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第33話

 次に意識が戻った時はあたりは薄暗かった。身体は綺麗にされているが、痕にまみれた身体は醜かった。後ろはまだ何かが挿入されている気がして落ち着かない。情けなくて悔しくて、悲しくて寂しくて、流し続けた涙はもう枯れてしまい、頭はずっと霞がかっていた。だんだん感情も鈍くなってきた気がする。動くたびに繋がれた鎖がちゃりちゃりと音を立てる。まるでペットだ、いや奴隷か…、と思うがそれ以上の感情は湧いてこなかった。  もう、死んだ方がいいのかな。  なんで死にたいんだっけ?何か、僕には守りたい、温かい存在があった気がする。  頭を働かせようとすると、ずきんずきんと頭が割れるように痛んだ。 「うっ、ぐぅ……っ」  頭を抱えるようにベットの上で一人、丸くなる。冷たいシーツの上で、呻き声をあげ痛みに耐える。  ごめんなさい。もう、何も考えないから、許して…  心の中で何度も唱えると、痛みが引いていく気がした。は、は、と短く呼吸をして、身体に酸素を送り込む。ぼた、とシーツに水滴が落ちた。何かと思うと、睫毛が濡れていることに気づき、まだ泣けるんだと他人事のように思った。  かちゃり、と控えめにドアが開き、一瞬だけ廊下の明かりが部屋に入る。すぐに静かにドアは閉められ、足音を殺して誰かが近づいてくる。でも、別に誰であっても構わない。彼らのうちのどちらかなのだから。ぼー、と水滴を吸い込んだシーツを眺めていると、ぼんやり何かが聞こえた。視界が急に揺れる。顔を掴まれて、目線を無理やり合わせられる。朦朧としてわからなかったが、時間をかけてようやく識別が出来た。目の前には、美しい絹のような艶のある金髪、濡れているようなどこまでも深く続き吸い込まれそうなサファイヤのような瞳、真っ白だが桃色が入った淡い肌。誰がどう見ても美しいと判断する少年が、僕の肩を揺さぶり、顔を掴み、何が小声で話しかけている。 「だれ……しゅぅは……よぉすけは……?」  焦点が合わず、すぐに視線はどこかに行ってしまう。ぐらつく身体は簡単にベットに倒れ込もうとする。  ばしん、と脳が揺れたと思うと、左頬がひりひりと熱を持ち、口の中で鉄の味がする。久しぶりに感じる味覚と痛みに、思考が流れ込んでくる。 「しっかりしろ!」  そうだ、これ、前にもあった。  訳もわからない理不尽な暴力。  前もこうやって、頬を殴られた。  人生で、二回目だ。  そうだ、彼は、このにおいは、あのオメガだ。  学園の転校生。  ぽつぽつと頭が回る。しかし、次の瞬間、殴られたかと勘違いするほどの強い痛みが僕を襲う。顔を顰めるも、顎を掴まれているので蹲ることも許されない。かすむ視界で、目の前の天使のような少年を見る。 「あんた、こっから出てって」  どういうこと…  僕は、なんでここにいるんだっけ…? 「こっから、逃してあげる」  逃げるって、何から…?  今にも零しそうな涎を見て、彼は顔を顰める。手早く僕には大きいシャツを一枚着させて、左手に繋がれていた手錠の鍵を差し込み、がちゃ、と音を立てて鎖が落とされた。その瞬間にあれだけ重かった身体が軽くなった気がした。 「あの優秀なアルファたちは、僕のものだから。ここは、僕のいるべき場所なの。あんたじゃない」  彼の言ってることが理解できるほど頭が回らない。わからないけど、彼にとって僕は邪魔者なのだということは、なんとなく感じた。久しぶりに歩く足は膝が震えて、もつれて何度か転んだ。それでも、彼に腕をひっぱられ、引きずられるように外へと続く出口に連れてこられた。そして、投げ捨てるように外に追いやられると勢いよく扉が閉まり、僕は真っ暗な森の中に一人になった。  頭がモヤがかって何も考えられない。ただ呆然と立ち尽くしていると、ぱつ、と頬に何かが弾けた。見上げると、真っ黒な天井の見えない空から雫が落ちて、眉間にぶつかり跳ねて散る。