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山陰にへばりつくように広がる鹿影 町は、基本的には曇りが多い。反対に、山を挟んで東側にある潮見尋村は快晴と雨のバランスが良く、港もあるのに住人のほとんどが漁業ではなく果樹栽培で生計を立てているのだから不思議だ。山ひとつでこうも天候が変わるなんて、とシンヤはいつも空を見上げて思う。
鹿影町は戦前までは養蚕と造船業でそれなりに栄えていたのだが、多分に漏れず戦中の大打撃を受けて軒並み姿を消してしまった。巨大な造船所跡地も、費用が捻出できず解体されないまま何十年も放置された挙げ句、今ではもっぱら怪しげな人々の集会所と化している。寂れた歓楽街ばかりが幅をきかせているせいか、人口減少は止まることを知らないのに治安は悪化する一方で、鹿影は死んだ街として悪名が高い。ゆえに、鹿影の人間には、果樹が香るおだやかな潮見尋を妬む者も多いという。
「実際、観光してるだけじゃよくわかんないもんだよね。まだ二日目だけど、この街って結構やばいかんじ?」
サングラスを指で押し下げて、マサヤは目を細めた。
「まあ……。たぶん。相当」
「へ~ぇ。うける。すっげえ田舎だなと思ってたけど、おもしれーね」
淡泊な口調で適当なことをのたまうマサヤは暢気にしか見えないが、きょろきょろと周囲に目をやりながら歩く姿は矮小だ。まるで逃亡犯の素振りでしかない。
並んで路地を歩きながら、猫を見かけると立ち止まった。特に行く当てがあるわけでもない。ただの散歩だが、どうにも落ち着かない。ヘビースモーカーなマサヤは歩きながら煙草を吸い、シンヤにかからないように煙を細く吐き出す。副流煙を気にするくらいなら、最初から吸わなければいいのにと思うのだが、きっとそういう道理ではないのだろう。シンヤもマナーだの煙だのは特に気にしなかった。
「あ、海あんじゃん。海」
住宅街の路地を抜けると、すぐに海岸へと行き当たる。海沿いの道路は道幅が広く、また外灯の間隔は狭いため一気に拓けて見える。車通りの少ない閑散とした道路に、すっと伸びた真っ白いLEDの外灯が等間隔に並んでいるさまは、もはや近未来の片鱗すら感じてしまう。田舎くさい住宅街や、猥雑な歓楽街ばかりの鹿影には不相応だという印象が拭えない。
「隣のさあ、潮見尋 は土葬なんだって? 今でもあんのね、そういうの。しかも住人のほとんどが遺伝的にフジツボ恐怖症なんだって。先祖達がフジツボで足を切って破傷風になって死にまくるっていう事件? がありすぎて、そっから恐怖症が遺伝すんだってさ。恐怖症って、遺伝すんのかな、ホントに」
マサヤはことばを紡ぎ続ける。隣村の風俗については、絢音に聞いたのだろうか。そんなふうな話もするんだなとぼんやり聞き流す。相槌を打たなくてもマサヤは咎めることはしないし、意に介する素振りも見せない。もとより話すことが不得意なシンヤにとってはありがたいことだった。
「シンヤは、恐怖症とかってあんの?」
首を振る。苦手なものやことはいくつか浮かんだが、どれも恐怖症というくくりに入れるには弱い。
怖いと感じるのは、たぶん――――一人になること。愛されないこと。誰からも思ってもらえないこと。案外思いついたが、これらを怖がらない人間のほうが珍しい気もしたし、なにより目の前の男に話すのは躊躇われた。
「そっか、俺はねえ、先端恐怖症。針とかナイフとかダメでさ、注射とかほんっとダメ」
尖ったものが怖いというのも普遍的な気がするけれど、恐怖症というくらいだからそれなりに過敏な反応を示すのだろう。飄々としたマサヤからはとても想像し難く、きっと会話の流れで作られた与太なのだろうと曖昧に頷いた。
午前中はあんなにも晴れていたのに、すぐに雲が流れ込んできてもやもやとした曇天になってしまった。生ぬるく湿度の高い暑さのなか、きつい潮のかおりが間隙もなく通り抜け続ける。ともすれば、肌の表面に塩でも吹いてしまいそうなほどだ。暴れる髪を抑えながら並んで歩いていると、不思議とマサヤとともにいることが苦痛ではなくなりつつあることに気が付いた。それはきっと、隣にいるから、あの虚無の瞳を見なくて済んでいることが起因しているような気がする。どろりとした、黒いゼリーのような虹彩を見さえしなければ、マサヤはあんがい居心地が良い。諦観と順応の癖がついているせいでそう錯覚しているともいえないが。
「シンヤさぁ、夏休みの宿題、やってる?」
唐突にそう問われ、シンヤは瞬いた。聞き流すには妙な間が生まれてしまい、うっかり言葉をもごつかせる。
「あ、……俺、進学しなかったから」
「ふーん。なんで?」
