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「あ、アンタ、なんで……」  濡れたように光る黒髪、切れ長の瞳。細く引かれたアイライン。くれないの目弾き。マサヤに一夜の悪夢を与え、永劫の罪科を齎した蟋蟀の男だ。しかし、初めて出会った時のような悠然さはなく、忌々しげに顔を歪め、血の混じった唾を吐いてシンヤを睨み上げていた。俗世を超越した立ち振る舞いをしていた彼も、こうして捕らえられてはただの奸賊にしか見えない。記憶のなかで美化されていった苛虐の王のメッキが剥落し、いまや恐怖心すら抜け落ちてしまった。ただ呆気に取られ、マサヤは瞳を揺らして目の前の光景を傍観する。 「ただで済むとは、まさか思ってないよなァ。上手く出し抜いたつもりなら浅慮だぞ。蟋蟀の報復は絶対だ。今すぐにころ……」  言い終わらぬうちに、シンヤが男の前髪を掴んで上向かせる。 「慧眼がなかっただけでしょ、梵さま。自分の落ち度を人のせいにしないで」 「……ナメた口を利くな」  梵と呼ばれた男は頭を振って無遠慮に掴む手から逃れると、低い声で吐き捨てた。二人のあいだに、蒼く静かな焔が燃えている。  いまこの場で、なにが起こっているんだ。シンヤは、あの蟋蟀の男と知り合いだったのか? いつ、どこで、なんで。頭の中がぐちゃぐちゃになる。 「一体なんなんだ……、シンヤ、おまえは、なんなんだ……?」 〝どういう生き物なんだ?〟まさにそういう気持ちから出たことばだった。狼狽を感じ取ったのか、シンヤは目線を寄越す。冷たいけれど、生気を帯びた瞳をしていた。いままでともに過ごしてきた一年のあいだで、最も。 「たぶん、マサヤくんと一緒だよ。金居や田岡たちに復讐するために頼った連中がヤクザ崩れのならず者だったってだけ。それならまだマシ。もっと腐った、大義もへったくれもない反グレの掃き溜めみたいな奴らの大元が、蟋蟀だったってこと。これがまた粘着質な、ろくでもない連中でさ」  シンヤは、出入り口を固める黒服の男達をぐるりと見渡した。空気がすっと冷める。 「その中でも一番のクソがこいつ。伊室 (そよぎ)双星(ふたほし)っていう店も、蟋蟀の傘下の店だよ。東京でミスって、拷問された挙げ句にこんな寂れた街に飛ばされて、ほぼ軟禁状態で馬鹿みたいに働かされて――――」  ――――双星。その名には聞き覚えがある。絢音が働いていた風俗店だ。  幻想的な店名だと考えていたが、蟋蟀とのつながりがあると知ればそのイメージはまったく裏返ってしまう。フタホシコオロギ。そんな種類の蟋蟀が、たしかにこの世には存在していたはずだ。  同情しているふうにも思える口調だったが、シンヤは無感動に梵を見下げていた。視線に込められた呪詛が、つむじを貫いて脳を焼き切ろうとしているような、そんな狂おしくもひたむきな視線だった。 「よほど鬱憤が溜まっていたんだろうね。たかが子どもが依頼する、かつての同級生殺しに、それなりに地位のある梵さまが直々に名乗りを上げた。遺体に傷が残らないように拷問をするんだよ。じっくり、時間をかけて、殺さず傷付けず、ただ、精神を拷問するんだ。事故に見せかけて殺さなくても、とっくにあいつらは死んでいた。廃人になっちゃってた」  マサヤは思い出す。人生を狂わせたあの夜にマサヤを徹底的に痛めつけた、あの執拗な拷問を。  ――――それを、シンヤと同い年の子どもが受けた。それも、精神を殺す拷問を。 「そのとき俺は依頼人として梵さまとやりとりをして、間近で〝仕事〟を見て、気が付けばあと一歩踏み出せば蟋蟀の一員になってしまうってところまで来ていた」 「俺はすでに、おまえは家族だという認識でいたけどな。