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第27話
破れたワイシャツを隠すように、たまたま持っていたジャージを羽織り、チャックを首元まであげた。それでも不安で、カバンを胸の前で抱きしめるようにして歩いた。
オメガ寮が見えてきたとき、一呼吸つくことができた。
早く、熱いシャワーを浴びて、寝てしまおう。いつも、そうしてきた。
きっと大丈夫。
そんなことに心がいっぱいで、頭はずっとガンガンと痛む。髪の毛は乱れ、芝生がズボンにこびりつき、ジャージの首元からは噛み痕が見えていることなど気にする余力はなかった。とにかく、早く安心できる場所にたどり着くことだけは今の僕の目標だった。
「七海」
寮の入口がこうこうと光っている。その光に虫たちがぶつかっては弾き飛ばされている。その奥の暗闇から、長身の彼が現れた。思いがけぬ登場に目を見張ったが、力なく笑い隣を通り抜けようとする。
「ご、ごめんね、佳純…大丈夫だから…」
ぬ、と目の前を何かが横切る。行き先をふさぐように、僕の前に腕を伸ばし、寮の入口のサッシに佳純は手をついた。
「ど、うしたの?佳純…僕は、大丈夫だから…」
頭の中は整理ができなくて、ぐるぐるとぼんやりしたものが回っているだけだった。とにかく、部屋に帰りたかった。それなのに、身体は嫌でも彼の匂いを感じてしまう。
「なん、でもないよ…だい、じょうぶ…」
鼻腔を甘い匂いが埋めると、ぼろぼろと涙があふれた。
「大丈夫…明日には、大丈夫だから…」
「ごめん」
そう囁く彼に驚いて、振り返る。眉尻は下がり、苦し気にゆがめられた顔は、泣いているのかと思った。
「七海…」
震える熱い吐息が僕の頬をかすめた。その瞬間に、僕は笑むようにと叱り張りつめていた顔の筋肉を緩める。眉は寄り鼻に皺がより、ぐしゃりとゆがむ。そして、彼の胸元に飛び込んだ。人目があるかもしれないが、僕らはきつく抱き合った。その間、佳純は、僕の名前を大切に囁き続けた。その声や温度、そして匂いに僕は全身で彼に縋った。
「佳純、佳純…」
きつく彼の背中の回した手でワイシャツを握りしめる。頬を擦り付けると彼の体温に涙が溶けた。ぐ、と彼の身体がさらにかがみ、体重をかけてくる。まるで、世界から僕を隠すようにする仕草にじわじわと心に温度が戻ってくるのを感じた。
涙が止んでも、別れたくなくて、お互い手を握り、寮から離れた。あの映画を見に行った日に待ち合わせをした公園にいった。街灯がまちまちに立っていているが、月明かりの方が強く、噴水の水はきらきらと反射していた。ベンチに腰を下ろすが、手を離すことはできなかった。お互い、何も口にしなかった。何度か隣で佳純が喋ろうとする呼吸が聞こえたが、すべては飲み込まれ、声になることはならなかった。
ちちち、と虫が鳴いている。
「なんで、ごめんって言ったの?」
噴水の反射を見つめながら、尋ねた。自分でも驚くくらい、冷静な声が出ていた。佳純は、じ、と僕を見つめているようだった。
「…あの時、俺が無理やりでも止めておけばよかったんだ」
「違うっ!佳純は、僕を尊重して、僕の言葉を信じてくれたんだ」
は、と息がつまり、背もたれにもう一度ゆったりと座りなおした。佳純は、そっと僕の頬を親指で撫でた。ひや、と手のひらが頬を包み、その冷たさに頬が熱を持っていることに気づいた。一度まばたきをしてから、佳純を見る。
「…七海に、大丈夫だと嘘をつかせてしまう自分が憎いんだ」
月明かりに照らされた佳純は、幻想的で儚げで、ここからいなくなってしまうのではないかと不安になるようだった。雲が流れ、月明かりが消える。暗い闇の中で、まなざしをしかめた佳純は、数回呼吸をして、小さな声でつぶやいた。
「俺の前だけでは、嘘をつかせたくない」
