」 「良いわけないだろ! こういう時はっ殴んのが正解なんだよ!」 「ハッ……そうしてっとマジで似てねえなお前ら。ホントに血繋がってんのかぁ? ママが違うんじゃねえの?」 「は?」 「アバズレのママよろしくどうせ兄貴ともヤッてんだろ、ロキちゃん」  俺は別に何を言われてもいい。だって事実だから。でも、家族が罵られるのは我慢ならなかった。逆手に持ち直したぴかぴかのフォークを、テーブルについたそいつの指の真横に突き刺す。 「正解はこうだよな、兄貴」 「ひっ……!」 「何やってんだお前ら!」  第三者の怒声が響く。振り返れば、見慣れた灰色の短髪に紺色のつり目の男。 「ったく……いい歳して反省文書かされたかねぇだろ。離れろ」 「でもコイツが先にロキを……」 「分かってるから離れろ。いいなロダン、手を離せ。ロキも、食器壊すな」  突如現れたそいつ──ヴィーゼル・ロンドは、火葬隊の次期総帥。その上、兄貴にとっては大恩ある先輩だ。彼に促されればあいつらも兄貴も流石に従った。……俺の言うことは全然聞かないくせに。  あいつらを追っ払った椅子に、代わりにヴィーゼルが腰掛ける。はぁ、とデカいため息を吐くそいつを肘をついて眺めた。兄貴も、同じポーズでぶすくれている。モデル顔負けのハンサムなツラには「殴りたかった」と書いてあるかのようだ。 「なあおいロダンよぉ。弟想いなのは分かる。けど問題起こすのはやめろ。そろそろ反省文で本ができるぞ」 「……十年もいれば誰だってそれくらいになるだろ」 「ならねぇよ。ロキも……ああいうのはカウンセリングの時に言えって」 「言うほどのことじゃないんで」  この問答は俺たちの間で既に何度も繰り返されたやり取りだ。だから彼も、もう深くは言及してこない。  こめかみを手で押さえながらため息を吐き、ヴィーゼルは話題を変えた。 「……あと、ちょうどいいからこれ。次の任務な」  テーブルの真ん中に置かれたのは一枚の紙。俺と兄貴は二人でそれを覗き込む。 「"地上の神の教会"への潜入……」 「げぇ、マジ?」  ルシャンでは有名なカルト教団だ。  "みんなで吸血鬼になって永遠に生きよう"。なんて馬鹿げた理念を大真面目に掲げるそいつらは、吸血鬼の撲滅を謳う俺たち火葬隊にとって目の上のたんこぶだった。 「マジ、だ。はぁ……吸血鬼を増やされるわけにもいかねえしな」 「なぁんで吸血鬼なんかになりたいって思っちゃうんだろうなぁ……」  吸血鬼の正体は科学的に解明されていないが(もしかすると科学で解明されないが故、かもしれない)、通説では"天に昇れなかった人間の魂"だと言われている。生前と同じ姿、同じ人格でもって、死体の横に現れるからだ。  人の魂とは言うが、徐々にあるいは急速に人間性を失って最終的に人を襲う彼らを、やはり人とは呼べなかった。そんなものに好き好んでなりたいだなんて、どうかしているとしか思えない。 「吸血鬼のこと不老不死だとでも思ってんだろうよ」 「はっ、頭撃てば死ぬくせに何が不死だよ」  くるくるとフォークで空をかき混ぜながら、うざったそうに兄貴が言う。  馬鹿馬鹿しい。そう吐き捨てた兄貴をヴィーゼルが複雑そうな顔で見つめ、そしてたしなめる。いつもの流れだった。 「……実際は、なりたくてなったわけじゃねえ奴が大半だ。そう言ってやんな」 「だったら尚更、大人しく殺されてほしいモンだけどな。人を襲う前によ」 「でもさぁ太陽に焼き殺されるか蜂の巣にされるかの二択だろ? 正直……逃げたくなんのもわかる」  運悪く吸血鬼になってしまったので人を襲う前にいっそ……なんて殊勝な奴はほとんどいない。火葬隊の殉職者ですら二度目の死を恐れて逃げ出すことがあるのだから、死ぬ覚悟を持ってるわけでもない一般人なら尚更だ。 