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第3話

【鏡のような絵画】 「包丁……よし。ナイフも……こんだけあるなら一本くらいいいだろ」  武器になりそうなものを物色し、帰り支度を整える。この二日、マグナスの目を盗んでホルスターから抜かれた武器を探し回ったが、結局どこにもなかった。とはいえ森を抜けるのに丸腰では危険すぎるので、このくらいの泥棒は仕方のないものだ。  でも。 『今日の分を書いていない』  ふと、先ほどのマグナスの言葉を思い返す。  彼は日記だと言ったが、物置きにそれらしい物は無かった。代わりに彼が手に取ろうとしたのは、壁に立てかけられた梯子。そういえばリビングにいた時、彼は一度天井を見上げていた。  ……もし、武器があるのなら。こんな包丁なんかより絶対にそっちの方がいい。  忍び足で物置きに入り、長い梯子を引き摺り出す。フックの付いた梯子の先で天井を数度押せば、固定されていない木の板が──浮いた。  息を飲んで、一歩ずつ梯子を登り、そうして木の板をどかす。真っ暗な空間をランタンで照らすと、その異様な光景に俺は思わず息を漏らした。 「うわ……」  小さな机と椅子が一つ。それ以外の場所は全て、狂気を感じるような量の本と紙で覆われている。ここは、マグナスの秘密の屋根裏部屋だった。  この空間で唯一綺麗な机の上には、一冊の本。表紙には『マグナス・ルート・フェリア』と書かれている。好奇心に負けて中を開けば、それは件の日記だった。  押し花の栞が挟まれたページには、昨日の日付と共に綺麗な文字が刻まれている。 『エマが帰ってきた。これからは夢の中だけでなく目を覚ましても彼が隣にいるのだと思うと、今から明日の朝が楽しみだ。おはようと言って一緒に朝食を食べる、ずっと待ち望んだあの幸福な朝がこれからは日常になっていくのだろう。どうか、その日常が永久に続くことを願う。二度と無くならないことを、願う』  あまりにも切実でささやかな願いが綴られたそれを見て、躊躇う。本当にここを去っていいのかと。  他のページもぱらぱらと覗くが、その全てがエマに見せたいもの、エマとしたいこと、エマに会えなかったこと、そればかりが綴られていた。彼がどれだけエマというただ一人を愛し、求めていたのか、これを一冊読むだけで十分すぎるほどに伝わった。  見れば足元には同じように名前の書かれた本がいくつも置かれている。きっと全て日記だろう。六百年という月日の長さと彼のどうしようもない孤独が可視化されたようで、俺は……この部屋に入る前に持っていた逃げ出そうという決意を失いかけて、 「……いや、俺はエマじゃない。ロキ・ヴァレンティ……兄貴の、弟」  首にかけたドッグタグを見、唱えるようにそう呟いた。吸血鬼に魂を蝕まれた人間は、しばしば自分を見失う。そういう奴らを正気に戻すのに最も効果的なのが、名前を呼ぶことだった。もちろんそれで解決しないことも多いが、それでも俺は縋るようにドッグタグを握った。  ヴァレンティという姓が兄貴の顔を思い出させて、徐々に頭が冷えていく。  『エマへ』と書かれた便箋でパンパンになった引き出しを見ても『エマの好きな蝶』と掘られた鮮やかな標本を見ても、決心が揺らぐことはなく──部屋の一番奥でお目当ての武器を見つけると、もう用はないとばかりに立ち上がった。  その拍子に、何かに引っ掛かっていた布が──落ちた。  鏡だ。  一瞬そう錯覚して、すぐさま違和感に気付く。鏡の中の俺は動かない。指先で触れれば、鏡ではありえないざらりとした感触。 「絵、か……?」  絵の中の男は鏡と間違えるだけあって俺そっくりだった。でも、よく見ると微妙に違う。黒いカソックと白いストラを身に付けたそいつは、標本の中にいたのと同じ蝶を指先に止めて……赤い目で、笑っている。  あいつと、同じ。 「──こんなところにいたのか」  振り返ったそこにはちょうど思い浮かべた、赤色。 「……マ、グナス」  背筋が凍る。頭が警報音を最大にして早く逃げろと訴えるが、あいにく唯一の逃げ場は男の向こう側だ。 「目が覚めて、お前がいなかったから探しにきたんだ」  マグナスが一歩こちらに踏み寄って、俺は反対に一歩後退する。 