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第40話
ソファに腰掛けていると、目の前にこの屋敷の使用人が食事を運んできた。いつもは、トレーひとつの一人前で、量も少ない僕のものだけだが、今日はもう一つトレーがあり、サラダなど大皿のものも運ばれた。どうしてか尋ねようとしたが、使用人と入れ違いに佳純が帰ってきた。
随分早い帰りに驚いていると、佳純は気まずそうに小さく微笑んだ。
「おか、えり…」
なんと言葉をかけていいかもわからず、そう絞り出すと、佳純はただいまと囁き、いつもの席に着いた。そして目の前の料理を覗き込む。
「どうして…」
そんなことを言うのも失礼だ、と言ってから思ったが、佳純は眉を下げて答えた。
「…凛太郎に、叱られてな」
そういわれると、なんだか、左頬がやや赤みを帯びている気がした。
「えっ、本当に殴られたの…?」
「昔から凛太郎は手が早いんだ…」
肩をすくめて佳純は口角をあげていた。凛太郎の明るい笑顔が頭に浮かび、僕も笑った。ふ、と佳純と目が合う。柔らかい表情をした彼と久しぶりに目が合った気がする。
「佳純…」
名前を呼べば、彼は僕の続きの言葉を優しく見つめて待ってくれる。それに、身体の奥がじり、と焦げるように熱を持つのを感じた。凛太郎も、両親も背中を押してくれた。
深呼吸をして、息をひそめて、静かに言葉を紡ぐ。
「これから、毎日、一緒に食べられる…?」
指先をもてあそびながら尋ね、ちらりと目線をやると、彼は少し押し黙ってから、わかったと答えた。その表情や声色は温かみがあり、じんわりと指先に血が巡った。ありがとう、と小さくつぶやき、二人で温かい夕飯に箸をつけた。
美しい所作で食事をする佳純は、品がよく育ちの良さがうかがえる。僕は、佳純と過ごせる、久々の居心地のよい空間に高揚し、いつもより食べ過ぎてしまった。しかし、机には食材が残っている。佳純は体格の通り、色々なものを残さずきれいに食べきる。それなのに、目の前に残飯があるが、佳純も満腹のようだった。
「食欲、ないの?」
おそるおそる尋ねてみると、佳純は、すぐに柔らかい表情をつくり、少しな、と答えた。
そういわれると、少し、痩せた気がする。前よりも、顔色も悪く、クマが濃いような。
「生徒会、忙しいの?」
眉を寄せ、驚いた顔をした佳純だが、凛太郎か、と小さく一人つぶやき、安堵したような溜め息をついた。
「いや、大したことはない」
あれだけのマンモス校を立て直すには相当な力を要することだろう。疲弊した姿の彼を何度も見てきたことを思い出す。疲れている彼に、これ以上甘えるのは、よくない。そう思い、この後は静かに寝ようかと考えた。その時に、今日、両親に言われたことを思い出し、胸に手をあてて、しばらく考えた。
意を決して、拳を握り、食後の温かい飲み物を味わい一息つく彼に、少し近づく。
「佳純、疲れてるよね…」
内腿を寄せ、身体を小さくさせながら、視線をさまよわせながらか細く尋ねる。質問の意図がわからないようだが、佳純は優しい眼差しで僕を見つめている。その瞳の色に、身体が弛緩し、深く息を吸う。
「あの、ね…できれば、リハビリ、したいんだ…」
日にちとしてカウントすれば、もう三十日もない。きっと忙しいだろうから、毎日じゃなくてもいい。と矢次早に言葉を並べる。ぎゅ、と瞼を閉じてから、彼を見上げると、クマをつくった彼の目元は甘く細められていて、うなずいていた。受け入れてもらえたことの喜びで脳が淡くしびれ、体温が上昇する。久しぶりの高揚感にすっかり舞い上がっていたが、それを一生懸命に残った理性で抑え込み冷静を装う。