「俺なら怖くなっちまうかも。だからさ兄貴。もし任務中にあんたのスコープに俺が二人映ったら、その時はちゃんと天国に送ってくれよな」  瞳を揺らがせ、兄貴は眉間の皺を深くした。そのまま両手に持ったカトラリーをがちゃりと置いて不機嫌そうにテーブルに肘をつく。 「……ヴィーゼル。この任務、俺もそっち側がいい」 「あのなロダン。はっきり言わせてもらうがお前に潜入は無理だ。狙撃ポイントまで引っ張ってくるから、待ってろ」 「でも俺が一番動ける」 「えぇ、もしかして心配してくれてんの?」 「お前が縁起でもないこと言うから……!」 「はいはい悪かったよ。ほら、これで機嫌直してオニーチャン」  肉を一切れフォークに刺して兄貴の口へと運ぶ。不安の言葉を紡いでいた口が咀嚼のために静かになったのを見計らって、ヴィーゼルは言い聞かせた。 「いいかロダン。地上の神の教会は信者の大半が人間だ。従順な回復手段がすぐ側に山ほどあるんじゃ、戦ったところで勝ち目はない。分かるな? 中でお前に暴れられたら困る」 「…………分かったよ」  咀嚼を終えた口がぽつりと呟く。不貞腐れたような声色だったが、「分かった」と口にした手前、それ以上任務について何も言わなかった。  北ノッド大聖堂には、静謐な空気が立ち込めている。  等間隔に並べられた長椅子は金の蛇があしらわれた真っ白いローブの集団で埋め尽くされ、ざっと二、三百はいるだろうに話し声は一つもなく──何かを待つみたいに、祭壇のをじっと見つめていた。地上の神の教会ってやつは、随分お行儀がいいらしい。  それからしばらく、体感として数分程度だろうか。無音だった大聖堂に小気味良い靴音が響いた。 「こんばんは皆さま」  この空間の誰もが息を呑んだのが、わかる。  祭壇に現れたのは、真っ白い雪のような髪にこれまた真っ白いベールを被った──少女。 「お集まりいただき誠に感謝いたします。私はテラス・オルコット。地上の神の教会の、大司教です」  可憐な見た目に違わぬ鈴のような声で、しかしどこか見た目に反して老成した雰囲気を纏うそいつは、十中八九吸血鬼だった。 「"人々の魂は、終わりの日に肉体から解き放たれる。そして天上の神の元へと昇り、永遠の幸福と安寧を得る"」  ルシャンのいわゆる「教え」の一節を引用し、彼女はステンドグラスを仰ぎ見た。しかし緩慢な動きで振り返ると、首を横に振る。 「通説ではそのように言われています。ですが、天の神が我らを救ってくれることはありません。私は長い時を生き、見てきました。傷病に侵される人々を、貧困に喘ぐ人々を、醜く争う人々を。それらを救ってくださるのはいつだって、地上におわす神でした」  スカイブルーの大きな瞳をぱちりと開け、テラスは凛とした声で、眼差しで、訴えるように話す。おっとりした口調はしかし気迫があり、聖職者というより政治家のスピーチと言った方がしっくりきた。 「地上にはかつて、不死の楽園があったのです。そこでは誰もが死なず、争わず、慈悲深い神のもとで皆が幸福に暮らしていました。天に安寧があるなどというのは、信仰を失った愚者の嘘に過ぎません。それに騙されずここに集まった皆さまには、必ずや地上の神が不死を与えてくれるでしょう。──さあ、皆さま、希望に溢れた目をよく見せて」  月光に照らされ、薄暗い教会の中でテラスの瞳が輝く。促されるままフードを取り去った人々は、そのきらきらと輝く空色にすっかり魅入られていた。  ……まずいな。  吸血鬼は目で、手のひらで、人の魂に干渉する。  だから吸血鬼とは決して目を合わせてはいけないし、触れられてもいけない。心を狂わされてしまうから。  