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第39話

 気づくと日が昇っており、彼はすっかり姿を消していた。頭がはっきりせず、瞼はずっと泣き明かしたせいで重く、瞳が溶けてしまいそうだった。  時間をかけて着替えをし、昼食をとり、ゆるやかに時間を過ごした。これからのことを、どうしようかと考えていても、僕に出せる答えなんてなかった。タイムリミットを提示したのは、未練がましい僕の最後の悪あがきだった。よりによって、閏年でない短い今月で、彼を受け入れられる身体にするためにどうすれば良いかは僕には見当もつかなかった。  定時通りに医師が様子を伺いにくる。その内容を伝え、早く彼への反応を改善させたいと強く願い出るが、曖昧ないつも通りの答えで終わってしまった。  夕暮れに染まる部屋の中で、サイドテーブルで眠っている携帯に手をかける。久しぶりに起動する画面には、両親からの着信が残されていた。明るく話せる自信はなかったが、きちんと一度話をしないといけないと思ってはいた。  数コールのうちに、母親のいつもの声が聞こえた。 「もしもし、母さん…?」 「七海? やっと連絡よこしたわね~」  久しぶりの息子の声にも関わらず母親は恨みがましい声で電話越しに話しかけてくる。いつものテンションに、ひどく安心していた。 「ごめんね、心配かけて」 「便りがないのは元気な証拠だと思ってたわよ」  本当に便りが出せないほど元気ではなかったのだけれど…と心の中でつぶやくが、後ろで、父さんの声が替わって替わってと言っている声が聞こえて、くすりと笑ってしまう。母は父を無視して、話を続けた。 「それに、佳純くんがよく連絡をくれてたからね」  佳純、という名を母の口から聞いて、どきりと心臓が跳ねた。 「七海が倒れたって聞いて心配したけど、佳純くんがいてくれるから大丈夫だと思ってね」  母は、まるで近所の知り合いかのように佳純の話をした。毎週必ず連絡をやり取りしていたこと。二人を安心させるために、直接、佳純が実家に赴きスーツに菓子折りをもってやってきたこと。そして… 「ママ、夢だったの…」  うっとりと電話越しで母親がつぶやく。数年前に、人気若手グループの男の子が恋愛ドラマの主演を務めていた時に、年甲斐もなくキャーキャー騒いでいたときの表情を思い出してしまった。 「息子さんを僕にください的なやつ…」 「…え…っ」  握っていた携帯を落としそうになってしまい、急いで抱えなおすと、電話先でごそごそ物音が聞こえて、両親の争うような声が聞こえた。大丈夫? と心配で声をかけると、父親が電話を替わったようだ。 「パ、パパは、まだ認めんぞ!」  鼻息の荒い父が声高々に続ける。 「七海はまだ高校生だ! どこの馬の骨かわからんやつに、うちのかわいい七海は渡せん!!」  いつも柔和な父親が、昭和のおやじのような口調で、コントなのかと思ってしまった。話の内容自体も、現実味が薄く感じられ、耳を通って流れていく。 「何いってんのパパ! 御曹司よ! イケメンよ! 玉の輿よ!」 「いや! まだ早い! だめだ! やっぱり一刻も早く、七海にはうちに帰ってきてもら…」  きゃいきゃいと受話器越しに両親がそれぞれの思いを胸にやり取りをしている。僕は置き去りにされたまま、話がどんどん進んでいる。やっと、話の内容がかみ砕けてきて、じわじわと身体の熱が高まる。 「なっ、僕と、佳純は、そういうんじゃ…」 「そんな今更照れなくても大丈夫よっ佳純くん、私たちなんかに土下座して挨拶してくれたのよ~」  愛っていいわよね~と母がまたうっとりとつぶやき、後ろで父がきゃんきゃんと騒いでいる。  一体、あの無口で大柄な男が、ただの一般家庭の僕の家で、両親にどんなことをしたのだろう。両親の話が本当であれば、それって、つまり…。  そこまで、頭が回って、は、とやっと気づいた。きっと、この話は、僕が倒れてすぐの時の話だ。  