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   *   *   *  ぼんやりと考え事をしながら蟻とミミズの小山に水をかけていると、硬い芝を踏む音がしてぬっと影が覆い被さってきた。 「絢音ちゃんがそうめん茹でてくれたよー。中に入って食べようぜ」  はっとして顔を上げると、マサヤが太陽を背にして立っていた。逆光のなか、うすい色の入ったサングラスをかけているせいで、特有のぐつぐつした闇の瞳を見ることはなかったのが救いだ。 「あ、うん……」  食欲はほとんど無い。胃のあたりがずしんと、重い感じがずっとする。 「あーあ、虫さんがかわいそうじゃん。溺れちゃってるよ」  びちゃびちゃと放水し続けるホースを取り上げて、マサヤは人なつっこく笑った。そのまま水の轍を残しながら歩き、蛇口を閉めると塩化ビニール製の空色の蛇をくるくると纏め、放った。ホースの中に残っていた水が弧を描きながら飛び石を濡らし、打ち水のように焼けた庭の熱気をわずかに下げる。その最後の放水で、蟻たちの死骸は沙羅木の影に弾き飛ばされてしまって、もはや黒くか細い葬列は跡形も無くなってしまった。  庭にいる理由をすっかり奪われてしまった心地がして、シンヤは諦観する。 「中、入ろう。ぶっ倒れちゃうぞ、こんな暑さじゃぁ」  手を差し伸べられて狼狽するも、マサヤがなにを望んでいるのか理解して、更に諦観した。恐る恐る手を伸ばす。シンヤが触れるより先に、強い力と勢いで手を掴まれ、指と指を絡める繋ぎ方で指に力を込められる。  指の股からどくどくとした血流を感じた。  目的も理由もなにも分からないマサヤが、それでも自分と同じ鼓動を刻んで生きる生命なのだと思うと、ふいに懐かしい隣人に出くわしたような、よそよそしくもむずがゆい妙な感覚が沸き起こった。  マサヤは、もしかしたら絢音よりも、その息子であるシンヤに興味を移したのかもしれない。  誰かに選び取ってもらったことなど、今まで一度たりともなかった。  そう思うと、不気味ではあるのだが悪い気はしない。  ような気がするのだが、それはもしかして、暑さにやられたせい?  油蝉の声と風鈴の姦しい音をBGMに、たよりない揖保乃糸をすする。つゆはすぐに薄まり、濃い味が好きなシンヤは何度も濃縮されたつゆを継ぎ足した。  金魚鉢に酷似したガラスの盆でのたくる純白の糸に絡むようにして、青紅葉の葉が泳いでいるのは、庭でマサヤが採取して浮かべたものだ。うすい青をどこまでも引き延ばしたような水と、白濁した氷と、清々しい青紅葉の対比は目に涼しく、シンヤは盆を前にしてしばらく見惚れた。まさかマサヤがこのような風情を見せつけてくるとは思わなかった。 「シン、たまご食べなよ。甘くて美味しいよぉ?」  絢音はご機嫌で甘い声を跳ねさせ、炒り卵をシンヤの器に入れた。うす桃色のジェルネイルをものともせず、白ごまをつまんでその上に振りかける姿は、精神安定剤でふらつく昼間の姿を彷彿とさせない。あまりにも健全で、シンヤは胸が詰まる。それを気取られまいとうつむき、絢音が装飾した器の中身を一気に掻き込んだ。  熱々の炒り卵でそうめんはぬるくなってしまったけれど、今まで食べたすべての食べ物のなかで、もっとも美味しかった。 「美味しいねえ。やっぱり夏はそうめんが一番! 茹でるときはめっちゃ暑いけどね。もー、汗だく」 「あんがとね、絢音ちゃん。茹で加減がマジで最高」  マサヤは快活な声を弾けさせる。  紫蘇穂もオクラも鰹節も分葱もない、炒り卵と白ごまだけの質素なそうめんであったが、却ってその簡潔な具が麺ののどごしを際立たせていた。絢音は決して料理が好きというたちではないのだが、男ふたりの食べっぷりを見たせいか、満足げに笑って「また作ったげるね」と胸を張った。  絢音がたのしそうでうれしい。  シンヤは横目で母の少女めいた笑顔を見やりながら、甘いたまごのかけらを器にくちびるを寄せて食べた。ふと目線を正面に戻すと、箸を持ったまま、まばたきもせずにこちらを見つめているマサヤの無表情が目に飛び込んできてぎくりとした。  また、あの黒い瞳をしている。ふと、部屋全体が翳った気がしたのは、一瞬だけ太陽に雲がかかったせいだろうか。蒼い夏空を背にして逆光を背負うマサヤの背後で、風に吹かれた風鈴が短冊をめちゃくちゃに暴れさせている。からん、硝子盆のなかの氷が揺れて、マサヤが摘んだ青紅葉が沈んだ。  つゆに濡れたシンヤのくちびるを、マサヤが黒い炎を宿した瞳で射貫いている。  美味しくなるようにと鍋の中身を一心不乱に睨んでいた絢音と、きっと同じ種類の瞳をしていた。

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