とはいえ、この場でフードを取らないと目立つのも事実だ。目深に被っていたフードを取り去り、できるだけテラスの目を見ないように視線をずらす。  その時だった。頭上から、息を呑むような音が聞こえたのは。 「……っ、エマ?」 「は」  俺の斜め後ろ。音の発生源である男を振り返る。  この場に似つかわしくない黒のマントに覆われた背はすらりと高く、見上げた先には、長い黒髪と整った唇。そして高い鼻を挟むように二つ──炎のように真っ赤な瞳が弧を描いて、俺を見つめていた。 「エマ……っ!」  何かを確信したらしいその男は長い両腕で俺を抱きしめると肺いっぱいに息を吸って、やがて満足したのか顔を離した。嬉しそうに上がった口の端から、ちらりと牙が覗く。  頭の中で警告音が鳴り響き、心臓が壊れたみたいに跳ねる。  やばい。目を、見てしまった。爬虫類みたいな縦長の瞳孔がぎゅう、と開いていくところまで、しっかりと。それに。それに──。  赤い、目……。  こいつは、兄貴が探してる吸血鬼なんじゃないのか?  だが、今ここでこいつを撃つのは悪手だ。あくまで任務の目的は地上の神の教会の壊滅であって、こいつじゃない。優先順位を間違えるな。  俺はびくつく心臓を押さえ付けるみたいに、静かに息を吐いた。 「ずっとお前を探していたんだ……なあ、俺も」 「あの、人違い……です」  この吸血鬼は俺が火葬隊だとまでは気付いていない。ただ「エマ」と聞き慣れない名で俺を呼ぶだけだ。  これなら、まだやり過ごせるかもしれない。 「大司教様のお声を聞きたいので、お静かに」 「…………忘れてしまったのか、エマ」  顎を掴まれ無理やり上向かせられると、嫌でも吸血鬼と目が合った。目を閉じればいいのに何故か俺は開眼したまま、その揺らめく炎のような瞳から目を離せずに、いた。 「"思い出してくれ"」 「う……ぁ……」  脳が、ぐちゃぐちゃに掻き回されていく。視界は明滅し、意識が……落ちる。 「俺が分かるだろう?」 「……ぅ」  瞬間、目の前にあった顔が弾け飛ぶ。返り血を浴びた俺は白いローブを真っ赤に染めて、そこでようやく正気に戻った。  ステンドグラスをぶち抜いた弾丸は明らかに外から撃たれたもので、 「兄貴か……」  助かった。けれど任務は失敗だ。  無線機から離脱命令が下る。ようやく見つけた赤い目の吸血鬼だが、今はそれどころではない。 「"捕らえて"」  テラスの声に、ぐりん、と信者の首がこちらを向く。虚ろな空色をたたえた信者たちの腕が伸びて──俺はそれを飛び越えるみたいに長椅子を蹴った。  肩を道に、頭を階段代わりに、信者の川を踏み越えていく。  しかし突如川底から足を引かれ、がくんと身体が落ちる。到底人間の力ではない馬鹿力のままに硬い石の床へと叩きつけられると、背骨が嫌な音を立てた。 「俺のことなど思い出したくもないか?」  俺に馬乗りになったそいつ──赤い目の吸血鬼は、俺の手のひらを自身の首に添えると一度灰になったはずの頭をぶくぶくと再生した。元通りになった顔で手のひらに頬擦りされ、ぞわりと肌が粟立つ。  おかしい。いくらなんでも再生が正確すぎる。それに周囲の人間から血を飲んだ様子もない。  一体、何が起こっている? 「それでも、"治して"はくれるんだな」 「なに、言って……ッ、あ゛」  妖しく舌舐めずりをした口が、キスするみたいに首に牙を突き立てた。血を啜る湿った水音が、やけに耳に響く。 「クソ、離せ……っ! や、め……ぁ、ん……」  なんだ、これ。吸血鬼に噛まれてこんな声を出すなんて、今までは無かった。ただ痛いだけのはずだった。それなのに。 