下着も身に着けず裸に、首輪をつけて、たった一枚の大きい白いシャツを羽織らされ、裸足のままの足裏に砂利が食い込み痛みを感じた。久しぶりに出た外では、木々が落葉を半分は終わらせており、急に寒さに鳥肌がたった。  このまま死んでしまうのだろうか。どこともわからぬ、この山の中で。睫毛に雫のかかり、まばたきをすると頬の上を滑り落ちていく。まるで涙のようだと、回らない頭が考えはじめた。少しずつ、雨を受け、む、とする湿り気を帯びた土の匂いをかすかにかぎ分けていく。遠くでエンジン音が聞こえて、その音の方へとふらつく足で一歩一歩踏みしめるように足を進める。  このままなら、死んでもかまわない。でも、僕は足を進める。なぜだかわからないが、僕は、ここでは、死にたくような気がしていた。  林が鬱蒼と茂る中で、狭いコンクリートの道に出た。木々の隙間からぼんやり小さな光の粒が見え、蛍のような淡い光だと、じと見つめた。だんだんと身体の末端は、感覚を失いはじめている。身体も冷え、手を見つめるとふるふると指先が震えている。風が吹くと雨粒が数を増し、僕を叩きつけ、体温をより奪う。その中に、ふと、匂いを感じた。甘い、匂い。音が聞こえて、真っ白な世界に急になった。手をかざすと、それは強い光だとわかった。 「な、な……」  光の奥に、誰かがいるようで、声が聞こえる。光は、大型のバイクのヘッドライトらしい。それは、大きな音を立ててコンクリートに倒れた。その音に肩をすくめ、瞼を固く閉じた。 「なな、み…?」  ライトがその人物に遮られ、僕を刺す光が減り目を凝らす。ライダースを来た男は、バイクにスタンドをかけることなく、そのまま投げ捨てるように倒し、僕にゆっくりと近づいてくる。雨がばちばちと弾けて、彼の大きな身体をかたどるようだった。さっきの甘い匂いが、ぐと増して僕を包み込んだ。懐かしい、と心が唱えた。知っているんだっけ…この匂い…わからない…。  白いもやがずっと付きまとわっていった頭の中が少しずつ拓けていく。 「七海…」  そうだ、僕はこの匂いを知っている。ずっとずっと、探していたんだ。 「七海」  そうだ、僕はこの声を知っている。僕の名前を大切に大切に呼んでくれる、温かい声を知っている。  顔を見上げると、とがった顎先、筋の通った鼻、彫りの深い目元、切れ長の目尻、そして、優しくも熱を持った瞳。  そうだ、僕は、彼を、ずっと待っていたんだ。  ぼろ、と大粒の涙がこぼれると、何も言葉にできなかった唇がか細く声を発する。 「か、すみ…」  木々に打ちつく雨音にかき消されてしまいそうなほどの情けない声だった。彼の後ろでは、先ほど倒されたバイクが、ど、ど、ど、とエンジンを動かせている。その音にもかき消されてしまったかもしれない。 「七海…」  散った小さな雨粒の残骸が唇に触れて、はっと気づく。佳純がおそるおそる手を指し伸ばし、僕の顔に触れようとして雨粒がぶつかった。その瞬間に、僕は両手で彼を突き飛ばす。 「だめっ!」  渾身の力を込めたはずだったが、佳純は小さく後ろに下がっただけで突き飛ばすことは出来なかった。手のひらをあてがったライダースは痛みを感じるほど冷たく、水滴で濡れていた。 「…、七海」 「だめっ、来ないで…っ」  佳純は一瞬、目を見開くがすぐに眉間に皺をよせて、柔く僕の名を呼んだ。僕は精いっぱいの声を振り絞るが、彼は相変わらずゆっくりとゆっくりと、手のひらを近づけてくるのだ。 「だめ、だめ…もう、ダメなの、佳純…やめて…」  手を振り上げて、思い切り胸板を叩く。僕の拳は彼を動かすことは出来ず、一瞬止まるだけだった。 「もう、僕、佳純のそばにいられない…いちゃいけない…」  僕は、ずっと、佳純の隣にいたかった。  佳純の恋人でありたかった。  胸を張れるような、恋人でありたかった。  佳純にためらわずに、キスできるような人間でありたかった。 「だめなの…もう、僕は、僕じゃないんだ…やめて…やめ、てぇ…っ」  頭が割れるように強く痛む。