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第35話

 ここは、いつでも温かい日差しが惜しみなく降り注がれている。そして、何の歌かはわからない鼻歌が聞こえる。いつもの彼の花冠はほとんど仕上がっていた。 「すごい!もう完成だね」  身を乗り出して彼の手元をのぞくと、少年はえへへ、と照れくさそうに笑った。 「お兄さんが寝てる間に、どんどんできちゃったよ?」  えっへん、と鼻を鳴らして、一人でからからと笑う少年は、愛されて育ってきたまぶしさを持っている。 「でも、最後のしあげが一番むずかしいの」  確かに、編み始めの方の花は、だんだんとしおれて、覇気がない気もする。 「最後、自分が納得するものにするのが、むずかしいの」 「充分、立派だと思うけどな…」  本心だった。こんな拙い手つきでここまで立派な花冠を最後までぐるりと結べたことが立派だと思った。  少年は柔らかい表情のまま、首を横に振った。 「だめなの。だいすきなひとにあげたいから」  自分が納得できるものじゃないと思いは伝わらないの、と少年は年齢不相応な瞳で訴えた。  見た目からして、五歳ほどの小さな少年は、思い人のために、最後の方は、何度もほどいて何度も結びなおした。その一生懸命で健気な姿に、自分のことを見つめなおした。  僕にも、大切な人がいる気がする。  何度もほどいては、何度も丁寧に結びなおして、自分が納得するまで思いをたくさん詰め込んで届けたい、相手が…。 「僕にも、できるかな」  小さく心の中でつぶやいたつもりだったが、声に出ていたようで少年は僕に振り返った。じ、と丸い大きな瞳で見つめたあと、目を細めて顔を綻ばす。 「僕ならできるよ」  少年が立ち上がり、僕の目の前にくる。  どういうこと、と聞き返そうと口を開けると、頭に何かを乗せられる。 「たくさん思いをこめて編めたよ」  えへへ、と赤く染めた頬を甘い笑顔を見せる。少年がたくさんの思いを込めて仕上げた花冠は見事に完成したのだ。 「早く、佳純に届けてね」  少年が笑顔でそうつぶやいたので、目を見開き、より強く聞き返そうと思ったのに、世界がぐにゃりとゆがみ、少年が遠ざかっていく。それは、僕が背中を何かの力で引っ張られているからそう見えていることが、だんだんとわかっていった。黒い世界に僕は飲み込まれていく。 「どういうことっ?君はっ…」  遠くで穏やかな緑を背景に少年は僕に満面の笑みを浮かばせながら手を振っている。 「ちゃんと僕をしあわせにしてあげてねっ」  大きな声で少年が叫んできて、また手を振る。  そうか、今気づいた。  あの少年は、僕だ。子供のときの僕。  震える瞼は、重さはあったが持ちあがった。辺りは暗い。まだあの、真っ黒な世界にいるのかと思ったが、体温を感じる。振り向くと、大きな身体が僕の横で眠りについている。穏やかな寝息を立てて、僕を抱きしめている。重い腕に手をあてると、より身体を引き込まれた。起きているのかと顔を見上げても、彼も長い睫毛を伏せたままで、寝息をついている。とくとく、と彼の心音が聞こえて、甘い匂いが漂う。温かい温度が僕を安らげる。 「佳純…」  久しぶりに声帯が鳴り、かすれるように小さく小さくつぶやかれた。その音に目の前の男の瞼がぴく、と動いた。起こしてしまったか、と少し身体が固まったが、彼は小さく微笑んで、僕を抱えなおして満足そうに寝息をたてた。その小さな反応に、身体の奥から熱があがり、この身体がちゃんと生きて熱を発しているのだという安心感を彷彿させた。瞼を降ろして、彼の胸元に顔を埋める。その瞬間に、小さな雫がこめかみを通して、彼の衣類に吸い込まれた。    ゆっくりとまばたきをする。久しぶりに、ぐっすりと眠りにつけた気がした。今までは、あの野原の世界と、こっちの世界を行き来している感覚しかなかったが、今、ようやく、眠りにつけたと実感がわいているような気がした。  手を起こし、ぐ、と握り、指を開くを繰り返す。やや違和感はあるものの、今までのような鉛玉がついているような重さはない。  顔を横に倒すと、もうすっかり日が昇っていて、部屋にさんさんと日差しを与えていた。昨日、隣で体温を分け与えてくれた男は、もう起床しているようで、ベッドにはいなかった。  力を入れて身体を叩き起こすが、関節のところどころがぎしついて、上半身を起こすだけでやめてしまう。