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第41話 温かさ
病院から学校に戻ると夕日の眩しい時間になっていた。担任に戻ったことを伝え、職員室を出てまっすぐ書道室へ向かう。だいだい色に染まる廊下や階段を歩くと、上履きがリノリウムの床の上でぺたぺたと足音を立てた。部活に精を出す生徒の声が鉄筋の校舎内に反響する。
朔也は廊下突き当たりの書道室まで来て、足を止めた。カーディガンの襟に留めていたピンで前髪をびしっと留め、よし、と自らを叱咤して扉を開ける。ガラッという大きな音とともに声を出した。
「遅くなりました! 本日もよろし」
「折原君! 大丈夫⁉」
朔也の言葉を遮って真っ先に駆け寄ってきたのは顧問だった。テーピングを巻いた朔也の手をとり、眉を寄せる。
「体育の時間に怪我したって聞いたけど。お医者さんはなんだって?」
心配そうにこちらを見上げた顧問の後ろで、今井を含む部員が皆一同に筆を持つ手を止めて息を呑んでいた。
「――すみません!」
次の瞬間、朔也は頭を下げた。
「すみませんでした! 自分の不注意で、先生や部員全員にご心配とご迷惑をおかけすることになってしまい、本当に申し訳ありません! 本当に……いつも役立たずで」
朔也の手をとっていた顧問がぎゅっと手に力を込めた。それに顔をあげると、顧問が心配そうな顔つきで口を開く。
「お医者さんはなんて? どれくらいで治るって?」
「……あ、ええと、軽度の突き指で……アイシングと自分でできるリハビリをやれば、一週間くらいで治ると言われました」
朔也の答えに書道室内がわっと沸きかえった。
「よかった、本当によかった!」
「折原君、皆心配してたんだからね」
「今井ちゃん泣かないで」
「朔、ちゃんとリハビリしてよ?」
いつも叱咤を飛ばす厳しい顧問が温かい手で朔也の右手を握った。
「全員でいいパフォーマンスにしよう! 練習頑張ろう!」
「……すみません」
顧問の言葉や皆の笑顔に涙が溢れた。慌てて左腕で押さえると、カーディガンの毛がちくちくと顔を刺す。
「おれ、すみません、こんなことで、泣くとか、恥ずかしい、ホント、すみません」
すると後ろで部長がぷっと噴き出し、今度は書道室が笑い声に包まれた。
「泣いていいぞ~先輩たちがよしよししてあげる」
「今日決めたところを話そう」
「うん、パフォーマンスの話をしよう。涙拭いてさ! ね!」
涙腺が壊れたようにとめどなく涙が流れる。だが、それは悲しいからではない。嬉しいからだ。
山宮の言う通りだ。皆が支えてくれる。おれは一人じゃなかった。書道パフォーマンスは、全員の心を合わせるものなんだ。部活を超えて、山宮も一緒に。
気づかぬうちに朔也は何度もありがとうございますと繰り返していた。
「ただいま」
コンコンとノックして放送室の扉を開けると、そこにはいつも通り、床に座り、椅子を机代わりにしてプリントに取り組んでいる山宮がいた。
「まだ下校時刻まで時間あるぞ。書道部はいいのかよ」
保健室の前で見せた激情は既になく、淡々とした様子の彼に朔也はテーピングの巻かれた右手をひらひらさせた。
「今日は怪我の報告とパフォーマンスについて話をしただけ。皆はまだ書いてるけど、おれは帰っていいってさ。早く帰って治せって」
朔也の言葉が途切れると自然と会話も切れた。が、目は合ったままだ。朔也は床を指さした。
「あがっていい?」
「……今更だわ」
「だよな」
こちらをじっと見続ける山宮の前で鞄を床に置き、少し間を開けてすとんと隣に座った。改めて室内を見回す。数ヶ月前までよく知らなかった部屋と、よく知らなかったクラスメイト。いつからこの位置が安心できる場所になっていたのだろう。
「それ、なんのプリント?」
朔也が問うと、彼はいらいらしたようにマスクをむしり取ってexplainと書いた。
「英単語テストのペナルティプリント。exラッシュがうぜえ。俺の脳からアルファベットがログアウトしそうだわ」
「英単語の暗記が苦手なの?」
「言ったろ、xとyが登場してから俺の世界は謎に支配されてんだよ」
不満たらたらといった口調で山宮が吐き捨てる。それ、数学の話じゃなかったのか。そう言おうとしたが、彼の目線が右指に注がれているのに気づいた。病院のにおいが染みついたような、真っ白なテーピングでしっかりと巻かれた指。
「……早く来て正解だって病院で言われた。冷やして様子見ながら曲げる練習すれば、一週間くらいで治るって」
「そうか」
ほっとしたような吐息が落ちる。生徒の話し声も部活の物音も遮蔽されて聞こえない小さな部屋は、校内でトリミングされた二人だけの空間だった。
「先生も皆も心配してくれてた。怪我なんて不注意だって怒られるかと思ったけど、全然そんなことなくて。おれは自分を書道部に貢献できないお荷物だと思ってたけど、皆はそう思ってなかったみたい。卒業式に向けて全員で頑張ろう、だって」
「そんなの、当たり前じゃね」
「今井が山宮君も一緒だね、だってさ」
「……あいつはそういうやつなんだよ」
ため息混じりの声が消えると、放送室内がしんとした。外は二月の寒さなのに、陽だまりのように温かく感じられる。朔也はミキサーの向こうで閉められたカーテンを見た。
「卒業式パフォーマンスのとき、そこのカーテンを開けるの?」
「じゃなきゃ校庭が見えねえわ。音楽を流すタイミングとか、アナウンス開始のタイミングとか、書道部に合わせなきゃなんねえし」
「そっか。……山宮」
朔也は紺色のセーターの肩に頭を載せた。びくっとその肩が揺れたが、朔也はその温かさに綻んだ。
髪に山宮の頬を感じる。熱が伝わってくる。温かい。人ってこんなにあったかいんだ。どうしてそんなことを知ろうともしないで人と壁を作っていたんだろう。
「ありがとな。山宮がいなかったら、おれ、今日で終わってた」
「……大袈裟。病院に行けって誰でも言うわ」
「それだけじゃないよ。地球の裏側まで落ち込んで一人で殻に閉じこもるところだった」
「またトイレに閉じこもられちゃかなわねえわ。つらいときはつらいって言えばよくね。お前が思ってる以上に周りはちゃんと」
そこで山宮の言葉が途切れる。肩に頭を載せたままちらりと彼の表情を見ると、やはり夕日に照らされているかのように頬が染まって見えた。
「ちゃんと、た、たいせつ、に思ってる、わ……」
朔也は目を閉じた。互いの心音と息遣いが聞こえる距離に胸がいっぱいで、目蓋を開けられない。
「……下校放送まであとどれくらい?」
「三十九分四十二秒」
「……こうしてていい?」
すると少し間を置いて朔也の指につんと爪が当たったのが分かった。そっと薄目を開けて手元を見ると、自分の手の数センチ横で山宮の指が迷っている。そっと指先を絡めると、小さな手はしっかりと握り返してきた。細くて、節のしっかりとした手だった。
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