雨粒がぶつかる度に剛速球のパチンコ玉を受けているような錯覚がする。脈打つ度に頭も、心もいっそ壊れてしまえれば楽だと思うほどに痛む。 「七海…」  苦しそうな彼の声で名前を呼ばれる。痛みを無視して、頭を強く横に振ると、ばらばらと涙が散った。もう一度、拳を押し付けるが、その手は固い身体に押しやられ、それごと抱き込まれてしまった。 「離してぇ…佳純…僕、もう…もう…やだ…ぁ…」 「ごめん…」  掴まれた両肩が骨に響くほど強く抱きしめられる。その痛みが、僕の心の奥に熱を持たせる。顔を埋める胸元では、ちゃり、とシルバーのネックレスが音を立て、彼の甘く、芳醇なフルーツのような香りが溢れる。身体の奥がその匂いに溶かされ、膝が笑い彼の力がないと、ここに立つことさえできない。 「…佳純、佳純…っ」 「七海…っ、ごめん」  耳裏に熱い吐息が震えている。その温度に、全身の痛みが和らいでいく気がする。 「ぼ、く…待ってた、のに…佳純のこと、ずっと、待ってたのに…」  無理やり発情を促され、たまに明瞭になる頭で何度も唱えた。この地獄のような空間に、僕を助けにくる佳純のことを。 「ごめん…ごめん…七海…」  どんなに辱めを受けても、僕の呪われた性のせいで僕の意思は彼らに伝えることができなかったんだ。  でも、それらも含めて、僕を愛してくれた佳純がいたから、今ここに僕がいるんだって思った。いつからか、それは、遠い過去の記憶だと思うようなった。  僕を愛してくれたあの時間が、遥か彼方の、おとぎ話のような古い物語な気がした。もしかしたら、僕のつくった妄想話なのかもしれないと思った。  佳純の存在が過去になり、僕の中では幻想と化し始めたことに絶望した。  だけど、抱きしめる腕の強さから、目の前の匂いから、両手を回して縋りつく広い背中から、彼が今、僕の目の前に、ちゃんと存在していることを確かめる。  腕がやや緩み、彼の端正な顔に指を這わす。柔らかい唇も、高い鼻も、シルバーのピアスが光る形の良い耳も。全部、今、熱をもって、目の前にある。その手を握りしめ、佳純は震える唇に手のひらを押し付けた。長い睫毛を伏せると、彼ははらはらと雫を落とす。瞼を持ちあげると、目を真っ赤にして、惜しみなく涙を流す。 「ごめん、七海…」 「ぼく、ぼく…っ」  もっと、彼の顔を、瞳をよく見たいのに、どんどん雫があふれて、視界がにじむ。嗚咽のせいで呼吸がちゃんとできずに苦しい。手のひらから伝わる彼の吐息も非常に乱れていて、時節、苦し気に息をつく。 「ずっと…ずっと、佳純を待ってた…」 「うん…」 「ずっと…ずっと…あいたかった、んだよ…」 「ごめん…」  あの陽だまりのような、温かい二人だけの教室で、いつも変な雑誌を読む佳純をからかって、仕返しに嫌味を言われて、怒った僕が彼にパンチする。そうすると優しく微笑む佳純は、僕の手を握りしめて、抱き寄せて、甘くキスをするんだ。それで、僕は欲深いから、もっと、触れ合いたいのにって心の中で一人ですねる。そうした毎日が、大好きだった。当たり前のように、明日も明後日も、そうやって佳純と過ごせると思っていたんだ。  佳純に甘く囁かれて、抱きしめられて、うっとりとキスをする。僕は、佳純がいてくれれば、どうだって良いと思ったんだ。 「佳純は…僕の…運命、でしょ…?」  つ、と顎先から雫が垂れ落ちるのを、唇で吸い取る。 「七海…」  熱い吐息が、上唇にかかる。 「絶対に離さない…」  そして、その言葉を誓うように、佳純は唇を重ねた。やっと触られた佳純の唇の柔らかさ、熱さ、甘さが、じっくりと時間をかけて、頭を通り、背中を落ち、腰に届き、足先を痺れさせた。ずっと、こうしていたい、と強く願う。  さっきまであんなに乱暴で冷たく感じた雨は、僕たちを世界から隠してくれるように包み込む優しい雨のような気がして、彼と目を合わせ柔く微笑み、僕は意識を失った。

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