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南窓の恩恵を受けた和室とは違い、台所は薄暗く湿っている。
明かり取りの窓のむこうでさわさわと揺れる緑影は、沙羅樹だ。花はすでに落ちきっており、みずみずしい緑が太陽の光をきらきらと砕けさせては陰影を移ろわせた。
パネライの腕時計が濡れてしまうことを厭わずにマサヤは洗い物をこなしていく。シンヤはすこし距離を置いて、半開きになった勝手口のドアから差し込む一条のひかりを見ていた。腹が膨らんだカマキリが半分潰れて、砂利の上で陽射しに焼かれている。きっとあれも、蟻の小山の源になるのだろう。
「おーわり。手拭き、どこかな」
手に付いた水滴を跳ねさせてマサヤは振り返る。肘の高さで両手をだらりと下げて、まるで幽霊のまねごとみたいだった。
「あ、洗濯してからまだ用意してなかった。俺、取ってくる」
逃げる口実ができたと浮き足立つも、両肩を掴まれてままならない。肩がぐっしょりと濡れる。手のひらの熱は水とともに流れていったのか、わずかにひんやりとする。
「あ、濡らしちゃった。ごめんね。脱いじゃう?」
「え、……いや、いい。いいですよ。別に。どうせ今から外に行くし、乾く」
「どこ?」
「……外」
「どこ?」
「庭」
「なにすんの」
何をするんだろう。
「……なにも」
「なにも?」
「なにも、ただ、外に」
「なんで?」
なんでだろう。
「どうして?」
「どうして……、やることないから」
「ないの?」
ないのだろうか。
極端に瞬きの少ない目で真っ正面から見つめられると、頭が酸欠でぼうっとしてくる。堂々巡りのやりとりも、じわじわと追い詰められていくようでおそろしい。
「行きたいところとかないの? 連れてったげるよ」
「特に……」
「食べたいものない? なんでも買ってあげる」
「いま、食べたばっか……」
「絢音ちゃんも寝ちゃったしさ」
まるで、人間の言葉を意味も理解せずに模倣するだけのバケモノと会話している気分だった。
マサヤは執拗な応酬をしばらく繰り返したのち、諦めてちいさく嘆息する。シンヤの両肩から手をするりと退け、換気扇の下まで移動するとスイッチを入れた。ブンと巨大な甲虫が飛び立つような音を立てて、換気扇が廻る。ラッキーストライクの煙が、廻る刃に吸い込まれて殺されていく。
「俺も付いていくよ、〝外〟に」
「え、……でも」
有無を言わさぬ眼差し。光の宿った眼に、シンヤはなにも言えなかった。
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