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第4話
【ただ過ぎた日々を求めて】
どこへ行っても、何を見ても、俺はエマの影を追わずにはいられなかった。
明日こそは。の繰り返しは実に六百年続いた。エマの夢を六百年見続け、そしてエマのいない朝で六百年目覚め続ける。天国の夢と地獄の現実の末、ようやく手に入れた金糸を指で梳く。
柔らかな髪はあの頃のままだ。眠っているのをいいことに、そのまま下へ下へと手を滑らせていく。頬、首、胸、腹……脚。ぐい、とズボンの裾を捲れば、火傷痕のない綺麗な脚が目に入った。
「……違う」
この男は確かにエマなのに、ところどころ記憶の中の彼とは異なる。あの穏やかな赤の眼差しはどこにもなく、あるのは怯えの混ざった他人行儀な緑色だけ。
それに一抹の寂しさを抱くも、それでも彼がエマであることに変わりはないと首を横に振る。俺の名前を思い出してくれたのだ、きっと俺との日々も思い出してくれるだろう。かつてと同じ場所で過ごし、同じものを食べ、同じ話をすれば。きっと。
彼は元に戻る。
「早く目を覚まさないだろうか」
眠りこけるエマの頬を撫で、その唇に親指を這わせる。ついぞ触れることを許されなかったそこは、今は無防備に薄く開いている。
……何を、考えているんだ俺は。
意識のない彼に口付けたところで何の意味もないだろうに。
こういうことはきちんと段階を踏まなくては。そう理性では思うものの、這わせた親指をはぷりと咥えた唇の感触に、とっくに止まったはずの心臓がばくばくと音を立てた気がした。
もし。もしだ。もし彼が俺を受け入れてくれたら、ここに舌を入れることもあるのだろうか……?
したこともないのにその口内の熱さを、恋人にしか見せないエマの蕩けた顔を想像して、顔が熱くなる。見たい。特別な相手にだけ見せる、誰も知らないエマの顔を。家族に向けるそれよりもっと甘い愛の言葉が、欲しい。
ずっと、欲しかった。
だがそれを手に入れる前に、エマは俺を知らない街に捨てた。何も前触れもなく。
彼をよく知るテラス曰く「エマニュエルは人間とは生きない」らしい。ならば吸血鬼になった今なら、彼は俺を共に生きるに相応しい相手と認めてくれるはずだった。
だから早く思い出して欲しかったのに、目覚めた彼が変な声を出したせいで全部うやむやになってしまった。
初めて聞いたエマの艶っぽい声はなかなか頭から離れなくて、気付けば暖炉の中でパンケーキが焦げていた。
これはさすがに、日記に書けない。
記憶のないエマとの生活はことのほか楽しかった。エマより少し賑やかな彼はここ数百年暖炉とオルガンの音しかさせなかったこの教会に随分音を増やしたし、何を見ても物珍しげな視線は応えてやれば興味深そうにくりくりと輝いた。一番面白かったのは外に連れて行った時のアレだ。
「俺ちょっと憧れあったんだよなぁ。雪にこうやって……ッうわ! 冷てっっ!」
勢い良く雪の上に倒れたかと思えばその冷たさに驚いて飛び上がった彼は、「もういいや……」と縮こまって二度と雪に寝転ばなかった。その一連の挙動はどう考えてもエマらしくないのに、それでも好ましかった。ちょうどエマの形に空いた穴がまた愛らしくて、俺は密かに笑っていた。
無理に全てを思い出させずとも良いのかもしれない。あの赤色さえ取り戻してくれたなら、俺を好きになってくれたなら、どこにも行かないなら、それで。
そう思い始めてすらいた。屋根裏で武器を携えたエマを見つけた時でさえ、すぐに謝るなら許そうと思った。
でも。彼の口から俺以外の名前が出て、耐えられなかった。やはり駄目だ。怯えの混ざった緑の瞳では、他人を兄と呼び慕う口では、他の場所に帰ろうとする傷一つない脚では、駄目なのだ。
「エマに兄なんていない!」
なあエマ。ただの家族ごっこに随分な入れ込みようじゃないか。そいつはただの人間なのだろう?
俺のことは捨てたくせに。忘れたくせに。その男の隣には帰りたいだと?
ふざけるな。
心が、乾いていく。思い通りにならない男への苛立ちは最高潮を迎え、血の滴る傷口を指で抉った。
悲鳴を上げた彼は今にも泣き出しそうな目をしていて、きっといつもであればすぐさま平謝りして縄を解いたことだろう。しかし俺を埋め尽くしたのは罪悪感ではなく、途方もない征服欲だった。
自分がこんなにも醜い感情を持っているなど気付きたくなかった。もっと温かで優しい感情だけを持っていたかった。こんな顔を、させたいわけではなかった。それなのに、震えて縮こまっているエマを見下ろすとひどく気分が良かった。
彼が、俺のものになったみたいで。
けれど、所詮それは錯覚だ。彼のやわい魂に潜り込もうとその瞳を見つめた時、俺を襲ったのは拒絶だった。光を断絶したかのように真っ黒な魂の海は俺を追い出そうと荒れ狂い、このままでは彼の意識や記憶も一緒に壊れてしまいそうで──慌てて視線を逸らした。
時既に遅く、目の前の男は気絶してぴくりとも動かない。
まるで一つの美しい標本のようにも見える。しかし何の反応も示さないそれに抱いた感想は、身勝手にも寂しさだった。
このまま二度と目を覚まさないのではという不安が解消されたのは、翌朝のことだ。
目を覚ましたことを喜ぶ暇はなかった。猫のように天井から降り立ち、駆け抜けていったその背を追う。
逃げる金髪へと伸ばした手が、その姿を捉える前にさらさらと崩れ落ちていく。天に拒まれたこの身では光の下に出ることは叶わない。だというのに、崩れ落ちた指の先──輝く銀世界に、彼は立っていた。
おかしい。
そんなはずはない。
だってお前は、吸血鬼だろう。
それなのに、どうしてそこに立っていられるんだ。
「人違いで監禁すんなバーーーカ!」
挑発的な笑みで恐怖を隠した彼はあっという間に小さくなって、森の奥へと消えていく。一人残された俺は、ずるりと床へ座り込んだ。
「……人違い? 冗談だろう?」
そんなはずはない。ならば何故あんなにも似ている? 何故、魂に俺との記憶がある?