無遠慮な追撃だが、あっけらかんとした問い方からは悪意やいやな好奇心は窺えなかった。
「中学でいじめられてたから。おかあさん、あれだし」
トイレで便器の水を飲まされたこと、椅子にびっしりと画鋲を貼り付けられていたこと、虫を食べさせられたこと、――――■■■■■■■■。■■■■■■■。
思い出したくないことばかりがこの身体には詰まっている。持ち物をずたずたに切り裂かれて捨てられた回数を数えようものなら、もはや両手両足の指を使っても足りないくらいだ。
我慢することは得意だったし、自分が被害を被るくらいならまだ良かったのだが、絢音の生き様や形を悪し様に貶されることだけは我慢できなかった。我慢してはいけないと思ったし、する気にもならなかった。
『おまえのかあちゃんの店に行って、怪我させちゃおっかなあ』
と言われたとき、シンヤは狂ったように暴れ回り、筆箱のなかで息を潜めていたカッターナイフを振り回して同級生らに切りかかろうとした。幸い、担任の教師がこのときばかりは謎の瞬発力と洞察力を見せて寸でのところで取り押さえられたが、シンヤはそれっきり中学校に通わなくなった。当然、進学もせず家に閉じこもっている。
あのとき、止めてくれてよかったと安堵する気持ちと、どうして止めてくれたんだという恨みが同時に、同じ質量でずっと片隅に巣くい続けている。
絢音のことを思えば、事件にならずに済んだのだからこれでよかったのだとは思うのだが、絢音を思えばこそ、彼らの知性のかけらもない侮辱は許してはならなかったとも捉えられるのだ。それに、教師のあの迷いのない正義感。どうしてあの力が、シンヤが相談を持ちかけたときにはひとかけらも見せられなかったのだとやるせなくなる。
つらい日々も、自分だけでは整理できない傷害未遂も、胸のなかでも頭のなかでも生き続けている。シンヤの養分を吸い尽くして肥大し続けている。無限に広がっていく蜘蛛の巣だ。この身体の内部では、怒りと恨みの女郎蜘蛛が育っている。
しかし、それも今となっては終わったはなしだ。
「あー、まぁね、うん。しょうがないよね」
「……うん、しょうがない」
マサヤは憐れみを隠そうともせず、切なそうに眉を下げた。唇は複雑な開き具合でかなしみの笑みを象り、わずかに歩調が乱れた。
この問題は、もうシンヤのなかでとっくに折り合いがついているものだ。
今更、他人にどうこう口出しをされても仕方がないし、どうとも答えようがない。あの件があったからこそ、生まれたつながりというのもあるのだ。こういうふうに、「しょうがないよね」と、おなじく諦めてくれる言葉がいちばんの慰めになる。
埠頭の最奥に見える、造船所跡の錆びたクレーンが幽鬼のように空に伸びている。陽炎がそのシルエットを曖昧にぼかす。
「……決着はとっくに付けたから、もういいよ。今更考えてもどうしようもないし。時間は進んでいくだけだしね、それならもう、考えたってしょうがないよ」
この世には過去も未来もない。在るのはただ、『現在』だけだ。
「シンヤは大人だね」
しばらく何かを考える素振りを見せていたマサヤは、憂いの滲む声音でそう呟いた。わずかな微風ですらかき消えそうな、ちいさな声だった。
これにはさすがに同意しかねて、眉根を寄せる。
「大人だよ。すぐに反発しないし、あー、ほら。昨日のこともさ、なんも言わないじゃん。いろいろあったのにさ」
ああ、と得心する。繊細でうしろめたいような、触れれば崩れる淡雪製の記憶に無遠慮な針を突き入れられた心地だ。
「あれは……あれは、なんだったの」
おそるおそる切り出せば、マサヤは頬を掻いて困った表情を浮かべる。わずかな喜色を混ぜながら。
「なんだったんだろう。暑すぎておかしくなってたのかな。なんか、シンヤを見てると……よくないことをしたくなっちゃう」
よくないこと、と声を低めるニュアンスに暗い欲望を見た気がして、顔を背けた。おそらくマサヤも同じように顔を背けて海のほうを向く。早朝から出かけていたちいさな漁船が帰港して、係留作業に精を出している。わずかに口を開けると、潮風が喉にへばり付いてむせそうになった。
廃墟となった造船所が巨大な影となってたたずむ埠頭前で、マサヤはこちらを向く。緋色のシャツが、海風を孕んでばたばたと暴れ膨らむ。
「シンヤになら、殺されてもよかったかも」
そう呟くタールの瞳は、シンヤを梳かして鬱蒼とした雑木林を映していた。
赤松や茅がうごうごとさんざめく雑木林から、オオルリが飛び立った。蒼い彗星は空を割き、林の奥深くへと消える。
深緑にきらめく夏の季節に、針状の葉を見ても先端恐怖の面影を見るのだろうかと思い付いた。
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