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 水石にはびっしりと、赤いインクで〝まさや〟と書かれていた。大小さまざまな大きさで、びっしりと。文字が重なり合い、真っ赤な染みと化している部分まであるほどに、びっしりと。  その文字列が昌也を指すのか、それとも真也を指すのか。  考える前に、悲鳴を上げて石を放っていた。鈍い音を立ててごとりと転がる石は、どこか恨めし気に見える。尻餅をついてへたりこむマサヤは口を覆い、しばらく呼吸すら忘れた。この呪いの塊がこの世に存在しているのも悍ましい。呪詛に赤く彩られた水石は、まるで紅葉した山並みを思わせた。その頂、もっとも鋭く尖った部分――――明らかにインクとは別物の、赤黒い染みがこびりついているのを認める。これはまるで――――血だ。  背筋に冷たいものが広がる。秋風は涼しく舞うのに、全身の毛穴から吹き出る汗が止まらない。  シンヤはこの水石を細い腕で持ち上げて、頭上高く掲げる。  紅葉が山々に染み、朝焼けに輝度を増していく朝、吊り橋の下は穏やかな鹿影川がさらさらと流れていて。そして、うずくまった絢音は面を上げる。どこか安堵した表情で、瞼を下ろす。  マサヤは想像を打ち止め、なんとか呼吸を再開させた。咳き込むが空っぽの胃からは胃液すら出てこない。  シンヤはもう止まらない。暴走する黒い妄執を欲望のままに奔らせる、粘ついた流星のようだ。  頭の隅でずっとちらついていた、白い幽霊。シンヤを虐めていた同級生が蠢く、あの白い麻袋。もしも想像通りにシンヤが主導して拉致殺害したのだとしたら、これから起こしうる犯行もやはり同じような手段、方法を頼るはずだ。  マサヤは土で汚れた指をそのままに、脱兎のごとく駆けた。  シンヤは借家に寄ると言いながらもやってこない。サンダルを脱ぎ散らかしながら縁側から翳った廊下まで走り、息も整えないうちに絢音の実家に電話をかけた。誰も出ない。しばらく粘ると、留守番電話のアナウンスが流れた。 「おれっ、北浦です! 豊子さんの、家族の! もしもこれを聞いたのならすぐ――――」  言い終わらぬうちに、電子音とともに聞き覚えのある声が耳を指した。 『き、北浦さん。あ、あの、じ、実は兄が家に戻っていないようで』 唾を飲む音が大きく谺する。 『それでわたし、まだ豊子ちゃんのその、片付けで……家に残っていたんだけど、気付いたらい、いなくて。ずいぶん気落ちしていたから床に伏せっているんだと思ってたんだけど。その、い、いなくて。は、半日そこそこ姿が見えないくらいでこんなに焦るのはおかしいって思うけど、でもね、でも、すごくいやな想像ばかりしちゃって』  絢音の実父の妹――――つまり、葬儀の席でマサヤの背をいたわるように撫でてくれた絢音の叔母が切羽詰まった声で喘いでいた。警察に相談するか、まだそう決断するには早いのか、決めかねつつも胸のなかでは嫌な想像ばかりが膨らんでいく。そんな最中にマサヤの声を聞き、一気に不安が噴流したのだろう。涙のにじむ声だけでもその葛藤が窺え、胸が締め付けられる。  やはり。  マサヤは最も悪辣な想像が的中してしまったことに片手で顔面を覆った。 「俺に心当たりがあります。……でも、一時間だけ待ってくれませんか。もしも一時間経っても俺から連絡がなければ、警察にこのことを連絡してください。お願いします。……豊子さんの、大切な息子さんのためにも」  低く声を落として懇願すると、電話口の叔母は口を噤み、しばらく考え込んでいた。なにか思い当たる節や、予感があったのかもしれない。すすり泣く声は承諾も拒否もしなかったが、無言の葛藤こそが彼女の応えだと理解し、マサヤは受話器を置いた。  きっと、シンヤは埠頭で待っているはずだ。  黒い瞳を熱っぽく潤ませて、マサヤが来るのを待っている。

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