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第13話 人生最大の挫折
「……あのさ」
山宮が話しかけてきたので冊子から彼を見た。
「なんていうか、お前、マジで書道が好きなんだな。ただちょっと好きとかのレベルじゃねえんだな」
一瞬、言葉に詰まる。が、どうにかにへらっと笑って頭を掻いてみせた。
「あー……発見したと思って……。人の名前で騒ぐとか、ごめん! 気分よくないよね」
やってしまった。
朔也の手に汗がにじみ、背筋が薄ら寒くなる。
――折原君って、ホント残念だよね……茶髪が地毛ってホントかな。そんなに書道が好きなら筆で染めちゃえばいいのにね。
――できるアピールうぜえんだよあいつ。図書の時間に辞書見て好きな漢字を探してるとか、ただの変人だろ。
――折原、最近元気がないぞ。なにかあったなら先生に話してくれ。どうしてコンクールに入選したことを皆に言いたくないんだ?
が、山宮は「いや」と首を振った。
「お前も割と普通なんだなって思った。ただの書道バカ。そういうことだろ」
だがその声は朔也の耳を通り過ぎてしまう。自分を見る目線、ひそひそと囁き合う仕草、さまざまな光景が脳裏に蘇る。無音の部屋の中、自分の心臓の立てる音が耳元で鳴って息苦しさが募った。
「……ま、まあ、確かに書道は好きかなあ。小さい頃からやってるから、生活に組み込まれちゃってるっていうかさ! 今思ったけど、ローマ字の表札もおしゃれでいいなって! 読み方がいろいろある名字もあるし、需要あるよね!」
喋りながら必死で次の言葉を探す。鼓動が早まり、息が浅くなる。はあはあと口を開いて息継ぎをしているのに、胸が鷲掴みされたように苦しい。膝の上で握るこぶしが汗で冷えていく。
早く、早く軌道修正しないと。山宮の名前がきれいだったから、つい言ってしまった。目立つようなことを言っちゃ駄目なんだ。おれは「普通」の高校生でいたいんだ。だから、早く、早く、早く。
そこではあという大きなため息が聞こえて、朔也はそっとそちらを見た。
「折原、お前、それ本気で言ってんの?」
思わずぴんと背筋が伸びる。山宮がまた一つため息を重ねて、つけていたマスクをとった。薄いくちびるや目元の泣きぼくろがはっきりとし、端整な顔立ちが顕わになる。喉が渇いたのか、水のペットボトルを鞄から出してごくごくっと飲んだ。学ランのときには隠れていた白い首の喉仏が動く。
次は一体なにを言われるのか。「ええと」と言い訳しようとすると、ペットボトルを持った手がカーペットの床をとんとんと叩いた。
「てか、お前、さっきからなんで正座? 堅苦しいわ。普通に座れよ」
独特の部屋に圧倒されて正座していただけだったのだが、慌てて足を崩した。緊張している朔也に「あのさ」と山宮が切り出す。
「折原ってそういうとこが駄目なんだわ。『おれは書道が好きで漢字が大好きです』って堂々と言えばよくね。人の顔色窺って無難に過ごそうとしてんじゃねえよ。誰にでもいい顔してて疲れねえの?」
その声は特に怒っているふうではなかった。こちらを見る視線も食堂のときとは違い、呆れているという雰囲気だ。
「自分の好きなことまで隠して、バカじゃね。そのチャラい髪くらいチャラくなれよ。人の目を気にしすぎっから全体的に堅いんだわ」
そういうの、字にも出るんじゃねえの。アーモンド形の目がまっすぐこちらを見つめてそう言ったので、朔也は大きな衝撃を受けた。
「……気持ち悪いと思わなかった?」
「あ? なにが」
「おれ、山宮の名前に対してすごく変なことを言ったんだけど……篆書とか隷書とか意味分かんないだろうし」
すると彼は「ああ」と簡単に頷いた。髪がさらりと揺れて目に入ったのか、鬱陶しそうに前髪を手で払う。
「正直半分以上理解できなかった。けど、お前が書道とか字が好きってことは分かったぜ。それでいいんじゃね。繕おうとする意味が分かんねえわ」
「いや、だって……山宮からすれば、おれ、すごい変人だろ。そういうやつとは喋りたくないだろ」
「それ、お前だけじゃね」
山宮はあっさりとそう言った。
「自分の喋りたいこと喋りゃよくね。それに、お前の書道バカぶりを見んの初めてじゃねえし、そんな驚かねえわ」
「えっ? いつの話?」
「夏前くらいだったか? 前回のパフォーマンス甲子園でスタメンになれなかっただろ。それでトイレでガン泣きして、それなのに必死に隠そうとしてただろ」
不意にそのときのことが思い出され、朔也は自分の顔がかーっと赤くなっていくのが分かった。
高校生活にも慣れてきたある日の放課後、体育館に書道部全員が集合し、大会で使うサイズの真っ白な紙を前にして予選に通過したことを告げられた。
予選は実技を披露するのではなく、それを撮影した映像や写真を提出して判定を行う。それらに関しては新一年生入学前に作成したものであったから、朔也も心から喜んだ。先輩たちはすごい、この高校に進学してよかった、これで自分もパフォーマンス甲子園に参加できるのだと。
だが、本戦に出場する十二名の選手の名前を呼ばれると、夢は一瞬にして砕け散った。補員として今井の名は呼ばれたのに、朔也はそこでも呼ばれなかった。紙を押さえる要員にもなれなかった。部員は二十名ほど。なんの役も与えられないほうが少ないのだ。
そのまま目の前で始まった初のパフォーマンス練習。朔也はぐっとくちびるを噛みしめ、冷たい体育館の床で正座して自問を繰り返した。
どうして? おれのなにが悪かった? おれの字になにが足りなかった? 自主練にも必ず参加していたおれのどこがいけなかったんだ?
誰も答えを教えてくれない疑問だけが頭を渦巻いて、筆を持つ部員たちを食い入るように見つめることしかできなかった。
書道パフォーマンスはチームワークで行うものだ。試合する横のベンチで応援するスポーツ選手がいるのと同じように、仲間の応援も参加の一つである。だが、これまで字が上手いと褒められ、勉強や運動でも上位にいるのが当たり前だった朔也は、人生最大の挫折を味わうことになった。
練習は予選通過の興奮のうちに終わった。選ばれなかった部員たちは顧問から一人ひとり励まされ、朔也も労いとともに助言された。これからは上手い字だけでなく味のある字も書けるようになりなさい、と。
これまで手本に忠実に書くことで褒められてきた朔也は、価値観が足元からひっくり返されて全てがガラガラと崩れていくような気がした。
あとのことは覚えていない。ショックと混乱でなにから考えればいいのかも分からず、誰とも話せずに一人きりこもってしまったのだ。
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