「んん……ン……」  微睡むみたいに気持ちよくて、全身から抵抗の意思が抜けていく。こわばっていた四肢は徐々に脱力し、仰け反った首は吸血鬼の牙を悦んで受け入れた。 「忘れているくせに、随分甘いじゃないか」  口元を赤く染めて笑う吸血鬼の牙から、目が離せない。頭は壊れるほどに警報を鳴らしているのに、本能がもっと欲しいと願ってしまう。 「なあエマ。エマ……俺を受け入れてくれるだろう?」  その言葉に、抗えない。もっと欲しい。牙じゃ届かない、奥に……来て、欲しい。  熱に浮かされるまま炎の双眼を見つめると、視界がとろけた。海と一体化したような感覚の中、甘く低い声が響く。 「エマ。"俺を呼んで"」  俺はこの声を知っている。ずっと、ずっと前から、知っていた気がする。 「──マグナス」  その名を口にした途端ごぽりと泡が鳴り、海面に引っ張り上げられるみたいに意識が浮上した。は、とようやく吸い込んだ空気は、どこか懐かしい花の香りがする。 「もう一度」  耳のすぐ横で声が響く。甘くて低いその囁きが、妙に心地良い。 「もう一度、呼んでくれ」 「マグナス……」  やけに、口に馴染んだ。まるで何度も呼んだことがあるかのように。  おかしい。俺はこいつを知らない。なのに、香りも、声も、名前も、俺を抱きしめるその体温にすら、覚えがある。  ふわふわとした心地のまま、思わずその大きな背中に手を伸ばしそうになって──突如響いた拍手の音に我に返った。 「──さすがね、マグナス。"それ"、きっとあなたの特権よ」  信者の海を二つに割って、ゆったりと、テラスが歩み寄る。彼女は俺を見下ろすと、言った。 「でもまだ"完全"じゃない。あなたの望む彼には、遠いわ」 「そのようだ」  何を話しているのかさっぱり分からないが、一つ分かることがある。俺の状況はもうほとんど詰みだってことだ。  吸血鬼二人に目を付けられ脱出は絶望的。人間である信者たちに壁のように囲まれたこの状態では、外部からの狙撃も期待できない。それが意味するのは、死だ。  けれども彼らの目に殺意は見られない。 「マグナス……」  甘い声で呼べば、赤の瞳が穏やかに弧を描いた。恋人みたいな手が背中に回ったのを感じ、俺もそれに応えるように彼の首に手を絡めて、その油断し切った笑みを──銃弾でブチ抜いた。  力の抜けた腕を飛び出し、駆ける。  俺を捕まえようと蠢く信者たちにめちゃくちゃに服を掴まれるが、邪魔なローブなんてむしろくれてやる。脱皮するみたいに脱ぎ捨て、身軽になった身体で迫り来る信者たちを銃の底で殴り付けては走り、蹴り飛ばしては走った。 「ロキ!」  ヴィーゼルの声と共に前方から伸びた手のひらに掴まれば、ぐん、と引っ張られ、俺はようやく群衆を抜けた。  大聖堂の出口へと全速力で駆けていく中で、ふと、  『──エマ』  名前を呼ばれた、気がした。ぶわりと汗が湧き出て、頭が恐怖と警戒でエラーを起こす。そのまま走り続けるべきだった、のに、俺は振り返ってしまった。  すぐ後ろには、首のない男。  反射的に発砲するも吸血鬼はそれを避けもせず、俺のほんの少し前を走っていたヴィーゼルを大聖堂の外へ恐ろしい脚力で蹴り飛ばし、そして。  ぎぎ、とこちらに身体を向けた。唯一の出口はそいつの後ろで、俺は再び逃げ場を失った。やるしか、ない。  両手で銃を構え、真っ黒な死の穴から殺意を吐き出す。重い銃声を何度も響かせた末──かちかちと弾切れの音が耳を撫でた。 「もう終わりか?」  灰のように黒ずんだぼろぼろの指が、踊るみたいに俺の腰と腕を掴む。艶やかな長い黒髪を夜風に靡かせたそいつは、撃たれる前と少しも変わっていない。 「捕まえたぞ、エマ」  耳を喰まれるほどの距離でそう囁かれ、思わず、ひゅ、と息を飲む。 