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第36話

 僕はまたしばらく、寝て起きて、ぼんやりとして、佳純と少し会話をして眠りにつく生活をした。少しずつだけど、食べ物も食べられるようになっていった。最初は、身体が受け付けず苦しんだが、佳純はのんびりと僕の隣で本を読んだり一緒に食事をしたり、常に待ってくれていた。それを悟らせないようにする優しさにも、じんわりと身体が温まるのがよくわかった。  触れたい、と思うのに、手を差し伸べようとすると、ぞぞ、と背筋が虫が這うような気持ち悪さがあり、本に夢中の彼に気づかれないように手を戻すことが増えた。佳純は、僕に匂いが届かない距離感を保っていた。もっとそばにいたいのに。匂いも嗅ぎたいのに、いっぱいにしてほしいのに。だけど、身体は受け付けない。それもまた強いストレスだった。 「佳純、学校は…?」  温かい紅茶を舐めながら尋ねる。ベッドの近くにある柔らかいソファに身をうずめながら、数歩先にあるソファに腰掛ける佳純は視線をひざ元にある雑誌に向けながら答える。 「今は冬休みだ」 「…本当?」  時間間隔がない僕は、うっすらと疑いの眼差しを向ける。佳純は、雑誌から目線を僕に向けた。 「本当だよ」  柔らかい表情に、どき、と身体が痺れる。 「ちなみに、明日から三学期だ」 「え?!」  衝撃のあまり、口に含んだ紅茶をこぼしてしまいそうになった。 「クリスマスも、年越しも…終わっちゃったのか…」  夏、佳純と甘いひと時を過ごしているときに、クリスマスや年越しは、恋人らしいもっと甘い時間を過ごすことを夢見ていたのに、気づいたら終わってしまっていたのか、と思うと、胸が詰まるような感覚がうまれる。 「ごめんね、佳純…ここに付き合わせちゃって…」  ソーサーに品の良いカップを戻し、膝上に手を合わせてつぶやく。いつ目を覚ましても、佳純はそばにいてくれた。せっかくにイベントごとだったのに、佳純をこの部屋に閉じ込めておいてしまったようなものだ。窓を見やると、ちらと白いものが舞い降りた。しばらくの間続いている曇天からうまれたようだ。 「俺は…七海がいればいいんだ…」  声のもとへ視線を移すと、佳純は僕と同じカップをすすっていた。言葉が身体に浸み込んで、指先からじわじわと熱を持つ。喉の奥がじりつき、息が漏れた。 「…ありがとう」  目頭に熱が集まり、視界がにじんだ。  本当は、抱きつきたかった。その大きな身体に包み込んでほしかった。耳元で愛を囁いてほしかった。あの、甘い匂いをいっぱい吸い込みたかった。そして、湿った唇をあわせたい。  それなのに、できない。  こんな身体…、と唇を食いしばる。 「七海」  柔らかいカーディガンの袖口を握りしめる指先は震えていた。優しいバリトンが鼓膜を揺らし、僕を呼ぶ。彼と瞳が交わる。 「七海が俺の目の前にいる、それでいいんだ」  眉を下げた彼が小さくつぶやく声は、僕に温かく届く。この優しさが僕を救ってくれた。彼は、僕を今でも愛してくれているんだと実感すると大丈夫な気がしてくる。 「佳純…手、出して…」  僕の申し出の意図を鋭い彼はわかっているようで、返事がなかなか出てこない。じれるように、せがむ。 「僕…頑張りたい…、早く、佳純に触れるように…」  だから、お願い…とまっすぐ見つめながらせがむ。彼は、心配そうに眉根を寄せるが、一息ついてから、その大きい手を僕の方に差し出した。弱った足を立たせて、一歩踏み出して、彼の手の前に立つ。手のひらを天井に向けたその手のひらを見つめ、ゆっくりと、僕も手を伸ばして、人差し指の爪先が触れ合う。びり、と冷たい電流が身体を巡った。く、と眉を寄せる。でも、待ってくれている彼の手のひらに揺れる指先でなぞるように触れる。肩がすぼまり、また違和感が走る。  は、と詰まっていた息を吐きだし、片手を胸元の前で握りこむ。心臓が、やけに動きを速めている。つむってしまいそうになる瞳で彼の瞳に目線を移すと、苦し気に僕を見つめていた。それに、吐息が漏れ、眦が濡れた。  佳純は、傷ついている。それなのに、僕の身体は彼を拒んでいて、今すぐ抱きしめて甘やかしてあげたいのに。  それでも、佳純は、僕のすることを、じっと待ち、静かに応援してくれているのだ。  その健気な愛に、涙があふれる。 「七海…」 「…やだ、やめない…」  ぎゅ、と彼の指先を握りしめる。ぐ、と胃が縮まるような固くなるような気持ち悪さが苛む。 「七海」 「嫌だっ僕は佳純に触れたいっ」  さらに指先に力を入れると、手が丸まり、第二関節がひんやりと手のひらに包まれた。その温度に、少し身体のむかつきが安らぐように感じた。