「まさか……」
数十年前、レゾミリアで知り合った医者に「楽になりたい」と泣き言を吐いたことがあった。相談への回答は、医者にしては随分乱暴なものだったと記憶している。
『──なら太陽に焼き尽くされて、記憶を全て失えばいい。そうすればマグナスとしての人生は終わり、別人として生まれ変われますよ』
『……忘れたところで、俺は俺でしかない』
『そうでしょうか。記憶を失い、姿が変わり、別の人生を歩むのです。それはもはや別人では? 私が、"前の私"で在れないように』
吸血鬼は死ねない。輪郭を再生できないほどに全てを忘れ灰になったところで、それは死ではない。魂はその場に残り続け、天の国に迎えられないまま地上を彷徨い、いつしか輪郭を求めて赤子の身体に入って生き直す。
俺はそれを、"別人になった"とは思えない。結局は同じ魂が別の身体で人生を繰り返しているだけなのだから。
しかし彼は別人だと言う。彼が、"前の彼"のことを何一つ覚えていないからかもしれない。
「エマ……お前も一度全てを忘れ、生まれ変わったのか」
だからもう、別人だというのか。
その姿も声も当時のままなのに。
いくら肉体を乗り換えたところで、その魂はエマでしかないというのに。
それをエマとして見るななど、到底無理な話だ。俺の中で、まだエマは過去じゃない。エマはまだ生きている。六百年前からずっと、この地上で。
何もかもを忘れて別人になったと言うなら、思い出させるだけだ。
首をもたげれば、そこには憎らしいほどの晴天。エマを追いたくとも日暮れまではここに足止めだ。鬼ごっこにしては随分と遅いスタートになるが、それでも彼を捕らえるには十分すぎる。
「……狩りは得意だぞエマ、お前に教わったのだからな」
日暮れと同時に教会を飛び出す。点々と伸びる迂闊な足跡は、彼が雪道に慣れていないことを雄弁に語っていた。
歩幅は徐々に狭くなり、途中からはほとんど摺り足。どうやら獲物は相当に疲れているらしい。これなら手負いの鹿より容易に捕まえられることだろう。なあ──
「エマ」
口角が上がる。木の影で小さくなった彼は、小動物のようで美味しそうだ。
肌に牙を突き立てその魂を味わえば、なるほど甘美な味がした。無理やり暴かれているにもかかわらず"好意の味"がするなんて、きっと彼は意識と無意識のギャップにさぞ苦しんでいることだろう。
だが、安心するといいエマ。すぐにそのギャップは無くなる。
とろりと開いた緑色を覗き込み、その魂に触れる。牙によって無意識を呼び起こされた彼の魂は、昨夜と違って俺を拒みはしなかった。
「"思い出せ"」
緑の瞳はぐわりと瞳孔を広げると血を溢したように赤色に移り変わり、
やがて、その焦点が俺を捉えた。
「──マグナス」
ああ! 同じ声なのに明らかに違う。これはまさしく、俺の求めていた彼だ。
赤の眼差しが懐かしくて、愛しくて。世界で一番柔らかく大切なものに触れる時の手つきで頬を撫でる。なあ、なあ聞いてくれエマ。俺もお前と同じになったんだ。これでずっと──。
しかしその手は愛しい彼によって払いのけられた。ぱしん、と軽い音が響いて、天を泳いでいた心が地面に叩き落とされる。
見れば、懐かしい赤の眼差しが責めるように細まっていく。憤りに似たその目は銃よりも剣よりも、深く、俺の心を裂いた。
「もっと早くに、お前を切り離すべきだった……っ」
どうして。
どうしてそんなことを言うんだ? お前は、ずっとそう思っていたのか?
俺が人間か否かにかかわらず、ずっと一緒にいる気など初めからなかったのか? だから俺を吸血鬼にしてくれなかったのか? だから、俺に本当の名前すら教えなかったのか?
ならば何故、愛しているなどと言った!
どうして……!
恨み言を吐き出したいのに、愛の言葉を囁きたいのに、身体中の水分が全て涙になったみたいに喉がからからに渇いて、何も口にできはしなかった。
生気を抜かれたみたいに全身から力が抜ける。重力に任せだらりと手を離すと、鈍い音を立ててエマは雪に沈んだ。
ああ、このままでは冷え切ってしまう。抱き起こしてやらないと。しかし俺の手は彼を抱き起こすことはなく、意に反してその細い首を絞めていた。
「どうして……」
怒りに支配された心は、彼の首から手を離せない。殺したいわけではなかった。ただ、俺を拒絶する口を閉じ、俺を否定する目を閉じてほしかった。愛しい男の標本なんて、手に入れたところで寂しいだけだと分かっているのに。
「……ごめんな、マグナス」
くしゃりと髪を乱される。その手つきは記憶の中の手のひらとは全く違っていて、それがまた寂しさを増していく。
けれど、訳もわからず俺を撫でるその手に幾分か心が救われたのもまた、事実だった。
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