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   *   *   * 「じゃ、行ってくるね。マサヤくん、シンヤのことお願いね」 「うん。気を付けてね。行ってらっしゃい」  切れかけの裸電球がぶら下がる玄関で、シンヤはマサヤとともに絢音を見送った。  初対面のふたりを残して仕事に出かけることに、絢音はいっさいの遠慮を見せなかった。おそらく、そういった機微に病的なまでに疎いのだ。取り残されたふたりがどのような夜を過ごすのか、絢音の頭のなかには想像のかけらすら発生しない。もとより、我が子と同じ名を有する、明らかに真っ当ではない男を簡単に居候させてしまう人なのだ。  あいかわらず引き戸は重く、最終的にはマサヤが苦心して締め切った。ビシャンという大きな音が、据わりの悪い余韻をもってマツムシやキリギリスらの合唱をかき消した。わずかに合唱のボリュームは絞られるも、当然のように消えてはくれない。くれ縁を翳らせる木製の雨戸から、それらは無遠慮に染みこんでくるのだ。  川上から生臭い藻と饐えた臭いが漂う。焚いた蚊取り線香のにおいが拮抗する。  午後八時から、絢音は働きに出かける。ソープランドで働く日は比較的帰りが早いが、デリヘルを選択した日は帰宅が遅い。風営法で店舗は深夜十二時には閉店しなければならないが、デリヘルには閉店時間など無い。絢音の気分ひとつで朝帰りすることもある。  今夜はソープの日だ。シンヤははじめて、絢音が泡姫になるかデリヘル嬢になるかひやひやする羽目になった。  玄関扉を閉め切ったマサヤは、取っ手に手をかけたまま微動だにしない。生ぬるい夏の夜風が、庭から湿ったく縁側を抜けてやってくる。焚いた線香のにおいを想像してしまう。仏間はあるが、仏壇はない。完全にシンヤの心理状態が線香のまぼろしを嗅いだにすぎない。香るとすれば、やはり藻か、蚊取り線香のにおいか。  ――――りり、りりりぃ、りり――――  エンマコオロギの鳴き声が突き抜ける。ちかちか、電球が瞬く。  ゆっくりと振り返るマサヤの両目は、昼間に見たときとおなじ、真っ黒い眼をしていた。どこまでも続く闇を煮詰めた、タールの瞳だった。取っ手にかけられた指が力を失い、だらんと垂れ下がる。明滅する暖色のひかりが、蝋のような皮膚を照らし出す。  シンヤは震えだしそうな足を叱咤して、半歩後ずさる。そのぶんだけ、マサヤが振り返る。半歩下がる。マサヤが完全にこちらを向く。半歩下がる。マサヤの視線が持ち上がる。目が合う。闇の瞳がこちらを見ている。  次の瞬間、弾かれたようにしてシンヤは走り出した。縁側をどたどたと駆けて仏間前を通り抜けると、急勾配の階段を昇る。両手を使い、がむしゃらに駆け昇る。  が、足首を熱い手で掴まれて膝を派手に段差にぶつけてしまった。  もみ合い、転び落ちながら階段の半ばから一気に一階まで引きずり落とされた。きっと、捻挫をしている。足の広範囲を擦り、頭を打った。もんどり打つことも許されないまま、獣みたいな息を吐くマサヤに両肩を押さえつけられる。黒い爪が、音を立てながら肩口に食い込む。 「ィ、……ッ!」  痛い、という声は背中を強打したために言葉にならなかった。ずくんずくんと脈打つ側頭部のせいで気が遠くなりそうだ。いや、そう感じたとおり、意識が遠のいていく。どこか違う場所、宇宙にでも飛ばされてしまった感覚。  ああ、〝ここ〟で殺されるのか――――。  なにか喚いたけれど、きっと意味のない叫びだった。歪な、白くぬめぬめした線で描かれた曼荼羅が頭のなかで弾たような気がする。  正気を取り戻したとき――――、マサヤは血を流していた。 「あ……?」  殺される、という爆発的な不安を押しのけてやってきたのは、胸のとろ甘いざわつきだった。  突然の激痛と衝撃に、マサヤは正気の瞳に戻っていた。握りつぶすほどの力で押さえつけていた肩を離して、自身の右耳のあたりをまさぐった。ぬるりとしたなまあたたかい血が手のひらをべったりと濡らしている。夏風にそよぐ葉の匂いと、除虫菊の匂いと、錆び鉄の臭いがもったりとした夜気に濃縮されて、澱のようにシンヤに降り注いだ。  まるで血液のスードームだ。