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【釈迦】

(1)  七月の終わりに母が連れてきたのが、マサヤだった。  すべりの悪い玄関の引き戸の、最後のひと押しをクロックスを履いた足で開け放つ姿は、どう見ても輩でしかなかった。それでも元来の気の弱さが窺えたのは、おもいのほか戸が大きな音を立ててしまったことと、玄関から直線上にある居間で寝転びながらポテトチップスを食べるシンヤの唖然とした顔を見て、ばつの悪い表情を浮かべたせいだ。 「おかあさん、いる?」  泥棒めいた忍び足で堂々と上がってきた男からは、キンカンの虫刺されぐすりの匂いと、シーブリーズの匂いがした。首を振ると、困ったなあと頭を掻く。黒いマニキュアを塗った短い爪が、虫のように蠢く。ウェーブのかかった髪はグリースでセットされていて、微細な埃を吸着していた。きっとその埃は、皆口家の玄関から居間を通るまでにまぶされた。掃除などろくすっぽしていない。おそらく、何年も。 「聞いてる? おれのこと」  首を振る。扇風機もシンヤと一緒になって首を振り続ける。時折がたつく音をさせるのは、ボロだから。一番右に首が向くと、三度、ガガガとガタつくのだ。男は何度かそれを見ながら、頼りなく畳の上に座った。ほのかに汗の匂いが立つ。干潟のような匂いと、扇風機の音と、ジーワジーワと鳴く蝉が炎夏を忘れさせてくれない。 「だれ」  シンヤがようやくそれだけを言うと、男は柄シャツの胸ポケットからラッキーストライクを取り出して、薄い唇にくわえた。ハーフパンツのポケットをごそごそとまさぐり、舌打ちをする。煙草は裸のままテーブルの上に置かれた。シンヤはそれを目で追う。唇に触れた箇所がテーブルの上で転がる軌跡を、ただ目で追った。 「おかあさんの、お友達。これからここで住まわせてもらうことになったんだけど、聞いてる?」  しばし、蝉の唄だけが流れる。煙草に注いでいた目線を、数秒かけてゆっくりと男に戻す。母親より若く見える。三十代前半といったところか。 「しらない」 「そっか、まだ絢音ちゃん、俺のこと言ってなかったのか」  アヤネチャン、という響きにシンヤは笑い出しそうになった。絢音は、母の源氏名だ。本名は皆口豊子という。母は、自身の名前を心底嫌っている。歴代の恋人やオトモダチ、いまは疎遠になっている友達たちにすら源氏名で呼ぶことを強要しているほどだった。その徹底ぶりは執念すら窺える。  そしてまたシンヤも、母のことを〝絢音さん〟と呼ぶことを懇願されている。同じだ。マサヤとシンヤは土俵が同じなのだ。〝子ども〟である自分と、どこの馬の骨かもしれぬ怪しい男は。 「俺ね、マサヤっていうの。北浦真也」  男の唇は遠慮がちな弧を描いた。シンヤにはその名が、冥府からやってきた悪鬼の名に聞こえた。 「ずっと東京で住んでたんだけどね、たまたま観光でこっち来てさ、そんとき絢音ちゃんに出会って、海辺の街っていいなーって言ったら、おいでよって。子どもがいるなんて聞いてなかったからびっくりだけど、でも俺、子ども好きだからさ」  マサヤは一息でそう言うと、疲れ切ったように表情も声も無くした。ふいに、ブレーカーが落ちたみたいにして急に、突然たましいが消えた。その様子がただ事じゃなくて、シンヤは無表情のマサヤを見上げたままどくどくと鳴る心音ばかりを聞いていた。  マサヤはしきりに額を拭う。汗がこみかみを濡らして、きらきらと光っている。 「オレ、子どもっていう歳じゃないよ……」  ごくん、と隆起のない喉仏を上下させてシンヤはそう答える。虚無の闇をたたえたマサヤに届いているとは思えなかった。齢十五でも、大人からすれば十分に〝子ども〟だ。〝子ども〟という範疇は、個人に委ねられるのだと聡明なシンヤは知っている。 「俺、子ども、好きだからさ」  熱っぽく乾いた声が平坦な響きを持って繰り返される。そのうつろな瞳が、うつ伏せに寝転んだままのシンヤのふとももに注がれていることに気が付いたとき、ようやくシンヤは体を起こした。  夕立が迫っている。 夏の木立が不穏にざわめく。

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