「"また"俺の元を去ろうとしたな?」  視線を上へと向ければ、執着と怒気を孕んだ赤い瞳と目が合う。ほとんど本能的に死を感じて情けなく喉が震えた。 「だが、もうどこにも行かせはしない」  咎めるように目を細めたマグナスは、掴み上げた俺の左腕を指先で這っていく。手首から手のひらへと滑るその指先がグローブの中をくすぐるように這って、ぱさりとグローブを床に落とす。  無防備に露出した指から一本──薬指を選んで、そいつは生温かい口内へと閉じ込めた。 「い゛っ……ぁ、……」  刻みつけるみたいに付け根を噛まれ、惜しむように血を舐め取られる。粘着質な水音がやけに響いて、耳まで犯されてる気がした。  溶け落ちるほどにたっぷり舐られた指は唾液でコーティングされ、てらてらと光っている。じっとりと濡れた指から唾液混じりの血が溢れていくのが、嫌にスローモーションに見えた。  濡れそぼった薬指の根本には、赤い噛み跡がぐるりと一周するように付けられている。 「なあエマ……ずっと俺と一緒に暮らそう。"昔"みたいに」  恐怖で頭が回らない。  震える右手は弾の切れた銃をようやく手放し、代わりに腰に着けていた短剣を抜くとそのまま思い切り振り上げた。もはや思考はしていなかった。殺さないと死ぬ。頭を埋め尽くしていたのはそれだけだった。  腕を切り裂かれたマグナスは悲痛そうに顔を歪ませたが、次の瞬間にはすぅ、と温度を無くしたような目で俺を見た。 「……そうか。お前がその気なら、仕方ない」  一瞬ののち、大きな手のひらに視界を覆われ、気づけば俺は天井を見上げていた。打ち付けた後頭部が、痛い。  ちかちかと明滅する視界にマグナスが映り込む。俺の顔から手を離したそいつは、今度は左足首を掴み、持ち上げた。 「な、にして……っ」 「どこにも行かせないと言っただろう。……大丈夫だ。脚が使えなくなっても、俺が世話をしてやる」  足首を掴む力が強められ、これから何が起こるのか理解する。  恐怖のあまり駄々をこねる子どものように頭を振るが、どれだけ必死に抵抗しても吸血鬼に力で叶うはずがない。ならばせめてこれから訪れる痛みを堪えようと固く目を瞑ったその時、  轟音が、鳴り響いた。  ちぎれた手首がぼとりと落ちる。苦痛に歪んだ男の顔は、次の瞬間には再度響いた轟音と共に破裂した。 「間に合った……!」  大聖堂の入り口に立つのは──狙撃銃を構えた、背の高い人影。  胸騒ぎが、した。そこに立つ男の姿に確かに安堵したはずなのに、同時にそいつが死ぬ未来を予見しちまって……叫ぶ。 「っ逃げろ! 兄貴!」  マグナスの腕を掴み、よくベッドでそうするみたいに自分の方へと引き倒す。しかしここはベッドではないので、煮立つような音と共に再生した赤い目には愛情なんてモンはかけらもないし、俺を見ることもない。 「次から次へと……」  兄貴を振り返ったそいつの顔が忌々しげに歪んだのと狙撃銃の引き金にかけられた指が動いたのは、ほとんど同時だった。  最初に感じたのは、内臓が浮くような嫌な浮遊感。次いで、打撲に近い全身の痛み。 「っ、い゛……」  乱暴に投げ飛ばされた身体を無理やり起こせば、かすむ視界の向こうで弾丸の嵐を躱すマグナスの後ろ姿が見えた。赤い瞳に捉えられた兄貴の銃弾は、もう、当たらない。  しかし吸血鬼といえど目は二つだけだ。  ホルスターを探り、覚束ない手つきで銃弾を詰め替え、やっとの思いで──腕を持ち上げる。  バン、と放った銃弾が、広い背中を撃ち抜いた。そいつが振り向くより早く、同じ場所にもう一発、二発、三発。ぐらりと傾いた吸血鬼の頭に、長い銃身の先が当てられる。  