どうして、と次の言葉を待つ。優しく、何度も確かめるように、彼は親指で頬をなぞる。僕は、消えたりしないのに。ざ、と秋風が僕と佳純の間を通り過ぎた。雲が晴れ、月明かりが僕らを照らす。光がじょじょに彼を照らし、シルバーのピアスがきらめき、高い鼻が影をつくり、彫りの深い切れ長の目が見える。まっすぐ佳純は僕を見つめていた。
「俺は…七海が泣いていると、どうしようもなく…苦しいんだ…」
身体が倒れるように、佳純のもとに触れる。ぐ、とうなじに添えられた手が僕を引き寄せる。
「泣くな」
佳純の息のつまり苦しむような声と共にそう告げられ、頬を秋風がかすめて、僕は泣いていることに気づいた。
「七海…」
どく、どく、といつもより早い心音が聞こえる。匂いが、ぐと強くなる。大きく息を吸い込む音が胸元から聞こえた。それが声になる前に、僕は言葉があふれてしまった。
「好き…」
びく、と彼の身体が反応し、硬直した。あふれる涙と同じように言葉が止まらない。
「佳純、佳純が…好き…好き…」
ふ、と身体の奥からこぼれるような吐息が漏れる。シャツにしがみつき、何度もつぶやいた。ゆっくりと顔を上げると、涙でにじんだ視界の中で彼が見つめていてくれることはわかった。
「キス、して…」
両手で彼の美しい顎に触れる。目の前には、湿り気を帯びた甘い唇がある。その震える唇から漏れる吐息は、とても熱い。
「佳純と、キス、したい…」
はらりと涙が一粒こぼれると視界がややクリアになった。明るい月は、僕の涙を噴水の水面のようにきらきらと反射させ、彼の顔は逆光でよく見えない。その影が、時間をかけてだんだんと大きくなり、近づいてくる。
「七海」
唇がかすめるような至近距離で佳純が僕にしか聞こえない声で囁いた。
「好きだ…」
甘い彼の匂いに吐息をつこうとしたら、それごと熱い唇に吸い込まれてしまった。ちゅ、と控え目な音がして、温度が遠ざかっていく。揺らぐ睫毛を持ちあげると、頬を赤く染め、じりつき潤む瞳に映る僕が見えた。
「好きだ」
もう一度、僕をとらえて、囁く。身体の奥底から、びりびりと痺れ、頭の先から爪先まで甘い快感がたゆたう。心臓が痛いほど鳴り響き、呼吸が乱れる。佳純は、柔く顔中にキスを注ぐ。額、瞼、頬、こめかみ、顎先。そして、首筋に、熱く吸い付く。その度に、愛をつぶやく。あふれる思いを言葉少なに伝えあう。
「泣くな、七海」
首裏をきつく吸われ、ん、と声が鼻から抜ける。佳純の肩に頭を押し付け、きつく抱きしめる。
「大丈夫だよ」
その言葉を聞くと、佳純は僕の肩をやんわりとつかみ、顔を見つめた。その顔が、情けなくゆがんだ顔つきだったので、穏やかに僕は笑ってしまった。
「嬉しいときも涙が出るから」
本当の気持ちを伝えた。
佳純は、それでも心配そうに見つめてきたが、その真摯な眼差しが嬉しくて、唇に吸い付いた。すぐに離れようとしたのに、唇が追いかけてきて、角度を変えて、吸い付くだけのキスを何度もされた。
「そうされると、何も言えなくなる…」
少しすねたように、つぶやく彼がかわいくて、もう一度微笑んだ。表情が読めないことの多い彼が、こんなに言葉多く語り、表情でも匂いでも、全身で僕への愛を歌っている。嬉しくて嬉しくて、もう一粒、涙がこぼれた。地に足がついていないような浮遊感と、月が彼と僕を照らし、虫たちが美しく鳴く秋の夜が幻想的で、二人だけの世界にもうしばらく漂っていた。
温かい身体に包まれたくて、胸元に飛び込むと、彼は僕の欲しい温度を惜しげもなく与えてくれる。好き、とつぶやくと、彼は少しためらってから、好きだと耳元でとても小さな声で囁く。何度も繰り返すが、何度も答えてくれる。好き、では足りない気持ちがあるのだ、と生まれて初めて知った。言葉にできない彼への思いは、どうしたら表すことができるのだろうか。出会った頃から大好きでたまらない彼の甘い匂いが僕の身体に染み込んでいく気がした。
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