こんな身体になってしまった僕とわからないうちの話だ。  うなじを手のひらで覆い、ぎゅ、と力を入れる。 「本当に、もう、そういうんじゃないから…」  僕の声色に気づいたのか、母は静かに、僕の名前をつぶやいた。 「三月になったら、一度、家でゆっくりしようかな、って考えていて…」  いいかな、と力なく尋ねる。  熱くなった身体は、もう冷えていた。  僕の身体のこと、両親はどこまで知っているのだろう。いつか、説明しないといけないのかな…。自分の不貞を両親に伝えることは、あまりにもハードルが高いが、オメガとして生まれ自己管理が足りなかった自分の責任でもあるから、仕方がない。覚悟するしかないのだ。 「それはいいけど…七海はそれでいいの?」  昨夜も、そんなことを聞かれたなと思い出す。  医師には、時間をかければ絶対に戻ると力強く言われている。信頼のできる言葉だ。しかし、その時間はどれだけ必要なものなのだろうか。佳純には、佳純の人生がある。あれだけの魅力あるアルファなのだ、引く手は数多ありすぎるくらいだろう。そうした時に、僕が邪魔だと思われたら、それこそ僕は生きていけないと思うのだ。だとしたら、もう思われているのかもしれないが、軽いうちに、良い経験をしたな、くらいのうちに、彼の前から去りたいと切に願うのだ。 「うん…いつまでも、佳純に甘えてられないからね」  睫毛が震えているのを感じて、瞼をきつく閉じる。声色は明るいままであるよう細心の注意を払いながら答える。 「…それ、佳純くんは何て言っているの?」 「なんてって…」  母が聞きたいことの真意がわからずに、問い返すようにつぶやいた。母の声色はいつになく、真剣みを帯びていた。 「いい? 七海は、昔っから言葉が足りないの。思いは言葉にしないと伝わらないのよ?」  そのくらい、わかってるよ…と答えたかったが、声にはならなかった。  佳純を前にすると、遠慮して思いが言葉にできない心当たりが多すぎたからだ。 「七海の一生は七海のものだから、思うままになさい。でもね、佳純くんは、あなたのこと、大切に思ってくれてるんじゃない?」  そう、なのだろうか…  明らかに距離をとられているのは、嫌というほど実感してしまっている。その寂しさに何度も夜、涙をして、自分を責めた。  …それでも、昨夜、佳純は僕の意思を、聞こうとしてくれた。 「本当に好きな人なら、遠慮することないのよ。甘えられるのも、男は喜ぶもんよ?」  ねえ、パパ。と後ろにいるであろう父に呼びかける母の声は、女の声だった。 「七海」  父が電話を替わり、優しく語りかけてくる。 「七海の全部を受け止められないようなら、そいつとは別れて、パパのところに一刻も早く帰ってきなさい」  パパが七海を幸せにするから! と力強く言われ、親バカさに頬が緩む。  この過保護さは、オメガだとわかる以前からのものだ。僕がオメガだとわかる前から、父は僕に甘かったし、母は厳しくも優しかった。オメガだということを特別視したり悲観的になったりしない両親は、僕を心の奥から安心させてくれた。 「そうよ、七海! 七海が佳純くんと別れるならママが佳純くんと…」 「だ、だめっ!」  絶対ダメ!!! と受話器の後ろで父の絶叫が聞こえた。むふふ、と得意げに笑う母の声は優しいものだった。 「いつだって帰ってきなさい、ここは七海の家だから。でも、後悔はしないようにね」  じゃあ、パパのご機嫌とるから、またね~と明るく電話は切られた。電話越しだが、明るく優しい両親の姿がすぐに目に浮かぶようだったし、身体の奥がぽかぽかと温かい。誰もいない黄昏時の淡い部屋でとても静かだ。  柔らかいソファに身体を預けて、腹部をさする。  僕がオメガでなくても、佳純は、僕を必要としてくれるのだろうか。  ずっと気になっていた、淡い期待が胸の奥でざわつく。

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