さすがは、幼子の頃に弟殺しの咎を背負っただけはあって、将来有望な目ェしてたよ。俺になにかあったときには後釜に据えてもいいと思ってたくらいだぜ」 「余計なことは喋らなくていい」  鋭い声で制されると、梵は可笑しそうに肩をすくめてマサヤに微笑みかけた。取り繕う気は一切無いのか、口調はその美しい顔面に似合わないほど粗暴になっている。 「シンヤが殺したんじゃないんだな? 同級生たちは。こいつがやった犯行なのか」 「まあ……そう、なるのかな。手を下したのは、という意味だと。でも僕は無実じゃない。その場にいた。ずっといた。ずっと見ていた。同情なんて一切しなかったよ。むしろ奴らの痛苦が終わってしまうことがかなしいくらいだった。死んじゃえば、無だもん。ずるいよ」 「あや……」  言いかけ、喉が絡む。確信を突く問いを投げるのが怖い。  シンヤは本当に哀しそうに、拷問の終結を憂う表情を浮かべていたのだから。  虫の四肢を手折って遊ぶ邪悪の笑みでも浮かべていてくれたほうがまだマシだった。まるでおろかな人類を憂う釈迦の貌で、こんな――……。 「絢音は、……絢音ちゃんは、自殺じゃないんだな」  憂いの表情がぴたりと無になる。梵は退屈そうに首を巡らす。 「絢音さんは……あいつらと違って、無になったほうが絶対によかった。絢音さんだって最期の時までそう懇願してた。生きていくのがつらいって。もうなにも知りたくないし考えたくないって。生きていく悦びを感じる暇もないくらい、つらいんだって。無になったほうがマシだって。……マサヤくんもそう思ってたんじゃない? 絢音さんは死んだ方が救われるって、思ったことあるんじゃない?」  達観した叡智の瞳が、音もなく光線となってマサヤの胸を貫いた。 「……っ」  否定することはできない。マサヤ自身が子ども殺しの呪縛から逃げたがっていたように、絢音もまたさまざまな罪悪を抱えることに疲れ果てていた。いっそ、彼女が望むように首でも締めて終わらせてあげたほうが安息に繋がるのではと考えたことは、一度や二度じゃない。彼女を見るたび――――、痩せこけた身体に浮き出る骨を見るたび、そう思っていた。 「そう、かもしれない。でも、でも俺は、絢音ちゃんが笑ってくれたら、やっぱり生きていると、――生きていることでしか感じられないものもあるって、思ってしまうから。その瞬間だけは、そう思えたから」  シンヤは手に持った刃のきらめきに目を落とす。 「もうやめちまいたいっていうときに、そういう瞬間がやってくるんだよ。計ったように。それでまた、生きていてもいいかもって思えてさ。絢音ちゃんが笑ってくれたとか。シンヤが笑ってくれたとか。体温があったかいとか。一緒に食べるごはんが美味しいとか。水石を見つけたとか。紅葉がきれいとか。風が冷え込んできたとか、雪の陰は青白いとか」  生臭い陰気な街だと思っていた鹿影は、思い返せばどこよりも美しい。 「俺は、絢音ちゃんとシンヤと一緒にいて、…………生きていこうって、思い始めていたんだ。絢音ちゃんも、シンヤもそうだったらいいなって、思ってた」  死にたくなることも闇に沈むことも稀ではないけれど、たしかにマサヤは少しだけ、おのれの罪をシンヤへの信仰に換えて逃げたりはしなくなっていた。現実がすこしずつ還ってきたような気がしていた。 「でも、それは俺の勝手な願いだったんだよな。絢音ちゃんは、明るく振る舞っていてもとにかく終わらせたかったんだ。シンヤがそれを手助けした。そう思って……いいんだよな?」  見据えようとするも、シンヤは刃を見つめたまま顔を上げない。