きっと、血漿や赤血球などがいま微細に降り注いでいる。 「血……? 血?」  うわごとのようにそればかりを呟くテノールは、耳触りとは不釣り合いに幼く震えていた。  シンヤは呆然としたまま、同じく呆然と目を見開くマサヤの顔を見上げる。  右手でたぐり寄せた、階段脇に置いてあった懐中電灯でがむしゃらに頭を殴りつけた事実に、怖ろしいほど興奮していた。  この瞬間に、きっと運命は決定したのだと、いまは思う。  そもそも、名からして、運命が生じていないわけがない。  不安に揺れ動く黒目が、しばらく遊泳したのちにしっかりとシンヤを見下ろした。垂れ落ちた血液がシンヤの頬を打ち、耳のほうに流れ込んでくるのがこそばゆくて、背筋が粟立った。その筋肉の収縮、痙攣をどう捉えたのか、こちらを覗き込んでくる目がもう一度まん丸になる。  お互いになにかを言うわけでもなく、ただ目と目だけを射貫きあう。コオロギの澄んだ鳴き声に交じって低く鳴るギチギチギチギチという音は、クツワムシか。映写機みたいな音を鳴らすものだと場違いなことを考えながら、次第にぼうっとしていく頭で傷口のことを思う。縫わなくても大丈夫なのかと、自分は傷害罪に問われるのかと。  伸ばした手に、マサヤはびくっと身を遠ざけた。体格だって腕力だってずっと格上のくせに、やはり突然痛みをもたらされた相手には怯えるのか。  左肩の横に突いたマサヤの右手を撫でて、空いた手を更に伸ばす。血に濡れそぼるウェーブに触れる。グリースで固まった髪とは違う、濡れた毛の感触。懐かしくなって、どうしてこんなに懐かしいのかと記憶をまさぐればその先に、学校帰りに食パンをやっていた野良犬の姿があった。雨に濡れそぼったときの犬は、たしかこんな感触がしていた。あの犬は結局、近くに住む老夫婦が保護して飼ったのだったか。あれだけシンヤに懐いていたのに、塀の前で様子を盗み見をしたとき、犬はもはやシンヤの匂いなど覚えてはいなかった。ごわごわの毛がさらさらと夕風になびいていて、シンヤの方こそ帰る場所を知らぬ野良犬の気分を味わったのだ。  疼痛を伴う思い出に浸りながら濡れた髪を撫でれば、わずかな動作の風圧で鉄の香りが強まった。  頭部は出血しやすいとは言うが、それにしても。  ――――病院。  乾ききった声帯はもつれ、かすれたちいさな声にしかならない。それでも、言わなければならない。 「連れて、いこうか」  町外れに、〝やぶ〟だと有名な個人病院があったはずだ。見立ては悪いが、縫合くらいはさすがに出来るだろう。怪我をさせてしまった手前、正直にいうと病院に案内するのはかなり怖い。事情を説明すれば警察を呼ばれるに違いないだろう。  マサヤが細い息を吐く。 「寝るか」  まるで何事もなかったかのような言い方に、シンヤは戸惑いながらも頷いた。呻きながら身を起こしたマサヤは、シャツを脱いで丸めると傷口に宛がった。思ったよりも傷が深くなくてよかった。自身の未発達な筋肉と、脆弱な力にいかほど安堵したか。  同じように身を起こして、今更バクバクと激しくなる鼓動を抑えながら、暗い廊下を歩く。目の前を行くすらりとした筋肉質な背中には、彫り途中の梵字の入れ墨が見えた。はっと足を止めて息を呑んだ。闇に目が慣れているとはいえ、月明かりのみの廊下をぎしぎしと歩きながら見るその入れ墨は、まるで呪符を突きつけられているかのような錯覚を与えてくる。  何かしらの思想や決意を込めて体に刻み込むものだろうに、志なかばでこんな田舎町に身一つで転がり込む理由は。  そして、流血するほどの頭の怪我を放置して、治療や警察や法への訴えをちらつかせない理由は。  もしかしたらマサヤは、警察や病院に関わることができない事情があるのかもしれない。  べたつく足裏が、傷んだ板間に吸い付いて歩みを止めさせる。  湾曲する夏虫の声、果てなく続く湿った木の縁側。青草が伸びきった庭と飛び石。幽霊みたいなカラスウリの白い花。ぼんやりとした肌色。しおれた夕顔。月光でほの白く浮かぶ障子。  マサヤが振り返ったけれど、その瞳孔はやはり、真っ黒に淀んでいた。

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