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(3)   めちゃめちゃに走って埠頭に着く頃には分厚い雲がなだれ込み、太陽を覆い隠していた。雨でも降りそうな曇天。本来の鹿影の気候。潮風が鋭く吹き、波はモノクロに荒れている。係留された船々が巨大な陰となり、不規則に隆起するさまはイコライザーの波長ディスプレイを思わせた。  廃造船所は相変わらず静かに佇んでいる。がらん、と高く響いた金属音は、浮遊する工場の化け物が起こした悪戯だろうか。  造船棟はブロックごとに区分けされていて、ひとつひとつの建物やコンテナ、それに付随する扉やスイッチ盤などもばかみたいに大きい。巨大な船を造るのだから、施設も規格外の大きさになるのは当たり前か。まるでがらんどうの街だ。ミニチュアの世界に紛れ込んだ気分で、烟雨に白霞む工場跡を進んだ。  船台も、キリンの亡霊みたいな大型クレーンも、塩害でひどく錆びついている。かつてはどの設備も誇りと大義を持って稼働していただろうに、今やこの荒廃っぷりだ。『船を造りたい』、『昔のようにたくさんの人間とともに働きたい』と、建物の亡霊が湧いてもやはり不思議ではない。  金属音の幻聴がそこかしこで聞こえる。  ひときわ大きな音が鳴ったのは、車両ゲート付近の倉庫だ。導かれるようにしてふらふらと向かい、扉に手をかける。腐食が始まった金属扉は硬く、四肢を踏ん張って力任せに引いた。かつての皆口家の玄関扉を思い出す。 「やっぱり、来てくれた」  煌々と照るまぶしすぎる光は、無造作に転がされたバッテリー式の投光器によるものだった。当然、廃工場に電気が通っているわけがない。後から持ち込まれ、そして現在でも使われている光源。夜な夜な集う連中らが設置した舞台装置だ。 「シンヤ……」  積まれた麻袋を椅子代わりにして、シンヤが悠然と微笑んでいた。  目を灼き潰すほどに明るい投光器の光を浴びて、その顔はいっそう青白く生気をなくしている。正気も生気も人間性もどこかへ忘れてしまった、紛うことなき亡霊の貌だった。 「シ、シン。その、その中身は……」 「これ?」  未発達で細いくせに、妙にみずみずしい脚がひとつの麻袋を蹴った。芋虫状に伸びたそれは、押し殺したうめきを発しながら二、三度のたくった。 「う…………っ」  ぐねぐねと踊る白い麻袋に、マサヤの記憶がフラッシュバックする。  少年の形をした麻袋。ナイフの切っ先が麻の繊維をぶちぶちと押し広げ、やわい肉に埋まるあの感触。そして喀血の色。 「あ、あ……」  横たわる人型を見てかつてのトラウマが刺激されることなんて、はなから想像していたし覚悟すら決めていた。と、思い込んでいた。  実際はこんなにも脚が竦み、寒気と吐き気が地面から脊髄を伝わり、頭の毛穴をふつふつと開かせる。情けなさすらどこか遠くに霞み、もはやマサヤの目には麻袋のうねりしか映らなかった。  投光器の鮮烈な光を浴びて、麻袋の影が滑稽に踊る。床から壁、天井までをもステージにして踊り狂い、苦しげな喘鳴を上げた。  目を閉じる。読経のなかでうなだれる、正見のちいさく縮こまった背を思い出す。深呼吸をひとつすると、埃と潮のにおいが身体中を満たした。いま、マサヤは鹿影町と同化している。 「あ、絢音ちゃんのお父さんに罪はないよ。なあ、シンヤ。……罪があるのは、シンヤと、絢音ちゃんと、俺にだけ。俺たちだけで済む話だったんだよ最初から。他のひとを巻き込むのはおかしい。道理が違う!」  シンヤは首を傾げる。単に、頬にかかる髪を払っただけかもしれない。 「絢音ちゃんは、……絢音ちゃんは、無意識に、本当に無意識にシンヤを傷付けていた。シンヤを我が子だって思う気持ちはたしかにあったんだと思う。でも、シンヤの前でも『死にたい』って声にだして泣いていた。自分の存在を否定して、そんで傷付けていた。絢音ちゃんが自分の存在を否定して殺そうとするたび、シンヤが傷付いていることに気付けなかった。それが、絢音ちゃんの罪だ」  シンヤを〝死ねない理由〟だと話していたときの絢音の顔は、本物の母親の顔をしていたと確信している。それでも、絢音を母と慕うシンヤの気持ちより、自分の感じる〝生きづらさ〟や〝消滅願望〟を優先させていた。