料理雑誌を開いたまま膝に置き、僕は窓の外をずいぶん眺めていたらしい。がちゃ、と控え目に開かれたドアの音で、は、と意識を戻す。佳純が起きている僕に気づくと目を見張り、すぐに視線を避けられてしまった。ネクタイを緩めながら、彼は奥にあるクローゼットへ足を進めた。 　避けるようにそらされた視線に、ちくりと針の刺されたような痛みが身体に走る。声をかけたかったけど、怖くてできなかった。 　いつものスウェットのパジャマに着替えた佳純は、部屋のライトをやや落としてソファに腰掛けた。同じ空間にいるのに、佳純がすごく遠い存在に感じた。 「身体に障るぞ」 　毛布を引き寄せる佳純は視線を僕にやらずに独り言のように言った。前までは、読み取りにくい彼の表情や声色から気持ちを汲むことは僕にとっては簡単だった。それなのに、今の僕は彼の心情が読めない。 「佳純…」 　絞り出した声は、か細く震えていた。佳純は、ぴくりと身体を反応させ、しばらくしてから、僕に視線を向けた。ベッドから抜け出して、ソファに近づく。佳純は黙ったまま、僕の言葉を待ってくれていた。瞳は優しさを含んでいるが、その分、戸惑いに揺れている気もした。 「…僕、実家に帰った方がいい？」 　肩にかけていた軽く温かいカーディガンを握りしめながら、彼に尋ねた。眉を寄せて、彼は立ち上がった。頬の筋肉が細かく震えているように見えた。うっかりとすると涙をこぼしてしまいそうだから、気を張りつめて彼を見つめる。 　自分がオメガとして、不良品のようになってしまってから、ずっと考えてはいた。それでも、寝顔の佳純を見ると、一緒にいたいと思ってしまい、言い出せなかった。久しぶりに会えたというのに、こんな悲しい話をしなくてはならないことが、苦しい。 　佳純は、唇を数度開けては引き締めた。ぐ、と奥歯を噛むと、顔をそらし苦しそうにつぶやく。 「七海が、そうしたいなら…」 　それが、彼の精いっぱいの優しさだということは感じていた。 　行くなと縋ってほしいと願うのは、僕のわがままなのだ。は、と小さく息を吐き、よろける身体をソファに腰降ろすことで気づかれないようする。膝元に視線を落とし、両手を握りあわせる。 　本当は、ずっとそばにいたい。会えなくても、夜中こっそり起きて、佳純の寝顔を見つめているだけでも良かった。それでも我慢するから、ずっと、佳純の手のもとに置いてほしかった。僕をずっと、佳純のものにしておいてほしかった。 「七海…」 　すぐそばでかすれたバリトンが聞こえて視線をあげると、珍しく彼の方から僕に近づいてくれていた。隣に立ち、僕を見下ろす佳純の耳元には、いつものピアスが月明かりで光って見えた。 「七海…」 　柔らかいカーペットに膝をつき、僕を見上げてくる。彼のこの深い美しい瞳をこんな近くで見るのも久しぶりだと、心がじわりと熱を帯びる。 「七海をすぐうちに連れてきてから、ご両親には連絡をいれてある」 　佳純は、小さく話をはじめた。そこまで気を回してくれていることにも驚いたが、彼が僕の親と連絡をとっていることにも衝撃を受ける。 「体調が悪くてうちで面倒を見ていることになっているが、ご両親はひどく心配なさっていたから…」 　ソファに右腕を乗せて、手を強く握りこんでいる。ぎり、と音がして、その手を優しくほどいてあげたかった。でも、伸びそうになる左手を右手で離さないように力を込めた。 「ご両親は…七海が、帰ってくることを…待っている、と…思う…」 　優しい父と母を思い起こせば、会いたい気持ちがないわけではない。オメガの僕を心配している両親のことも容易に想像がつく。会って安心させたいという心も嘘ではない。 　だけど、僕は、目の前の最愛の人の、苦しむ表情のまま、距離をとってしまっていいのか、未練がましく、決断が鈍っていた。 「七海、泣くな…」 　佳純が吐息を苦し気に吐くと、より眉を寄せて僕に囁いた。 　ばらばらと涙は止まらない。 　それでも、いつも僕を優しく慰める涙を拭う冷たい手のひらは、出てこない。 　首を垂れる佳純があまりにも小さく見えて、涙がよりあふれる。すぐそこに大好きな人がいるのに、抱きしめることも慰めることもできない自分の無力さに、息が漏れる。 「わかった…」 　小さく答えると、佳純は、瞠目しながら頭を上げた。そんなに驚くことないのに。今、自分が薦めたのだから。ぎゅ、と唇をかみしめてから、できるだけ明るく答えた。 「正月も、ここで寝正月しちゃったからさ…いつまでも、佳純に、迷惑も、かけられ、ない、し…」 　でも、結局は、語尾に近づけば近づくほど、涙が遠慮なく零れ落ちていってしまう。佳純は、ぐしゃりと顔をゆがめつつも、僕を見つめる瞳を動かさないでいてくれた。 「…今月、」 　佳純の右手首のスウェットシャツを握りしめて、自分を奮い立たせた。 「今月いっぱいで、回復しそうになかったら、僕…ここを、でていく、ね…」 　できる限り、柔らかく言葉を伝えるよう、頬をゆるめるよう、身体に命令して、絞り出した。僕の出した解答に、佳純は、硬直し息をつめた。しばらくして、深く息を吐いてから、左手で作った拳で自分の膝を数度軽く叩いてから、わかったと答えた気がした。 　彼の服を握りしめた手を、なんとか離して、先にベッドに戻り、布団をかぶる。後ろから、小さく、おやすみと聞こえた気がしたが、僕は嗚咽をこらえるのに必死で答えることができなかった。 　どんなに身体が拒絶しても、強く強く抱きしめてほしかった。離さないと誓ってくれたあの日のように、お互いがひとつの身体になってしまうかのような錯覚を起こすほど、包み込んでほしかった。 　自分の感情で手一杯で、僕は後ろで震える彼になんて気づくことができなかった。