轟音が響くと、吸血鬼はついに倒れ伏した。 「は、はは……やった……」  柱に寄りかかるようにして立ち上がり、こちらに駆ける愛しい兄貴の姿を迎える。でもその表情は、どこか焦って見えた。 「ロキ! 走れ!」 「え?」  背後から、首根っこを引かれる。あの不死身がごとき吸血鬼に気を取られて完全に失念していた。もう一人、吸血鬼がいることを。 「──駄目じゃない。ちゃんと捕まえておかないと」  さっきから俺はほとんどお手玉だ。人外の力で投げ飛ばされ、兄貴を通り過ぎ、倒れ伏した男をクッションにして止まる。背中の下で、ごぽりと嫌な音がした。  クッションから、太く長い腕が伸びる。体に巻き付いたそれは映画に出てくる凶悪犯罪者を戒めるベルトのようだが、首筋にかかる吐息は映画にはないものだ。ぬるりとした感触が首を這って、声にならない悲鳴が出た。 「暴れるようなら、またここを噛まないといけないな」 「──ッ、」 「っク、ソ!」 「駄目よ。あなたはこっち」  弾の切れた狙撃銃を捨てこちらへ走ろうとした兄貴を信者が囲む。流石の兄貴も人間相手に刃物を振るうことはできず、多勢に対し素手での攻防には限界があった。  床に押さえ付けられた兄貴の前に真白い少女が座り込む。細く白い指が顎をすくうのを、誰も止められない。スカイブルーの瞳が見開いて、兄貴の緑色に空を映し出す。 「へぇ……あなた、お兄ちゃんなのね」 「やめ、ろ……っ、兄貴に手ぇ、出すな……!」 「それはあなたの態度しだいよ」  指を離せば兄貴は信者たちと同じ虚ろな空色の瞳で、ぼんやりと俺を見つめた。 「私の意思一つでこの子をこのまま壊すこともできるけど……洗脳を解くことも、できる」 「……どうすりゃいい」 「ふふ。人質に弱いのは"昔"から変わらないのね」  どいつもこいつも。 「昔昔って……! 俺はお前らなんて知らない!」 「そうかしら」  小気味良い靴音を響かせたテラスが、眼前に迫る。 「私の目を見て」  躊躇って視線を彷徨わせた瞬間、テラス越しに何かを殴り付けるような鈍い音が聞こえた。床に垂れた茶髪に、赤色が混じる。 「あに……き……」 「見て」  二度目の指示に、俺は従った。  スカイブルーの瞳を覗くと意識が歪み、走馬灯を映し出す。ケーキを頬張る土曜の兄貴、俺に乗っかり獣のように腰を振る男、両親の顔、兄貴が初めて焼いた焦げたパイ……それらが濁流みたいな勢いで流れては消え──  ──途端、目を瞑りたくなるほど眩い白一色になった。  太陽を直視した時の感覚に近いそれは、唐突に終わりを告げる。二、三またたけば、太陽のない青空が目に入った。 「ふふ、見えた。やっぱり、無意識にはちゃんと残っているわ」 「何が……?」 「"昔"のあなたよ」  細い指が、俺の胸を指す。 「人の目は劇場の画面と同じ。まるで映画を観ているような心地で、私たちは魂に刻まれた一生を観ることができるの。たとえ、本人が忘れていても」 「俺が何をわす、っん、」  首筋を辿った指先は唇を押し、俺を黙らせる。 「忘却は消滅じゃない。忘れ去られた記憶は魂に残り続けて、無意識に影響を及ぼす」  唇を戒めていた指がそっと離れ、そして、 「その最たるものが、夢よ」  離れた指は手のひらとなって俺の胸ぐらを、掴んだ。目玉がくっつきそうなくらい近くに青空を感じて、一瞬、鳥の視界を夢想する。 「だからね。"たくさん夢を見て"」  声が響くと、空を飛んでいたはずが海の底に突き落とされる。徐々に徐々に意識が沈むその感覚は、微睡みのようだった。 「おやすみなさい。ロキ・ヴァレンティ」

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