マサヤだってそれに気が付いていた。 「俺は、俺のトラウマを勝手にシンヤで発散して、勝手に懺悔して、勝手に赦されたり罰を与えられた気分になったり、おまえをだしにして贖罪してた」  神として崇め、時には悪魔と称して誹る。なにも知らない子どもを磔刑にして、依り代にして、自分の罪悪感を宥め続けていた。楽になろうとしていた。  なにも解決などしないのに。  積み上げられた麻袋を玉座にしたまま、シンヤは怜悧な瞳でマサヤを見据える。立てた膝に頬を乗せ、気だるげに、まばたきすらしない。  すべてを見透かそうとする眼がおそろしくて、マサヤは瞼を下ろした。けれど、見ないふりはできない。言うことを聞かない瞼を説き伏せ、開眼する。失望すら見せる横顔は、拗ねているようにも、悲しんでいるようにも見える。退屈そうに脚をぶらつかせるシンヤのシルエットは、まるで振り子時計だ。 「自分を取り囲むものの変化を厭うのなら、周囲を変えようとしたって余計に苦しくなるだけなんだよ。変えなきゃいけないのは、自分の心持ちだ」  マサヤがそうだった。麻袋の幻影から逃げられなくて、でも罪を忘れることすら怖くて、さらなる罰が与えられそうで…………周囲に縋り、ひとの行為に甘え、かわいそうだねつらかったねと慰めてもらいたくて。それでも罪悪感はこれっぽっちも消えてくれないから、今度は八つ当たりをして。  シンヤのトラウマの根源は、幼い身体を蹂躙しようとした実父か。それとも、彼が慕う母を侮辱し、いわれのない暴力を強いてきた同級生か。  それとも、勝手に信仰してくる、見ず知らずの男か。 「シンヤ、現実を歪めようとしなくても、俺はおまえの側にいたよ。いようって、考えてたよ。俺なんかと一緒にいてもろくな事にはなんないし、どう考えても絢音ちゃんの実家できちんとした生活をしたほうがいいとは思うけどさ」  泳いでいた脚がぴたりと静止する。 「だから、これからも一緒に暮らすためにも、もうやめよう。な?」  一歩、踏み出す。咎められるかと思ったが、シンヤは何も言わない。無感動な能面からはなんの感情も読み取れなかった。  もう一歩、踏み出す。麻袋から、ふぅふぅというか細い息が漏れている。  あと少しで届く。救出できる。罪を重ねようとするシンヤを救済できる。  気が逸り、息が乱れる。 「さあ、もうこれで………」  助かる。  そう思った刹那、大きな怒号と足音がばたばたと駆けてきた。警察? まだその時間ではない。叔母は待ちきれなかったのだろうか。  振り向くと、黒服を着た男たちが眼を吊り上げながら倉庫へと流れ込んできた。口々に怒声を張り上げているが、そのどれもが聞き取れない。この国の言語では無かった。 「え………………?」  誰だ。マサヤは混乱する。どこかで警鐘がなる。これは、頭の中だ。頭の中でビービーとうるさく響いている。気が狂いそうなほどに大きな音。蟋蟀の群れが縦横無尽に飛び交っている。あたまのなかで。過去の中で、現実で。  蟋蟀。 「あ、あァ、うあぁぁッ!」  知っている! 知っている、知っている! 男らが揃いで掘っているタトゥー。梵字。  サディストの男が記憶の中で悠然と瞳を細めている。長い指で針を弄び、挑発的にマサヤを見上げる。 『逃げられませんよ』  ありもしない記憶が脳内で弾けた。 「シンヤ! シン、逃げ……」  振り返ると、シンヤは乱入者たちに一切の驚きすら見せず、同じ体勢でつまらなそうに息を吐いた。だらりと下げた片手に大ぶりのナイフを持ったまま、足下の麻袋を蹴る。 「お迎えだよ」   シンヤが麻袋を蹴ると、中身がうぞうぞと丸まった。非道な蹴り上げに、男らはがなり立てる。まるで、信仰する神が足蹴にでもされたかのような怒りようだった。倉庫内の空気がびりびりと震える。マサヤだけが蚊帳の外だった。 「近付かないで。大きい声も出さないで。マサヤくんに手を出したら刺すから」  ナイフの切っ先を麻袋に近付ける。 「そろそろ起きて。この時のために生かしておいたんだよ」  シンヤが麻袋を剥ぎ取る。そこには――――。

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