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「転んじゃったんだよねえ。電球が切れてっから、階段のところさぁ」  その口ぶりはまるで名役者だった。  やってきた初日はもうすこし大人しい格好をしていたはずなのだが、黒いタンクトップの上に羽織った緋色の柄シャツのボタンをすべて開放している姿は一層、ろくでなしの輩に見える。生ぬるく光るゴールドのネックレスが俗物度をひたむきに高めていた。 「だから階段の下に懐中電灯を置いてたじゃんねぇ。あーあ、あちゃぁ、あー、痛そう」  絢音はうわずった声を出しながら古めかしい救急箱を取り出して、消毒液をぞんざいに振りかける。瞬間、マサヤの悲鳴が上がった。 「あっ、ちょっと、暴れないでよぉ」  楽しそうにきゃらきゃらと笑う絢音は、身を乗り出してティッシュペーパーで傷口を押さえる。滴った消毒液がマサヤのこめかみを伝い、顎から垂れ落ちる。そのしずくは、短い丈のワンピースを着た絢音の白いふとももを濡らす。痩せこけた、肉の削げたふとももが夏日の日光を浴びて不健康に光っていた。    今朝、一睡もできなかったシンヤをよそに、マサヤは昨夜の事件のことなど何ひとつ知らないと言いたげな顔で「おはよ」と声をかけてきた。眠そうな半目は、しかしぎらぎらと妖しい煌めきと水気を帯びていて、昨夜の延長線上の朝なのだということをいやでも知らしめてきた。あまつさえ頭に手まで置くものだから驚いてしまう。 「傷……」  消え入りそうな声で側頭部に目をやると、こともなげに顎を撫でてへらりと笑った。 「あれな、階段から落ちるのなんて初めてだからびびったわ」 「え……?」 「階段から落ちると、いてぇなあ。シンヤも気を付けよーな」  〝落ちた〟ということをやたらに強調して、マサヤは唇だけで笑った。覗いた犬歯が動物を思わせて、シンヤは口を噤んだ。  シンヤの罪悪感を減らそうとしてそう言ってくれたのかと思ったが、どうやらそれは思い違いのようだ。きっと、マサヤは〝禁断の秘密〟を鎹にしたがっている。弱みを握るのとは違う、もっと熱くてどろどろとした、秘密の共有の強要だ。    シンヤの足の怪我は大したことはなかった。てっきり腫れ上がるほどの捻挫かと思っていたのに、一晩寝れば痛みは引いていた。擦り傷も皮膚が白く毛羽立っただけで、わずかに血が滲んだ程度。頭はさすがにたんこぶが出来ていたが、触られない限り隆起には気付かれないだろう。余計な心配をかけずに済んだという思いと、もっと派手な怪我をしていればマサヤのように手当をしてもらえたのかという女々しい嫉妬を憶える。  油蝉の大絶叫と、室内であっても目が眩んでしまうような夏の光、風鈴の澄んだ音、楽しそうな絢音の上気した顔、俯いて足の爪の伸び具合を観察するマサヤの、捉えどころのない髪の造作――――、そのすべてがシンヤをのけ者にしようとしているような疎外感を覚えて、忍び足で庭に出た。足を下ろした飛び石は驚くほど熱くて、すぐに絢音が履き古しているキャラクターものの健康サンダルをひっつかんで履いた。  蟻の行列が炎昼でもうごうごと歪な列を成している。庭水道の脇で黒い小山ができていたので何かと思えば、ひからびたミミズの死骸に蟻たちが群がっていた。どこを食べるのか不思議なほどに死骸は乾ききっているのだが、頭だか尻尾の部分がちょうどムクゲの陰が落ちる部分に重なっていて、そこだけがわずかに湿っていた。  しゃがみ込んで死骸を持ち上げると、胴体に噛み付いていた蟻が数匹、一緒くたに持ち上がった。  埋葬しなければならない。シャベルを持って、コンクリブロックで仕切られた花壇に茂るパセリの根元を掘り、ミミズの死骸を丁寧に埋めた。パセリの白い花が供花のように揺れる。花言葉は思い出せないが、たしか不吉なものだったはずだ。花図鑑をよく眺めているのでぼんやりとした記憶が蘇りそうになるが、思い出す前に散り散りになり何を思い出そうとしていたのかも忘れてしまった。間延びしたパセリは、借家の前住人の置き土産ではなく、絢音が植えたものだ。シンヤに持たせる弁当の色付けにとホームセンターで苗を買ってきたのだが、結局、シンヤは学校に行かなくなってしまったので無用の生命となってしまった。  白い花を付ける朝顔の鉢にホースで水をかけながら、雨戸に四角く切り取られた室内の光景を見つめる。  雨戸の向こうは、くれ縁と和室とを仕切るガラス戸で締め切られている。ガラス戸には木製の格子が付いているのだが、マサヤがあぐらをかいた姿でわずかに身を屈めると、ちょうど格子の木枠が彼の目元に重なった。報道でプライバシー保護加工を施される人みたい様相になり、そして身を反らして笑う絢音の目元にも同じく木枠が重なった。まるでふたりして、個人を特定できない虚無の生き物になってしまったように見えて、うすら寒いものを感じてしまう。戸袋の横に植えられた白い夾竹桃の花が熱風に身をよじって、蠢く影が過ごす和室に濃い影を落とした。  ポケットの中で電話が鳴っている。羽を震わせた音を鳴らす夏虫のように振動している。蝉の声が遠く霞んでいく。  目を閉じて夏空を忘れる。   

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