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第38話 音叉

次の瞬間、彼の両手がどんっとこちらの胸を押しやった。腕からすり抜けて手ぐしで髪を整え、なにも言わずに立ち上がる。ポケットから出てきた白いマスクが表情を隠した。  なんで、どうして、山宮、なんで。  ベンチに座りっぱなしの朔也が彼の顔を目で追いかけると、山宮はポケットに手を突っ込んで吹いた風に寒そうに首を縮めた。 「それでは折原君は恋愛ごっこから卒業デス。本日までお疲れサマデシタ」 「……山宮、どうして」  朔也の震える声に、こちらを見た寂しそうな目元が笑った。 「思い出したわ。委員長が言ってたぜ。お前、普通じゃねえって思われるのが嫌いなんだってな。男と付き合うなんて折原の普通に入ってねえだろ」  こちらの肩にぽんと手を置き、屈み込む。伏せられた山宮の黒い睫毛が目の前に迫り、くちびるへマスクの布越しに一瞬温かいものが当たった。  キス、された。  驚きにひゅっと息を吸い込むと、マスクの中でふっと息をつく音が聞こえた。 「……卒業記念授与。じゃあな」  じゃあな。  キスとその言葉の意味が分かったとき、山宮の姿は公園から消えていた。糸が切れたように体が動かず、ベンチに座り込んだまま空を見上げる。いつの間にか辺りは薄暗くなっており、闇色に沈んだ木々でギザギザに切り取られた空に半月が浮いている。  寒さの増す中、真っ二つに割れてしまった心と同じ形の月をぼんやり見上げていると、たたたっと駆ける足音が近づいてきた。 「朔ちゃん!」  その声にそちらを見ると、口を開けて走ってくるオレンジ色のマフラーの今井がいた。東屋まで来ると膝に手をつき、はあはあと息を整えて額を拭う。 「今井、どうして……?」  大きく肩で息をついた彼女が息をあげ、戸惑ったような表情で手にしたスマホを見た。 「山宮君から電話がかかってきて、公園に朔ちゃんがいるから迎えに行ってやれって。自主練の片づけが終わったところだったから、急いで学校から走ってきたの」  今井が説明しながら再び手で額を拭った。本当に急いで来てくれたのだろう、額に張りついて前髪はばさばさで、何度も肩で息をついている。朔也の胸が先ほどとは別の意味で締めつけられた。 ――今井はいい子だ。昔からそうだった。おれはそれを知っている。  不意に口から「ははっ」と乾いた笑いが漏れた。 「山宮ってバカだな。引導を渡して人のお膳立てまでして……本当にバカだ」  朔也の呟きに彼女がますます困惑したような顔をした。 「ねえ、どうしたの? 山宮君にかけ直してもつながらないし。なにかあったの?」 「……なんでもない。今井は遅くなる前に帰ったほうがいいよ」  だが、彼女は引き下がらなかった。 「朔ちゃん、ひどい顔してる。山宮君の声も変だったし、朔ちゃんも山宮君も絶対におかしい。あたしを巻き込むならちゃんと話して」 「……山宮の話はやめよう。今、話したくない」  次第に、朔也の体が芯から震え出した。  なんだよ、なんなんだよ。罰ゲームの告白で始めてあんなキスで終わらせて、ずるいのは山宮じゃないか。歩み寄った途端に離れていくなんて、そんなの、ひどいだろ。 「……だって、あいつ、ホント意味分かんない」  唾が飛ぶような勢いで言葉が飛び出した。  先ほど手に感じていた山宮の髪と肌の温度がいつの間にか消えている。何度握ってみても、もうなにも掴めない。ようやく共鳴した心の音叉がポキリと折れてしまった。 「あんなに何回も好きとか言ったくせに、今井には本命だとまで言ったくせに、おれのこと引っぱたいたし、お守り突き返すし、性格悪いとか字が下手とか……もう好きじゃないとか……今更、そんなこと言って……おれはちゃんと向き合おうとしたのに……」  必死に堪えようとしても口がわなないて、怒りが、悲しみが、目蓋の裏に押し寄せる。と、「朔ちゃん」と声がした。目を開けてみれば今井がくちびるを噛み締めていて、朔也にも彼女がなにを言おうとしているか分かった。 「朔ちゃんが山宮君と向き合ったなら、あたしもそうするね。……あたし、ずっと朔ちゃんが好きだったんだ」  いつもは明るい今井が声を絞り出すようにそう言った。 「……うん、知ってた。気持ちを無視してごめん」 「書道も勉強もなにに対しても、努力を惜しまず諦めないところがすごいと思ってた」 「……うん、ありがとう」 「同じ高校を志望してるって分かったとき、すごく嬉しかったよ」 「……おれも心強かったよ」 「罰ゲーム、山宮君がふられればいいのにって心のどこかで思ってたの。ひどいよね」 「……そう思っちゃうよね」 「でも、山宮君は諦めなかったし、朔ちゃんは山宮君に向き合うって決めたんだもんね。あたしも応援しなきゃ」  今井は目をこすってから笑みを浮かべ、レモン色のハンカチを差し出してきた。 「朔ちゃんは、どうして山宮君に怒ってるの? 好きじゃないって言われたから? 好きだって言ってほしかったの?」  囁くような優しい声色に感情が溢れ出して、コートに落ちた涙が玉を作って転がった。 「どうしよう今井」  おれ、山宮が好きなんだ。

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