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【涅槃】

【涅槃】  馬車に揺られてるみたいだ。  暗闇しか見えないのに、ぐわんぐわんと景色が回っているのが分かる。横たわっているのに立ちくらみ。異国の言葉は、ひっきりなしに方向を変えながらマサヤの頭上で飛び交い続けている。その響きが可笑しくなって笑うと、口からどろりと血の塊がこぼれた。  あのときの子も、麻袋のなかでこんなふうに血を吐いたのだろうか。痛い、という感覚よりも、燃える熱さが腹から脳天までをずっと移動し続けている。腹は熱くてしかたないのに、こぼれた血液がどんどん冷えていって、虚血や出血の多さに身体は冷えていく一方だ。  命というのは、やはり温度があるのかもしれない。  きっと、生命は温かいのだ。いま、命が失われつつあるからこそマサヤの身体はこんなにも冷えている。  暗闇が解かれ、荷物のように転がされるのを感じた。月が照っている。そう感じるのに、まぶたは開かない。月光に温度はないのだろうか。光はあたたかいはずなのに。反射した光は、死んだ光だから? 死んだらあたたかさはない、ああ、そういうことか。  土のにおいがする。虫が頬を這う。 『マサヤくん』  視力が消えたせいだろうか。聴覚だけがやけに冴え渡っている。首を巡らせることは叶わないが、きっと隣にシンヤがいるのだろう。涅槃に入る座臥の姿勢で横たわるマサヤを見つめている。やわらかい手のひらが、マサヤの手をそっとなぞり、逡巡したあとに怖々と握ってきた。  ――――なに?  頭のなかで応えると、シンヤはふっと短く息を吐いて笑った。疲れ切った、そんな笑みだった。 『ごめんね。マサヤくんを苦しめたトラウマを消したかっただけだったはずなのに』  ――――いいんだ、もう。いいんだよ。 『……梵さまからマサヤくんのこと、聞いたことがあるんだ。だから、マサヤくんのことを好きになっちゃったとき、それまで憧れてたはずの梵さまが急に憎らしくなっちゃった。マサヤくんを苦しめた罪を償わせなきゃって、思っちゃった』  ――――うん。 『俺、昔からそういうところがあるんだ。……昌也のこともそう。絢音さんのことは……梵さまの言うとおりだ。ただの嫉妬だったって、気付いてる。楽にしてやるだなんて大義名分を振りかざして、正しいことをしたんだって良い気持ちになってた。けど、なにも正しくなんかなかった。ただの、ただの嫉妬だよ。いつか本当に、マサヤくんと絢音さんが恋人になっちゃったら、夫婦になっちゃったらって思ったら、もう……』  ――――そっか。……まあ、そう思っちゃったならしょうがないよね。 『……しょうがない、か』  ――――うん。しょうがないっしょ。もう全部、そう思っちゃおうよ。なんだか疲れちゃったし。 『うん。……そうだね。俺もなんか、疲れちゃった』  彼特有の淫靡さも、黒蛇のようななまめかしさも感じられない、純朴な声。きっとこれが、元来のシンヤなのだろう。年相応で、疲れ切った声なのにどこかあどけなくて、このシンヤともっとたくさんの話をしたかったと悔やんでしまうのはあまりにも自分勝手だろうか。  ――――ごめんな、シンヤ。俺、おまえがてっきり絢音ちゃんのお父さんを殺そうとしているんだと早合点して、……信じてやれなかった。本当に、ごめん。ごめんな。  動かせない頭を下げようとするが、土が重くて無理だった。鼻孔も、うすく開けていた口の中も、土でいっぱいになる。ああ、これが皆口家の、シンヤが手塩にかけて育んでいた花壇だったらよかったのに。 『なんだ、そんなことか。それこそしょうがないよ。疑われても仕方ないし。あれだけ殴られたのに、お祖父さんのことを心配してくれてありがとう。……お祖父さんは今頃、無事に家に帰ってるよ。絢音さんが言ってた。悲しいときは、夜明けの空を眺めるんだって。誰にも邪魔されないように、一人になれる場所――――たぶん鹿影ダムで、空を見上げるんだって』  ――――そっか。妹さんも心配してたから、それならよかったよ。本当に、よかった。 『あんまり話したことないけど、俺もマサヤくんも行方不明になったら……やっぱ悲しむよね。絢音さんが死んだばかりなのに』  ひんやりとした粉雪が舞い降りてくる。粉雪はどんどん勢いを増していく。もう極冬がやってきたのか。なんだか安心するにおい。土の匂いだ。腐葉土がふかふかと柔らかくて、心地よい。ふいに、ミヤマのジャムパンを思い出した。絢音の大好物だった、ミヤマのパン。甘いシナモンロールを、ちいさな前歯でこそいで食べて微笑んでいた絢音のことを思い出すと、すでに機能を喪ったはずの鼻奥がツンと痛んだ。  死を渇望しながらも、生きることに全力で一生懸命だった彼女を裏切ってしまったことが、なによりも心残りだった。 『……絢音さんは、俺のことは恨んでも、マサヤくんのことは恨んでないよ、きっと』  思考が伝達されたのか、シンヤはふいに声を落とした。涙に濡れた声ははじめて聞くような気がする。  ――――絢音ちゃんは、どんなことがあっても子を恨むひとじゃないよ。シンヤのことも、ずっと我が子だと思ってるって言ってた。絢音ちゃんもシンヤも、不器用だっただけだ。だから、絢音ちゃんのことを信じてあげてよ。梵を信じるより、絢音ちゃんの最期の顔を信じてやってくれ。な? 天使みたいな、安心しきった顔をしていたろ?  安置所で見た、絢音の顔。大きな傷よりも先に目に付いたのは、穏やかな死に顔だった。 『あのね、マサヤくん』  ――――うん? 『梵さまは蟋蟀から消されかかってたけど、それはね、仲違いした兄貴分のグループを陥れようと画策してた悪知恵が露見しちゃったせいなんだ。兄グループが懇意にしていた家門の子息を殺害して、それを兄貴分のせいにしようとしてたんだよ。けどね、殺し損ねちゃったんだ。その子を』  ――――殺し損ねた……? 『そう。――マサヤくんが刺してしまった、ううん。刺すよう強要された、あの子。生きてたんだよ、あの子。息の根を止めたんだって梵さまの部下たちは思ったみたいだけど、かろうじて生きてたんだ。なおかつ置き去りにされた廃屋から這いずり出て、偶然近くを通りかかった車に助けを求めて搬送されて。そんで、ありのままを話した。もちろん、マサヤくんのことは話さなかったみたいだけどね。袋を被されたあとだったし、容姿や特徴を伝えようと思ってもなにも分からないしね』  ――――そんな奇蹟が……。 『それにね、刺されたと言っても恨んではなかったんじゃないかな。だって、マサヤくんが拷問に耐えてる声だって聞いてたわけじゃない? その子。だけど、第三者があの部屋にいたってことすら言わなかった』  マサヤは、涙を流せないことが心底悔しかった。あの夜から抱いていた罪悪感や、贖罪しなければという十字架が消えるわけではないが、ふっと軽くなったような幻想を抱いてしまうのは、やはり梵が言うとおり、自分が夢見がちな質だからか。 『マサヤくんは誰も殺してなんかいないよ。俺とは違って。だからさ、安心してよ』  ――――……ありがとう、シンヤ。  土の布団はひんやりと、たしかな圧力を持って降り注ぐ。  ひどくうるさい夏虫。低く鳴くフクロウや夜鷹の鳴き声、絶え間ない蛙たちの合唱、ケリやアオサギの甲高い鳴き声。絶え間ない噪音のなかでも、シンヤの吐息めいたささやき声は鮮明に聞こえてくる。小さく笑う吐息の風圧すら、土で塗り固められた今でも感じることができる。 『絢音さ……、おかあさんに、また逢いたいって思ったら、お天道様に怒られるかなぁ』  ため息に似た笑いは、涙声に変わった。年相応、もしくはそれ以下の幼さで、シンヤは言葉尻を震わせた。きっと彼の姿が見えていたら、シンヤは両手で涙を拭っていたはずだ。それが見えないのは……残念だった。  彼が育ての母を手にかけたのは、やはり独占欲や私欲だけではなかったはずだ。その気持ちがかけらでもあったことは間違いないのだろうが、大元は長年見続けてきた絢音の苦悩を、一番理解していたからだ。もちろんその元凶が自分自身だということも含め、聡明でひとのこころを読んでばかりの彼は気が付いていた。  取り返しの付かないことをしてしまったという呵責と、もう一度母の腕で甘えたい気持ちを抱えたまま、シンヤはこれからずっと、永劫の時を後悔と懺悔で過ごしていくのだ。  最期になけなしの力で指を動かすと、小指が肉に触れた気がした。きっとそれは、ともに眠るであろうシンヤの指なのだと思い、土を巻き込みながら指と指をつなぐ。  ――――地獄で待ってるよ、シンヤ。一緒に行ってやるから。  シンヤは息を詰め、しばらく静寂を守ったのち、ちいさく息を吐いた。魂を吐き出すように、長く細い息を吐ききると、もうなにも伝えてきてはくれなかった。  生まれ変わったらまた生きてもいいって、今だけはそう思うよ。  きっと、そういう瞬間がやってきているのだ。いま。彼の安心しきった息を聞き届けて。  シンヤ。非道なのに寂しがり屋で愛を渇望した、憐れな影。  埠頭で麻袋に入っていたのは、正見だとばかり思っていた。望んでいた形の生活を得ることを邪魔されたと思い込んだシンヤが正見を拉致して殺害を企てていたのだと考えてしまったのは、シンヤを信じてやれなかったせいだ。  シンヤははなから生きることなど考えていなかったに違いない。だからこそ、捨て身で梵をそそのかし、マサヤが子どもを殺したわけではないと当事者の口から言わせたかったのではないのだろうか。梵が蟋蟀に始末されてしまう前に。  過激で、憐れで、愛情表現の仕方や人の求め方を知らないシンヤと、いまこうして一緒に眠れることに、少なからず愛おしさすら感じている。    お天道様は見ているよ。  おまえの罪も、苦しみも。 土に還る。吸い込まれていく。シンヤとひとつの養分となり、大地で息づいていく。  生は曼荼羅。鹿影へ流れ着いてからおまえたちに出会って、すべてが玉虫色に輝いていたよ。     【了】

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