鈍く光る光が投光器の光を反射して、幼い顔を照らすばかり。  静寂を破ったのは、梵の高らかな笑いだった。 「あっははは! 相変わらず、人を美化して信仰して縋って希求して夢を見て。きみは変わりませんねぇ。北浦さん、そんな感傷で殺人を犯すタマじゃないですよ、コレは」  水を差されて睨むが、梵は更に面白そうに肩を揺らして笑った。くっくっよ喉を震わせ、目尻に涙すら溜めて。 「シンヤはねえ、俺がいままで関わってきたどの人間も全く適わないくらいの邪悪ですよ。おのれの私欲のみを求める悪魔です。終わらせてあげたかった? そんなわけない。だよなァ? シンヤ。聖人ぶってんじゃねえぞ。早く教えてやれよ。慈悲で終わらせてやったんじゃねえ、独占欲のみが原動力だったって。絢音が死にたがった最大のとどめは、おまえらの普通じゃねえ関係を知ってしまったせいだって!」  瞬間、光が空気を切り裂いて一閃した。 「――――――ッ!」  思わず後ずさる。シンヤの刃が梵の美しい顔面を横薙ぎにしたのだ。  血が弧を描き飛び散る。眼球が傷付いたのかもしれないが、梵は叫びも上げずにケラケラと笑っている。アハ、アハハ、と笑う声が気にくわないのか、刃は間髪を入れず梵の胸に突き立てられた。 「やめろ、シンヤッ!」 「言う通りにするって言ったよな、梵さま。言う通りにしてくれたら殺さないって言ったよな、俺。なんで? なんで余計なことを喋るの? おしゃべり。ご自慢の舌、引っこ抜いてやろうか」  梵は血の混じる咳をしたあと、おぞましく笑う。喘鳴が虫みたいだ。 「だってぇ、そっちのほうが……ぁ、面白いじゃないですか。どうせ、おまえに殺されるか、こお、ろぎに、消されるか、なら。最期に面白いものを、見たい」  シンヤは阿修羅の表情で刃を押し込んだが、やがてふっと力を抜いて座り込んだ。崩れ落ちた梵の胸から両手でナイフを抜き取り、どこか遠くを見ている。諦観すら浮かべない、虚無を体現していた。  強烈な光のなかで座する姿は、後光を従える釈迦そのものだった。 「捕捉它! 死之前抓住它!」  黙っていないのは黒服の男たちだった。梵が人質になっていた手前上、手出しが出来なかった。が、いまや待てを遵守する謂われはないのだ。 「マサヤくん。やっぱり、……死ぬのが一番、苦しくないよ」  え、と声を出すのと同時に重い衝撃が腹を貫いた。 「死なせてもらえないのに、ずーっと痛い。そんな目には遭いたくないよね」  腹に押し込められた刃を捻られ、悲鳴が喉から勝手に押し出される。こぼれ落ちるほど目を開くと、うす笑いを浮かべたシンヤの顔がくしゃりと泣きそうに歪んだ。 「マサヤくんと一緒なら、輪廻してもよかったかも」  離れていく間際、唇に落とされた口づけは体温を持たなかった。  シンヤは抜き取ったナイフを掲げる。  黒服の一人がマサヤの肩を掴んで引き倒す。ぐらりと揺れる視界がスローモーションで回った。投光器の強い光、横たわる梵の長身、堆く積まれた麻袋の玉座、高すぎる天井。曼荼羅のようにそれらは複雑に入り組みあい、ひとりの少年を中心にして花開く。  掲げられたナイフが、同じく天高くすっと上げられたシンヤの手首に宛がわれる。その立ち姿はあまりにも迷いがなく、黄金の光を放つ観音像に似ていた。  血のシャワーがスノードームで循環するまがい物の粉雪のように、ひらひらと降り注ぐ。  輪廻なんて、絶対にいやだ。  生きていてもいいと思える瞬間の積み重ねで生きていられると思ったけど――――もう一回は、いやかな。

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