「そういえば台所から包丁が一本無くなっていてな」  また一歩。彼が近付いて、俺が下がる。しかしそう広くない部屋だ。俺はあっという間に壁に背を付いて、あとは彼が歩み寄るだけとなった。 「なあエマ。何か知らないか?」  マグナスの長い腕が、握り込んだ銃ごと俺の手を絡めとる。壁に押さえ付けられた俺は、さっき見つけた標本の蝶より無力だった。 「俺に何か、言うことがあるだろう?」 「包丁は、返す」 「……はぁ」  苛立ったため息を吐いて、そいつは俺の耳を喰むように言った。 「すぐに謝れば許してやったものを」  視界が揺れ、目の前には床。打ちつけた額が痛い。背中に乗り上げた男は俺の手足を固く縛ると、髪を掴んで無理やり身体を起こす。そうして縄の先を背後の柱に何重にも何重にも括り付けて、やがてくつくつと空間を震わせた。  銃は既に取られた。腰に差していた短剣と包丁も、見せつけるみたいにゆっくりと奪い去られていく。 「かつて。お前がここに縛り付けられていたのを見た時、あの時はなんて酷いことをと思ったが……」  包丁の冷たい側面が肌を撫で、脈動の上でぴたりと止まる。そこを二、三ぺちぺち叩かれると、それだけで足が竦んだ。 「……どこにも行かない、何も言わないお前は、標本のようでさぞ美しいのだろう」 「……いやだ」  死にたくない。  恐怖で頭も口も回らない。頭に浮かぶのはその言葉だけで、俺はろくな命乞い一つできない。 「ゃ、だ……あにき……っ、あにき……」  この世で唯一の安全地帯の名を呼べば、首に鋭い痛みが走った。 「エマに兄なんていない!」  感情的な大声が、俺の思考を凍らせていく。 「聞いていれば兄貴兄貴と……家族ごっこがそんなに楽しいか?」 「なに、言って……」 「もういい。何も喋るな」 「マグ」 「喋るな」  切り裂かれた首筋に親指を捩じ込まれ悲鳴を上げるが、マグナスはやめてくれない。ただ、冷たい目で俺を見下ろすだけだ。 「エマはそんな怯えた声を出さない」 「ッ、ふ、ぅ、……っ、……」 「それでいい」  唇を噛みようやく悲鳴を殺すと、言葉を失ったほとんど動物同然の俺の頭を温かい手のひらが優しく撫でた。手のひらはやがて頬を滑り、顎を捉える。  痛くない。気持ち、いい。ずっとこっちが、いい。  犬の躾に似たそれが、俺の身体がとっくに調教済みであることを思い出させていく。恐怖と快楽を交互に与えられた俺は、いつもみたいに思考を放棄して笑みを浮かべた。  目の前の男も、歪に笑っていた。 「……エマ。俺の目を見れるな?」  こくりと頷き赤の双眼を見つめた途端──視界がブラックアウトした。  水の音が、する。  ふわり、ふわり。目の前で銀髪が揺れている。指先で髪の先を弄べば、「こら」と諌められた。俺はこの時間を、この男を、いたく気に入っていた気がする。  司教の愚痴を溢せば「そりゃあいい」と笑い、脚の間を繋ぐ鎖が火傷跡に擦れて痒いと脚をかけば「外してやる」と。俺をただ人のように甘やかすこの男のことが、好きだった。自由になった脚をぱたぱたと無意味に揺らせば、男はぽつりと呟いた。 「なあエマニュエル、このまま逃げてみないか?」  耳慣れない名前だが、俺は自然と振り返った。紺碧の瞳と目が合って、その真剣さに戸惑う。逃げるって、どこへ。どうして。俺には分からなかったけれど、"夢の中の俺"は男の言葉を理解していたようだった。 「……民が、困るだろう」 「いつもそれだな。たまには困らせてやればいい。エマニュエルはどうしたい?」 「……お前と一緒に、いきたい」 「決まりだ」  青年は膝を打って立ち上がると、俺へと手を差し伸べた。その手を取って──どうなったんだっけ。 「──いけませんよエマニュエル様、ただ一人に入れ込んでは」 「ぅ、あ…………」  血に塗れた銀髪。剣で貫かれ、腕の中で冷たくなっていく身体。抱き起こしても呼び起こしても決して開かない瞳。ああ、これは、死だ。彼は、殺されたのだ。 「っ、あぁ……ッ、いやだ、待って、逝くな……」  自身の腕を噛みちぎり、開いたままの薄い唇に口付ける。互いの唇を赤い糸が繋いで、途切れた。  次の瞬間には、"私"は温かな腕の中にいた。抱きしめた冷たい亡骸と同じ姿をした男の、腕の中に。  彼は私と同じになったのだ。これで彼が天に連れて行かれることはない。