どれだけの時間を、自分はベッドの上で過ごしていたのだろう。ぼんやりと窓の外を見つめる。重なって見える木々は葉を落としきり、寒そうだった。しかし、室内は空調が適度であり、全く季節を予想させない。ここは、どこだろう。寮の自室の三倍は裕にある。ベッドも、一人で寝るには広すぎる大きさだ。身に着けている寝間着もシルク地で心地よい。シーツも清潔で、とても自分が恵まれた環境にいることだけはわかった。遠くに青空と流れる雲が見える。どんなことがあっても、月日は巡り、太陽は上り沈みを繰り返すのだ。  がしゃん、と何かが落ちる音が急に耳をつんざき、衝撃に身体が跳ねた。 「七海…」  振り返ると、ドアから入ってきた彼が、目を見開いて僕を見つめていた。先ほどの音は、食事を持ったトレーを落としたものだったようだ。佳純が、ゆっくりと足を進め、近づいてくる。まるで、あの時のようだ、と思った。あの時って、なんだっけ…と頭をぐるぐると考えさせ、答えが出るより先に、身体が熱く大きなものに包まれた。 「七海…」  耳元で、熱い吐息と共に呼ばれた名前が身体に浸み込んでいくのがわかる。じわじわと、身体の奥に熱が落とされて、気持ちがよかった。 「佳純」  かすれた、頼りない声が喉から搾り出た。背中に手を回し、彼を抱きとめる。声が届いたのか、佳純がさらに力を込めて抱きこんだ。気持ちいい、と思った。  すぅ、と空気を吸い込み、彼の甘い匂いが身体の奥に入り込んだ途端、僕は凄まじい嫌悪感に襲われた。ど、と強い力で彼を押しやる。体力の落ちた僕の力は、大したことはなかったが、彼は伸ばされた腕の分だけ距離をとることになり、眉根を寄せて困惑していた。  僕だって、戸惑った。なぜ、こんな状態になるのかがわからなかった。  鳥肌がぶつぶつと腕にたち、背筋が凍るように冷え、頭ががんがんと痛んだ。頭痛が増し、う、とその場に蹲ると、佳純は声を上げて僕を抱きかかえようとした。しかし、彼に触れられると急にぞわぞわと虫が這うような気持ち悪さがうまれ、何も入っていない身体はえづいてしまった。佳純は突然のことに茫然と手を伸ばしたまま立っていたが、呼吸を乱し苦しむ僕を見て、急いでどこかに電話をかけた。すぐに医師らしき人がやってきて、僕の状態を観察し、点滴をうってベッドに寝かしつけた。  ととと、と点滴が落ちていくのを冷たい身体で見つめていると、だんだんと固まった身体が和らぎ、瞼を降ろした。まだ、呼吸は落ち着きがないし、眠気はないのだが、身体が少しでもエネルギーを使うことを拒んでいるようだった。  僕が瞼を閉じてからしばらくすると、医師は佳純に話をはじめた。 「…後遺症だと思われます」  佳純は、僕から一番遠い場所、入口付近にずっと立っていた。動く気配がなかったため、おそらくそこから僕を見つめているのだろう。 「フェロモンレイプに加え、薬剤を投与され強制的にアルファに服従を求められ続けた七海さんの身体は、解毒が済み正常な状態に近づきました」  よかった、僕は普通に戻ろうとしているんだ。  それなのに、呼吸は苦しいし、何もないはずの胃はずっとぎりぎりむかむかする。頭も相変わらず鋭く痛む。 「…その中で、防衛本能が正常に働きはじめ、アルファを拒むようになっている、と考えられます…」  言葉を詰まらせながら、医師は苦しそうに佳純に話をした。その間、彼はずっと押し黙ったままだった。その沈黙が、佳純の気持ちを物語っているようで、僕は早く彼を慰めてあげたいと思った。しかし、身体はいうことを聞かない。 「待つしか、待つしかありません…」  こんなに辛抱強く待たれた佳純様にそれしか言えないのがつらいのですが…と医師は苦しくつぶやいた。佳純はしばらくして、ふ、と笑うように息を漏らした。 「…いくらだって待つさ」  奥歯を噛み締めるように絞り出されたその声に、僕は涙がこぼれた。  佳純、ごめんね。僕なんかが、好きになったばっかりに、君にこんなに辛い思いをさせて…  今すぐ、佳純を抱きしめて、大丈夫だよ、ありがとうって笑いかけたい。それに返すように微笑んでくれた佳純に、じっくり唇を合わせて愛を囁きあいたい。それで、僕を佳純のものにしてほしかった。  涙がまた一筋、こめかみを伝った。

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