頭がくらくらしてきた。にじむ視界で彼を見つめる。佳純は、さらに眉間の皺を濃くして、口を開こうとする。 「僕…佳純が好きなんだ…佳純に触れたいんだ…」  ぼろ、と頬を大粒の雫が滑り落ちた。佳純がそれを拭おうと手を差し伸べたが、その手をすぐに握りしめて膝元に落とした。その仕草にも、胸がつまり涙があふれた。 「僕は…佳純だけ…佳純にだけ、触れてほしいのに…」  呼吸が短くなり、頭が霞がかってくる。佳純は目を見張り、奥歯を噛み締めた。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、親指で僕の手の甲を少しだけ撫でた。そして、まなじりを下げて、頬を緩めた。 「七海が、そう言ってくれて、俺…それだけで充分すぎる…」  目を細めた佳純の表情と、かすかに撫でられた手の甲から、身体の奥に、どくりと熱が湧くのを感じた。その瞬間に、膝の力が抜け、かくんとその場に崩れ落ちてしまった。佳純は、すぐさま手を差し伸べたが、一瞬ためらい、その間に僕は床に尻もちをつく。手を、ぎゅ、と握りしめられた。名前を呼ばれて顔をあげると、腰を浮かせて固まる佳純がいて、つい口元が綻ぶ。 「へへ…嬉しくて、腰抜けちゃったのかな…」  力なく笑いながら、握られた手に力をこめて、立ち上がろうとすると佳純も手を握り力を貸してくれる。それでも、力の抜けた膝にはいうことを利かず、立ち上がることができない。何度も挑戦するが、だめだった。 「七海、今、人を呼んでくるから…」  握りしめていた手の力を緩め、佳純はほどこうとした。それを両手でしがみつく。 「佳純…佳純が、起こして…」  振り返る佳純は瞠目している。そして、眉間に皺を寄せ嫌がるような彼に僕は、お願い、と縋った。 「大丈夫、僕が、そうしたいから…」  佳純は長い沈黙のあと、小さく、わかったとつぶやいた。苦し気なその一言に、ちく、と胸が痛むが、それ以上の痛みをきっと佳純は毎日のように受けていたのだろうと思うと、笑顔でありがとうと告げるしかなかった。 「いくぞ」 「んっ…」  佳純が声をかけたあと、脇の下に腕が差し込まれ、立たされる。よろけて、逞しい胸元に顔を寄せると、む、と彼の匂いがした。ぼや、とする脳に甘い匂いが届いた瞬間に、ぐ、と内臓がせり上がる感覚があって、喉が詰まり苦しい。口元を手のひらで覆うのを気づいてか、佳純は長い脚で急いで僕を抱きしめてベッドに降ろす。すぐさま身体は引かれ愛おしい体温は去る。  吐息が苦しく震え、身体も揺らいでいた。 「ごめ…ありがと…」 「…気にするな」  ベッドから数歩後ずさるように距離をとった佳純は、できる限り優しくそうつぶやくと、そのまま扉の外へ出て行ってしまった。しばらくすると、医師はやってきて僕の容態を見た。その頃には動機も冷えた温度ももとに戻っていた。  す、と涙が枕に滑り落ちた。 「先生…」  脈を測り終え、機材をカバンにしまう医師に声をかけた。眼鏡をかけた医師らしい風貌の先生は、椅子に腰かけた。 「僕は、どうしたら、元通りになりますか…」  高い天井を見つめながら、静かに尋ねた。先生は、息を飲んだあと、ゆっくりと答えた。 「戻りますよ、大丈夫」  優しい声色に僕の心は和らいでいくのを感じる。 「早く、戻りたいんです…これ以上、彼の傷つく顔は…見たく、ない…」  はらはらと次から次へと眦から雫があふれ、枕を濡らす。  こぼれる吐息が強く揺れ、苦しさを募らせる。 「でも、僕…彼から…離れたくないんです…」  ねえ先生、とゆっくりと眼差しを向けると、苦しそうな顔つきだった先生は、表情を崩して、優しく答えた。 「大丈夫、絶対に戻ります。ただ、焦ってはいけません」  陽だまりのような匂いのするガーゼの柔らかいハンカチで僕の目元を先生が拭った。 「今、七海さんの身体はゆっくりと回復しています。大丈夫。それに、運命の相手だからこそ、より身体が拒絶しているのです」  皮肉ですが、と眉を下げて先生は微笑み続ける。 「彼という運命を求める本能と、運命と番うためにアルファを嫌がり守る本能が、上手に連結できずに戦っているのです。ただ、それだけなんですよ」  思考がうまく回らない頭はよく理解ができなかったが、先生が優しく、愛ってうまくいかないときもありますよ、なんて言って笑った。  僕の運命は、佳純なんだ。  そう、なんとか頭は理解して、心に落とすと、ひどく安心した。やっぱり、佳純は、僕にとっていなくてはならない存在なんだ…  ゆったりとまばたきをすると、するすると意識を落とした。

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