安堵と同時に、しかし私はひどい後悔に襲われた。 「不死は不可能だとおっしゃっていたではありませんか」 「できたのですか?」 「ならば、今までに死んでいった者たちのことは何故救ってくださらなかったのですか?」 「あなた様がいない間に死んだ者もいるというのに」  頭上から降り注ぐ司教の空色の瞳には、失望と、落胆と、そして。 「ああ、慈悲深き神よ。我らを愛おしく思うのならば、我らのことも不死にしてくださいますよね?」  不死をねだる歪んだ情念を、孕んでいた。 「──っ、は、ぁッ……ぁ……、」  目を開けると、銀髪の男も司教もいなかった。いるのは俺とよく似た、絵の中の男だけ。 「なんだ、今の夢……いつもと違う……?」  人を撫でるだけの、永久に感じられるほどに退屈なそれとは違う。血に濡れた銀髪を見た途端、心臓を焼かれたような痛みが走った。まるで、実際に俺の身に起こった出来事かのように。  この夢は一体何だ。  何か知っていそうなマグナスもここにはいない。いたとして、俺が口を開くのを良しとしないだろう。 「つーか腕、痛ぇ……」  ぐっしょりとかいた汗を拭おうとして、縛られていたことを思い出した。きつく縛られた手首が、じんじんと痛む。しかしその腕の痛みだけが、俺を奇妙な夢から現実へと引き戻した。  夢は、所詮夢だ。  俺には関係ない。  自由な指を袖の中に突っ込んで、盗んだナイフを取り出す。綺麗に磨かれたナイフは鋭く、時間をかければ縄はどうにか切れた。他の武器は取り上げられてしまったが、もう丸腰がどうのと言ってられる余裕はなかった。  屋根裏の入り口を塞ぐ板をそっとずらすと、リビングの窓から光が差しているのが見える。目視の範囲にマグナスもいない。  最高のタイミングだった。  一度深呼吸して心臓を落ち着かせ──勢いよく飛び降り、駆ける。 「っ、エマ⁉︎」 「やべっ」  視界の端にマグナスを捉えたが、もう俺は振り返りも止まりもしなかった。  リビングから礼拝堂へ駆け抜け、玄関の扉に向かって一直線。錆び付いた重い扉を無理やり引っ張れば、俺は光の世界へと転がり出た。 「待てエマ! 外は……っ!」 「っ! は、ぁ……は……っはは!」  緊張の糸が切れて、手が震える。背後を振り返れば、そこには伸ばした指先が灰になったマグナスが立っていた。  信じられないものでも見るかような目を向けるそいつに、俺はつい、興奮のままにあるいは勝利を掲げるみたいに、声を上げた。 「人違いで監禁すんなバーーーカ!」  南へ、南へと、コンパスを頼りに走り続けて、気付けば日が沈んでいた。  走り続けた脚は震え、荒い息を吐く喉はからからに乾燥している。吐きそうになりながらも足を前へと運ぶが、次第にその進みも遅くなっていく。固い石畳に慣れた俺の足にはこの森はひどく走りにくくて、雪にとられた足は、もう、上がらない。  木に寄りかかるように座り込むと、汗が冷えたせいか肌寒さに気付く。そういえば昨日切り付けられた首も……痛い。鬱蒼とした森の中は墨を落としたように真っ暗で、不安ばかりを掻き立てた。  このまま誰にも気付かれずにひっそり死ぬんじゃないか、とか。 「──エマ」  どくりと心臓が跳ねた。  見上げれば真っ暗な森の中で、赤色が二つ光っている。我ながら本当に馬鹿だと思うが人の声がしたことにほんの一瞬、安心した。たとえそれが、吸血鬼のものなのだとしても。 「迂闊で可愛いな。足跡が残っていたぞ」  けれど長い腕が俺の胸ぐらを掴んだ途端昨日の恐怖を思い出し、反射的に、その手にナイフを突き立てた。 「……エマ、俺にも痛覚はあるんだぞ」 「しつけえ! 何度も言わせんな、人違いだ! 俺はエマじゃない!」 「すぐに分かる」  炎の赤が、近付く。  目を見たら楽になれることは分かっていた。でも俺は……固く目を瞑って、縋るようにナイフを握りしめた。これから与えられるであろう痛みに、耐えるために。 「ッ! ……ぃ、う゛ぁ゛ッ、ぁ……ゃ……っあ、ぁ……」  与えられたのが、痛みならよかった。  首筋に走ったのは果てしない甘怠さで、理性がとろとろに溶かされていく。目を瞑っているせいか吐息の温かさと首筋を舐める舌の感触が、やけにねっとりと肌に残る。