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   *   *   * 「真也と真也、マサヤとシンヤ。すっごい偶然でしょ? おなじ漢字でも、読み方が違うなんてねえ。名前って本当に不思議。すっごい、偶然!」  その日の夕飯時、絢音はディスカウントショップの発泡酒を片手に上機嫌で声を張り上げていた。  絢音のどろんとした、いやに大きな黒目がシンヤには深淵に見えた。爛々としたねばつく輝きを帯びているのは酩酊のせいだけではないだろう。  ちゃぶ台の上には油の染みたコロッケと、ゴムみたいな感触の鶏皮串がパックのまま広げられている。どちらもポリエチレン製のパックなので、電子レンジの熱に耐えられずぐにゃりと歪んでしまっている。ひずんだ面から、焼き鳥のたれが糸を引いてテーブルを汚していた。奇しくもそれは、夕立前にテーブルを汚した、ラッキーストライクのフィルターがこすれた箇所だった。 「ねぇ、シン。マサヤくんかっこいいでしょ! 東京にいた頃はホストしてたんだってぇ。ナンバーワンになったこともあったんだってぇ。すごいよねぇ。どお。仲良くやれそ?」  絢音の唇が油でぎらついている。声には覇気があるが、まぶたはとろんと眠そうに落ちている。精神薬が効いている。きっとこのあと、気絶したように眠るのだ。  シンヤは黙り込み、マサヤはなにも考えていないふうに立て膝で煙草の煙を宙に吹き付けている。  網戸の隙間から入り込んだ蚊が、高い音を立てながら耳周りを飛んでいる。せめてマサヤの吐く煙が蚊取り効果を生んでくれたのなら良かったのに。 「いいなぁ、東京。絢音も東京で暮らしたいなぁ」  沈黙も相槌もすべて気にならないのか、絢音は上目遣いで小首を傾げる。少女めいた容姿が際立つ仕草だ。 「そんなにいいところじゃないよ。人は多いしさ、いろんな人間がいるし。路地裏は臭いし。店長も同僚もクソだったし。なんだかこころが休まる時がないっていうかさ。ま、もう終わったことだけどね」  マサヤのテノールに、絢音は憧憬を夢見て瞳を細める。恋する少女の顔だ。つけまつげも、グリッターも、筆とアイシャドウで生み出された涙袋も、本来の皆口豊子とはかけ離れた人間に押し上げている。  時折シンヤは母が分からなくなる。他人のような感覚が、ずっと、している。    絢音は十七歳のころから醜形恐怖症になり、永遠に終わらない整形手術を繰り返している。過去の写真もすべて葬り去っているため、豊子は名前とともに確実に過去の自分と決別しているのだと思う。太ることにも怯え、飲酒とともに好きなものを食べ、そして風呂場やトイレで吐き戻すのだ。お陰で、安普請のアパートには住めない。何度も配管を詰まらせてトラブルになったので、いまは古くて安い借家で暮らしている。利点は、風呂場の排水溝にトラップがなく、直接配水管と繋がっている点だ。絢音が吐き戻したものが詰まりにくい。とはいえ、全く詰まらないということはないし、なにより配水管のにおいが風呂場に充満するのだ。吐き場所に困った絢音は悩み、やがて突飛な解決策を思いつく。  どこで吐き始めたのかと言うと、家屋横の用水路だ。  そこそこの幅があり流れも比較的早いので、絢音は夜毎その用水路で吐き続けている。裏庭の、アベリアの垣根のすぐ向こうが用水路になっているのだが、なぜか絢音は頭を垣根に突っ込むようにして吐く悪癖がある。夜中にその姿を目撃すると、まるで垣根から人間の首から下が生えているように見えて肝が冷える。そよそよと流れる水音と、苦しげなうめき声と、外灯もない夜闇の中でもほのかに発光して見えるアベリアの白い小花と、そして絢音が着ている純白のネグリジェがほの白く闇に浮かぶさまは、いつ見ても異様であった。  それでも、寝間着ひとつでもお姫様のような格好をしている絢音が、汚い嘔吐きとともに腹を丸めている姿は、普段見ている母よりずっと人間めいていて、シンヤはひそかに安心する。  母が悩めるかよわい人間なのだと知って、安心する。  自分が弱いのは、母が弱いからだなのだと知って、安心して眠ることができる。  夜な夜なくれ縁を通って真夜中の裏庭を覗くのは、弱い母の姿を精神安定剤にして眠るためだった。 『お天道が見ているよ』  これは、絢音の口癖のひとつ。菓子を食べたあと、畳に指をなすりつけて拭いた時も、授業参観のプリントを見付からないように庭に埋めた時も、蟻の巣にサラダ油を流し入れた時も、絢音は鋭くそう言い聞かせた。  けれど、絢音は嘘つきだ。お天道さまが本当に見ているのならば、生け垣に穴を開けて野外に嘔吐する絢音を罰するはずだし、シンヤに地獄を見せた人間たちにもすべからず天罰を下すはずだ。現に、蟻の巣を崩壊させて何十匹といのちを殺めたシンヤはこうして今も生きている。栄養が足りなくても、生きている。  ろくな育てられ方はしていないとシンヤ自身も感じているが、絢音のことは嫌いではなかった。  食事は惣菜や出来合いのものばかりだが不自由なく与えてくれるし、おやつだってねだればすぐに買ってくれる。食事代わりに菓子ばかり食べても文句は言われないし、ゲームを明け方まで遊んでいても何も言われない。なにせ、母は夜の仕事を中心にしているし、休日であれば薬で昏々と眠っているのだ。  幼子のように大きなクマのぬいぐるみを抱いて、フリルやレースがあしらわれたネグリジェを着て死体のように眠る絢音。風呂上がりには決まって、腹に走る帝王切開の痕にリキッドファンデーションを塗り込む絢音。朝起きれば、よれたファンデーションの痕にパウダーを叩く絢音。  母のことは嫌いではない。むしろ好きだ。  少女のような母。醜形恐怖症で、美しくあらんと病的なまでに目を血走らせる母。帝王切開の痕を忌々しく思っている母。数ヶ月に一度、違う恋人を〝今までで一番素敵な人〟と称して屈託なく紹介してくる母。ソープやデリヘルで消毒液や泡にやられて手荒れがひどい母。  アベリアの生け垣に頭を突き入れる母。  絢音は愛おしい。泣きたくなるほどに。

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