「じゃ…手、貸して…」
ソファの端まで動き、彼のななめ前に座る。手のひらを掲げるように手を差し伸べられて、久しぶりの接触に、どくどくと心臓が大きく跳ねている。目の前の大きな手のひらに触れられる喜びで、指先が震えているのに気づき、一度出した手を胸元に戻した。その様子に、少し眉を動かした彼に気づいて、慌てて弁解する。
「ご、ごめんっ…そうじゃない、から…ちょっと…、久しぶりだから、どきどきしてる、だけだから…」
そういうとなんだか恥ずかしくて、耳の先まで熱い。僕のその様子を見てか、佳純は安心したように破顔した。そのとろけるような笑みに、ますます背筋に電流が走る。
キスしたい…、うっかりそうつぶやいた心の奥の自分に気づき、急いで、俯き、唇を嚙み締めた。しかし、余計にキスがしたいと唇がうずいているように感じられて、恥ずかしい。
「…七海?」
心配そうに呼びかける佳純に気づいて、顔をあげると、伸ばされた手を引っ込めようとしていた。
「やだっ」
急に起きたことで、何があったのか自分でもわからなかった。しかし、目をきょときょと動かして状況を把握する。戻される手が寂しくて、せっかくの機会を失うのが嫌で、咄嗟に彼の手を両手で握りしめていた。意識すると、さらにぎゅ、と力を込めて握りこんでしまう。佳純も目を見張って、唖然としていた。
以前のような、身体の不調は全く感じられず、むしろ、初めて触れ合ったかのような浮遊感を伴う恍惚とした気分になる。
「だいじょ、ぶ、だ…」
同じように目を見開いて、小さく息を吐く。頬に熱が集まっていて、どくどく音がする。佳純も、手と僕を交互に見てから、眉尻を下げて頬を緩めきった。
「七海…よく、がんばったな」
柔らかいバリトンが鼓膜に揺らし、甘い眼差しに脳の奥が甘く痺れる。
「佳純…」
ひやりとする手のひらに指を這わすと、じりつく熱が溶けていく。懐かしい感覚に、ふる、と身体が震える。視界がにじみ、手のひらを引き寄せる。長い指先が額にかすかに触れると、ぴくりと手のひらが固まる。
「…佳純…」
吐息が手のひらにぶつかって、自分の唇にかかる。一度、まばたきをゆったりとしてから、目線を上げて佳純を見つめる。
「もっと、褒めて…」
淡くつぶやくと、時間をかけて、そろそろと手のひらが意思を持ち、僕の顔に触れた。つ、と頬に指先がかすめるとじり、と痺れが生まれる。それは、心を焦がすような期待に膨らむ官能的なものだった。目を伏せ、形の良い爪と、怖がるように動く指先を見つめる。それは、じっくりと時間をかけて、僕の輪郭を辿り、耳たぶをなぞった。
「っ…」
ぞく、とうなじから背筋をめぐる電流に思わず吐息をつく。冷たい手のひらが僕の熱い頬を包みこむと、佳純は震える声で僕の名前をつぶやいた。その瞳は、揺れていて、今にも泣きそうだった。焦がれるようにお互い名前をつぶやく。そうだ、こうやって、僕たちは愛し合っていたんだ…。頭の中が、ぼぅと霞がかり、僕は首を伸ばし、彼の口元に近づく。鼻先がかすめたとき、彼の甘い匂いを身体が感知し、す、と体温が下がるのを感じた。ぱち、と目を開き、彼に気づかれないように、ゆっくりと姿勢を戻した。
「きょ、うは、これで、我慢しとく…」
へへ、と笑って見せると、彼は少し考えた素振りを見せたが、すぐに微笑んで、するりと頬を一撫でして去っていった。名残惜しくて、掴んだ手首はずっと握っていたかったが、冷えた体温を悟られるのが怖くて、泣く泣く手放した。
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