背中を駆け上がっていく訳のわからない快楽を押し留める方法を俺は知らず、子どものように身体を震わせることしかできない。  怖い。もっとして欲しい。嫌だ。もっと、その牙で撫でて欲しい。やめろ。  頭ではこいつを拒絶しているのに身体はすっかりマグナスの牙を受け入れていて、無意識に首がのけ反る。 「気持ち良さそうだ」  マグナスの掠れた笑い声が耳の奥に響くと、いよいよ俺の理性は溶け切った。気持ち、良い。そう自覚した途端、かくんと力が抜ける。 「っ、ア、……ぁあっ、は……ッ、?」 「エマ。俺を受け入れてくれるだろう?」  回らない頭で頷けば、耳のすぐ隣でくつくつと喉が鳴った。 「目を開けろ」  頭がぼうっとして、目の前の男の言葉に抗えない。言われるがままに開いた視界が、徐々に赤で埋め尽くされていく。 「"思い出せ"」  意識が、水底に沈む。水の音が頭の中を満たすようなそれは、夢を見ている感覚に近い。 『大丈夫……?』  微睡の中、黒い髪の少年が俺の頬をさすった。 『今解いてあげるから』  ぶつりと何かが切れる音がして下を向けば、視界の端には細いナイフとちぎれた太い縄。 『ねぇお兄さん、名前はなんて言うの?』  俺は、お、れは……。私は……。 『……え、エマ』 『エマ、さん……ここは寒いよ。下には暖炉もベッドもある。そっちに行こう』  小さな手に引かれ、屋根裏を出る。ぱちりと火の粉を飛ばす暖炉が、やけに眩しい。 『エマ』  振り返れば少年は青年になっていて、私を呼ぶ声も随分と低くなっていた。しかし私を見つめる柔らかな翠色の瞳だけはそのままで、きっとこの瞳だけは何年経っても変わらないと、そう、思っていた。  ふ、と目の前の男を見据える。愛しい彼に似た、赤い目の男を。 「──マグナス」 「……ああ、ああ! おかえり、俺のエマ……! なあ聞いてくれ。俺も吸血鬼に、」  慈しむみたいに頬を撫でる男の手を、払いのける。動揺したように下がった眉は青年の面影を感じさせ、それが余計に喉の奥を焦がした。  どうして、どうしてなんだマグナス。お前は、  人間だったろう。  太陽の光が、よく似合う子だった。ずっと、そのままでいてほしかった。いるはず、だった。なのに結果はこれだ。 「もっと早くに、お前を切り離すべきだった……っ」  目の前の赤色が大きく見開かれる。唇を震わせるも何も発することのできないその男は、私から手を離すとよろよろと後ずさった。  視線が逸れた途端、再び意識が歪んだ。ぐらりと脳が揺れて倒れ込むと、冷たい雪が頬を凍らせた。冷え切った頬の上に、ぱたりと生温い液体が滴る。  視線を天へと持ち上げれば、二つの赤い星から塩気の多い雨粒が降り注いでいた。ぽたぽたと雫を溢す目の前の男は、迷子の子どものような顔で俺を見下ろしている。  男の両手が、躊躇いがちに俺の首を囲む。嘘みたいに力の失せた手のひらは、終ぞその首を締めることはなかった。ただ手を組んだだけのそれは、祈りのようにも見える。  やがて頭の重さに耐えかねたかのように俺の胸へと崩れ落ちた男は、飲み込みきれなかったみたいに声を震わせた。 「どうして……」  今にも消えてしまいそうな声だ。「どうして」の先は聞こえなかった。聞こえたとして、彼が求める答えを返すことはできないのだろう。俺はエマじゃないのだから。  そうだ。俺はエマじゃ、ない。ない、のに。意識が、記憶が、混ざる。脳みそを無理やりかき混ぜられたみたいに。  しかし混ざった記憶は曖昧で、掴み取ろうとしても意識に上る前に消えていく。掴んだ手のひらの中に記憶はなく、ただ漠然とした愛しさと後悔だけがあるだけ。  手に残る愛しさのままに彼の頭をゆっくりと撫でれば、彼はびくりと身体を震わせた後、小さく嗚咽を漏らした。 「……ごめんな、マグナス」  自分が何に謝っているのか、分からない。分からないけれど、ずっと、ずっと彼にこれを言いたかった気がする。 「ごめん」  胸元が涙で濡れていく。マグナスはそれきり何も言わなかったが、不規則に震える呼吸と鼻を啜る音が彼の心を雄弁に語っていた。  あれほど恐ろしいと思った吸血鬼は、この場にはもういない。いるのはただの、弱りきった一人の男だけだった。

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